7 拒絶
けれど、ケルティが完全にティアのほうを向く前に、硬い音が響いてきた。靴音だ。複数、大股に近づいてくる。
「まずっ」
ケルティがつぶやいて、すばやく近くの曲がり角に隠れた。ティアも続こうとしたが、そのときにはもう、廊下の向こうに、あざやかな群青色が見えていた。
じつに一月ぶりに見る、王の姿だった。うしろにシャウラと、近衛らしき兵士を二人従えている。こちらから見えているということは、あちらからも見えているだろう。ティアはそっと壁ぎわによけ、目を伏せて、その場に留まることにした。
無視して行ってしまうだろうというティアの予想に反して、近づいてきた王は、ティアから数歩離れた位置で立ちどまった。
「ここでなにをしている」
嫁いで一月。はじめて夫である王からかけられた声は、突き放すような響きを持っていた。
曲がり角の向こうで息を殺しているだろうケルティの気配を探りつつ、ティアは口を開いた。
「ごきげんよう」
「なにをしているかと聞いた」
舌にのせた挨拶は、にべもなく切り捨てられた。引きつりそうになった顔にどうにか笑みを貼りつけて、ティアは無邪気を装った。
「ええと。探検、でしょうか?」
王が苛立たしげなため息をつく。硬質な紫水晶の、厳しい視線がティアを射抜いた。
「いたずらに出歩くな。あなたの存在は騒ぎを呼ぶ」
王は背後の兵士を見やった。
「――離宮までお送りしろ」
「待ってください」
兵士が一人進み出たので、ティアは急いで声をあげた。今ここにベネトはいない。予想していない出会いだったが、この機を逃したら、次はいつあるかわからない。
「ひとつ、申しあげておきたいことがあります」
王の目がひどくゆっくりティアに向けられて、視線が合う。それだけで一気に緊張が増したのを感じながら、ティアは腹に力をこめて、続けた。
「わたしは、あなたが思っていらっしゃるような緑野の王女ではありません」
いってやった。さてどんな言葉が返ってくるかと、ティアは息をつめて、王の反応を待った。
王が、おもむろに口を開いた。
「……だから?」
え、とティアは絶句した。
(だから? って)
すなおに続けるなら、だから、そんなに冷たい目で見ることないじゃない、とか、だから、じゃあどんな王女なのか聞いてよ、ということなのだけれど、でもそれらの言葉はあまりに甘えている気がして、口にすることはできなかった。
かすかに、王の口もとがゆるんだ。
「なにをいうかと思えば」
けれどそこに浮かんでいたのは、笑みは笑みでも、冷笑だった。
それも一瞬で彫像のような無表情に戻し、王は続けた。
「――あなたがどのような人間であろうが、そんなことに興味はない。離宮でおとなしくしていてくだされば、それ以上はなにも望まぬ」
群青色のマントをひるがえした王が、シャウラと兵士一人を引きつれ去っていく。残された兵士に、離宮までご案内いたします、と声をかけられても、ティアは黙ってそのうしろ姿を見送っていた。
「……ごめんね、ティア姫」
いつのまにか、ケルティが陰から出てきて、ティアのとなりに立っていた。
群青色が消えた廊下を見つめたまま、ティアは首を横に振った。
「大丈夫。ケルティ様が気になさることはなにもないわ」
ケルティがもの言いたげな目を向けてくるが、ティアは笑顔で封殺した。
「この方に案内してもらうから、離宮まで戻れるわ。途中でベネトとも合流できるだろうし、ケルティ様はここまでで大丈夫よ」
ケルティはためらうようにティアと兵士を見くらべていたが、ティアの笑顔が揺るがないのを悟ったか、小さくうなずいた。
「……うん。じゃあ、またね、ティア姫」
ケルティと別れ、兵士の先導で歩きながら、ティアは先ほどの王とのやりとりを思い出し、唇を噛んだ。
(ばかみたい。なにを期待していたのかしら、わたし)
ティアの目的はあくまでも、台本どおりの悲劇の死がもたらされる前に、ここから逃げ出すことだ。それさえかなうなら、王がティアをどう思っていようが、まったく問題ないはずなのに。
(そうよ、わたしだって――『あなたがわたしを嫌おうが、そんなことに興味はない。逃げ出すのを邪魔しないでいてくだされば、それ以上はなにも望みません』よ)
さっき王にいわれた言葉をまねて、心の中でそう吐き捨てる。
じわりと、唇から血の味がした。