35 ふたつとひとつ
その身に女神を依り憑かせて、黒い獣を駆るティアは、まるで避けられているように、だれとも出くわさなかった。たしかに砂塵の国内を、砂塵の王都、神殿へ向かって進んでいるはずなのに、国を守る砂塵の軍とも、侵攻する緑野の軍ともぶつからない。見かけは同じ無人の異世界に、迷いこんでしまったのではと錯覚するほどだった。人影ひとつ見ないまま、流れゆく砂の大地に日が沈み、また昇った。
そうして二度めに昇った太陽が、ちょうど頭上あたりまで来たとき。もうじき王都が見えてくると、いっそう獣を急かすティアの耳に、ひどく懐かしい声が届いた。
「やっと会えたわ、懐かしいティア」
ぴくり、肩を揺らしたのははたして、ティアだったか女神だったか。ティアの中の女神が手綱を引いて、駆ける獣を急停止させた。
(今の声)
信じられない思いで、ティアは鞍にまたがったまま、声のしたほうへと体を向ける。
そこに、赤が揺れていた。
砂を含んで黄色く巻きあがる風に、あざやかな、血のように赤い髪が踊る。同じく真っ赤な唇に、妖艶な笑みを浮かべたその、砂地にぽつり立つ人影は、
「小姉様……」
真っ赤な長いまつげの下で、碧くつやめく魔性の瞳。肌の色は透けるように白い。湿地の民だった祖母の血が濃く出た、どことなく退廃的で、あやうい美貌をもつ下の姉、アーシュミーヤが、そこにいた。
獣からすべりおりたティアに、姉もまた、笑みを深めて歩みよってきた。緑野の王宮にいたころは、ティアを顧みることなどなかったのに。まわり中から追われる身になって、彼女も寂しかったのだろうかと、ティアは思った。
「本当に、懐かしいこと」
ひどく優しくつむがれたその声音は、あらがいがたい引力を持っていた。思わずかけよろうとしたティアの意思とは裏腹に、ティアの体はとびのいた。
どうして、と考えて、今この身には女神も宿っていたのだと思いだし、それから、女神はこの姉にひどく怒っていたのだということに思いいたって、ティアは血の気が引くのを感じた。
(でも、襲いかかるわけじゃなく、とびのいた? どうして)
眉根を寄せたティアの前で、姉姫は、そのとほうもなく美しいかんばせに、見る者をとろけさせるような笑みを浮かべた。
「あらあら、もう気づいてしまったのね」
『おまえ』
ティアの唇で、ティアの舌で、女神が、押し殺したような声を吐き出した。
『その娘はわたしのものだ』
姉姫は――少なくとも、姿は姉姫なそのひとは、鷹揚にうなずいた。
「知っているわよ」
低い声のまま、女神が続けた。
『魂を、どこへやった』
姉姫の姿をした、それの口角がつりあがった。さっきまでたしかに姉姫の声だったそこへ、べつの、ティアの知らない響きがまじる。
『哀れな娘。いかにもおまえの好きそうな、哀れで愚かな娘だった。供物となるを厭い逃げて、おまえの怒りを買ったのに、そのおまえを殺すために、この私に、自身を贄としてさしだした』
ティアは呆然とつぶやいた。
「あなた、だれ……? 小姉様をどうしたの?」
姉の姿をしたそれの目は、いつのまにか、両方とも赤く染まっていた。そこには明らかに、姉ではない、なにかべつのものの意思が宿っていた。
それが、立ちすくんだティアを映して、くすくすと笑う。
『さあだれかしら。仇神の眷属に、みすみす渡す名はないわ。おまえの、この小姉様の体は、生きているわよ。ただ魂はもうないわ。きれいなきれいな、肉の器よ』
青白いその手を、もう一方の手で慈しむように撫でて、それは続けた。
『この娘は私に願ったの。自分の体を使っていいから、女神ゲンティアナを殺してくれって。だから使ってあげているのよ? ……もっとも依り憑いた瞬間に、この娘の魂を私が食べてしまうとは、予想していなかったでしょうけど。でもしかたないわよね。生贄が捧げられなくて私もおなかがすいていたし、ゲンティアナの匂いが強い魂とひとつ体に同居するなんて、耐えられなかったんだもの。この体が死ねば私も死んでしまうから、体は大事にしないといけないけれど、魂はひとつだけあれば体を動かせるんだから、わざわざ我慢する必要はなかったわ』
絶句したティアの前で、それはすらりと、背から剣を抜いた。磨きぬかれた刀身が黒く光るその剣は、奉納でもされていたかのように厳かな気を放ち、柄には、五色の紐で装飾がほどこされていた。
『ここは砂塵の国。おまえも私も、器からは出られない。その条件だけなら五分ね』
だけど、とそれは笑みを深めた。
『覚えていて? かつてのおまえと私、神力はわずかにおまえに分があったけど、剣の腕は、私のほうが上だった。私は風刃だけでなくて、本物の刃も使いこなしていたんだもの。そして今、たがいに神力は振るえず、たがいの手には剣がある。加えて、私が宿るこの器はすっかり成熟した娘、そちらは未成熟の、しかも傷だらけの小娘。――ここでおまえはおしまいよ』
そういいおわるやいなや、それは襲いかかってきた。
ほかにはだれもいない砂地に、剣の打ちあう、鋭い音が響く。
ティアは、息もつかせず斬りかかってくる、下の姉の姿をしたそれの動きを、目で追うだけでせいいっぱいだった。実際に剣を振るい、切りむすんでいるのは、ティアの中の女神だ。
けれどティアの体が動いているのには違いなく、女神が派手に動いたり、剣を持つ腕に力をこめるたびに、ティアの体中に激痛が走った。女神神殿から脱出するときに負ったティアの傷は、まったく癒えていない。下の姉は華奢だが、ティアよりずいぶん上背がある。今のところ、たがいの攻めは拮抗しているように見えるが、このまま持久戦になれば、先にがたがくるのはどう考えても、ティアの体のほうだった。
(というかこのひとはだれなの、どうして襲いかかってくるの!)
剣戟の音が響く中、内心そう叫びつつも、ティアはなんとなく答えに行きついていた。
そして、そのティアに答えるように、ティアの口で女神が叫んだ。
『これに憑いているのはカルミアだ!』
ひときわ強く打ちあったらしく、腕がちぎれるような衝撃がきた。ティアはとっさに奥歯を噛みしめ、苦痛と悲鳴をすりつぶす。
(やっぱりカルミア……女神様と同盟を結んでいたけど、袂を分かって、女神様を風刃で切り裂いたっていうカルミアか!)
『そのとおり。大戦終結のあの日、おまえが、瀕死の状態まで追いこみながらとどめを刺さず、祠に封じたカルミアよ』
ぎりぎりと、切りむすんでいる刀身から、火花が散る。答えたそれ――下の姉の体に宿るカルミアの声と、その赤い瞳には、憎悪がこもっていた。
『大陸の統一を目指していた私にとって、こんな中途半端に切り売りされた大陸で生きながらえることのほうが苦痛だと知りながら、おまえは私を殺さなかった。敗者として、生きながら屈辱にまみれさせるほうを選んだのよ』
『……あそこでおまえを殺せば、当時おまえの支配下にあった海辺の民数百万が、主をなくし、大陸の各地へ無秩序に散らばると思ったからだ。それに……たとえ袂を分かったといえ、長年背中をあずけあっていたおまえを殺しきることは、わたしにはできなかった!』
『そうね、その甘さに感謝するわ。おかげで私は今こうして、おまえを殺すことができるのだから!』
つばぜりあいは、ティアの体の女神が押し負けた。ずずっ、と体がうしろへさがり、さらに押しかかられて、倒れこんだ。すかさず剣を振りおろしてきた姉姫の顔へ、ティアはとっさに、左手で地面の砂をつかんでぶつけた。
『甘さか。半身を見捨てたようなおまえに、わたしの心はわからぬか!』
そう言うや、ティアの体で飛び起きた女神が、アーシュミーヤの体のカルミアへ斬りかかる。大きく風を切って叩きつけられたその一撃を、横に向けた黒い刀身で受け止めて、今度はカルミアが吠えた。
『私の心がわからないのはおまえだ!』
びりびりと、打ちあった剣が、空気が震えた。
『私の半身は、私が統一を果たすために死んだの。迫る敵神の連合軍を前に、自分でなく私が生き残らなければ統一は果たせないと、自分がここで死んでも、生き残った私が統一を果たせば、自分の夢もまた果たされるからと……そういって、私を逃がして、ひとり、敵軍の足を留めるために残って死んだの! なのにおまえは、臆病風に吹かれたあげく中途半端な和平を叫び、あの子を殺した敵神にまで、私が統一するはずだったこの大陸を切り売りした! おまえこそ、私とあの子の、もっとも憎むべき仇だ!』
女神が動揺したのが、体を同じくしているティアにははっきりとわかった。そしてその隙を、切りむすんでいたカルミアもまた、見逃さなかった。
かん高い音を立てて、カルミアの剣が、女神の剣を打ちはらった。その勢いのまま、カルミアの剣が女神の――ティアの胸を薙ぐ。
カルミアの唇がゆがんだ。
『かわいそうにね。おまえの器は、まだ生きていたのに。おまえを宿したせいで死ぬのよ』
自分の胸から血しぶきが噴きだすのを、ティアは呆然と見おろした。
カルミアから飛びずさった女神が、砂地に剣を突き刺して、膝をつく。左手だけでは押さえきれない胸の傷から、ぼとぼとと、赤い血が落ちて、砂地を染めた。




