36 それはヒロインではなく
薙がれた胸の痛みを、ティアは感じなかった。ただ、傷口が、灼熱のようだと思った。頭に白い靄がかかる。けほりと軽く咳きこめば、口からも赤い血があふれた。
さく、さく、と軽い足音を立てながら、カルミアが近づいてくる。
『おまえもおまえのその器も、これで終わりよ。おまえの敗因は、その甘さ。とっさとっさに感情で動く、その愚かさよ。二百年前から、なにも変わっていないこと。いえ、なにも学んでいないと、いうべきかしら』
こぽりと、また血を吐いてから、女神が声を出した。
『どういう、意味だ』
くすり。もうすぐそこまで来たカルミアが、ティアを、中の女神を見おろし、姉姫アーシュミーヤの顔で、凄絶な笑みを浮かべた。
『そうね。最期だから教えてあげるわ。あの弱々しい砂塵の神が、おまえに贈った果実。――あれに毒を盛ったのはね、私よ』
こみあげてきた血液ごと、大きく息をのみこんだのは、はたしてティアか、女神だったのか。
目を見開いて凍りついた女神を見るのが、愉しくてたまらないといった様子で、カルミアは言葉を続けた。
『袂を分かったあのとき、私はおまえを、重傷で済ませるつもりなんてなかったのよ。殺してやったつもりだった。なのに、おまえが瀕死ながらも生きていると風が知らせてきて、愕然としたわ。だけど私も、私とおまえの決別によって大きく動きだした情勢の中、死にぞこないにかまっている暇はなかった。だから、のこのこおまえの見舞いに向かう、砂塵のリモニの腕の果実に、毒の風を吹きかけたの。おまえが守っていないリモニの領域には、風たちなら簡単に忍びこめたし、さすが毒の神だけあって、あれの領域には毒があふれていたから、掠めてくるのは簡単だったわ。
そしておまえは私の思惑どおり毒を受け、リモニを敵として貫いた。おまえたちのどちらかでも、もう少しまわりが見えていたのなら、避けられた事態だったでしょうに。恋は盲目とはよくいったものね』
すうっと、カルミアが、黒い剣を振りあげた。
『すべておまえの愚かさが招いた事態だというのに、おまえは思わぬ悲劇に見舞われたつもりで、一人芝居を続けていたのよ。さんざんそれにつきあわされた、おまえの民の哀れなこと。その幕をおろしてあげるというの、感謝して逝きなさい』
黒い剣が振りおろされたのを、ティアはとっさに転がってよけた。自分の剣をつかんで走りだす。
足を取られる砂の大地を、わざと蹴りとばして砂煙を巻きあげ、追ってくるカルミアを牽制しながら走る。そうしながら、ティアは叫んだ。
「しっかりしてよ、女神様!」
今この体に、女神の意識は感じられない。戦意をなくして、奥に引っこんでしまったのか、呆然自失となっているのか。そのことにティアは焦っていた。
胸からの出血は止まらない。視界はどんどん白くかすんでいく。背後からの足音が、余裕を持って迫ってくる。この状態で女神の心が折れたのなら、あとはもう、殺されるだけだ。
こみあげてきた血を、走りながら吐き捨てて、ティアは声を張りあげた。
「あなたが優しく賢い女神様じゃないってことくらい、わたしはとっくに知ってるわ! 悲劇的に死んだ王女の魂なんて傍迷惑かつ悪趣味なものが大好きで、生贄が逃げたと知れば旱魃を起こし雷を降らせて怒りくるう、自分勝手で恐ろしい女神様でしょう、なのにちょっとなにかいわれたくらいでなにをしょぼくれてるの、らしくないわよ! 第一ここであきらめたら一人芝居のまま終了よ、砂塵の神様にも会えないままよ、それでいいのっ?」
すぐ背後で、冷えた声がした。
『がんばるわねぇ。おまえもゲンティアナの犠牲者でしょうに』
はっとして振りむいた瞬間、衝撃が走る。黒い剣が、ティアの体を貫いていた。
ティアがとっさに振りむいたことで狙いがずれたのか、急所を貫かれての即死はまぬがれたようだった。けれど、カルミアの突き出した黒い剣が、左胸の上から背まで貫きとおしているのを、ティアは、とほうもない熱さとして感じた。
けれど急激に、ティアの頭は冷えていった。今までにないほど、頭が冴えわたるの感じる。ティアはそうして、美しかった下の姉の顔にゆがんだ微笑を湛えてこちらを見る、カルミアに向けて口を開いた。
「わたしは、犠牲者じゃないわ」
ティアの体に黒い剣を突き刺したまま、カルミアが眉を寄せた。だがその表情もすぐ、優越感に満ちた笑みにとってかわる。
『そうね、おまえは犠牲にはならなかったものね。では、被害者といってあげましょう。どちらにしても哀れな――』
「哀れでもないわ」
カルミアの甘い声を、ティアは遮った。
「だってわたしは、自分の思うとおり動いたわ。自分の思うとおり神殿を抜け出して、自分の思うとおり砂塵の神様に会って、自分の思うとおり女神様を降ろした。傲慢と自己愛の結晶みたいな悲劇の台本に殉じたわけじゃない。これは全部わたしが自分で選んで、動いた結果よ。だからわたしは犠牲者でも、哀れでもないわ」
カルミアが一瞬、忌々しそうに顔をゆがめて、けれどすぐに、凄絶な笑みを刷いた。
『そう。だけどおまえは敗者よ』
そういいはなったカルミアが、ひと思いにティアの体から剣を引き抜こうとする、そのカルミア――の動かすアーシュミーヤの体に、ティアは剣がさらに深く刺さるのもかまわず、左腕ひとつで抱きついた。
『な……っ』
はじめて焦ったようなカルミアの声が、ティアのすぐ耳もとで聞こえた。
『離せ! この死にぞこないが――』
「嫌よ」
むせかえるような血の臭いの中に、ふと懐かしい、緑の匂いを感じた気がした。抱きついたまま、ティアは笑った。
「いったでしょ。わたしは、自分の思うとおり動くのよ」
だらんと剣を下げたままだった、ティアの右腕が持ちあがり、ゆっくりと肘が引かれていく。
そして突き出された一撃は、動きを封じられたカルミアの宿る、アーシュミーヤを貫いた。
『おの……れ……器、ごときが……』
黒々とした血とともに呪詛を吐きだしたカルミアの宿る、姉姫アーシュミーヤの瞳から、異質な赤い色が消えた。
青白いまぶたが落ちる寸前、本来の姉姫の、碧い色が戻ったような気がした。そして完全にまぶたが閉じられた瞬間、姉姫の体は、赤い閃光に包まれて砕け散った。
同時に巨大な砂嵐が巻きおこり、ティアの体は胸から剣を生やしたまま、砂を含んだ強風にもてあそばれる。
(カルミアの風だ)
ティアの中で、女神の声がした。
(最期に神力を振るったな)
砂嵐のうなりにまぎれ、その声もすぐに遠くなる。視界はとっくに砂で閉ざされ、耳鳴りが聞こえはじめた。
(ごめんね、女神様)
意識が、暗く落ちていくのを感じながら、ティアは心の中につぶやいた。
(砂塵の神様に、会わせてあげられないかもしれない)
(……おまえというやつは)
あきれたような女神の声が、頭の中に響いた。
(かもしれない、ではなくて、明らかに無理だろう)
(いや、でも、もしかしたら、ちょっと寝たら、さ)
『ティア』
砂嵐の向こうに、声が聞こえた。




