27 あがく者たち
切り立った崖に、荒波が、白い飛沫をあげて打ちつけている。
その崖の岩肌に、小さく開いた裂け目の中には、巨大な洞穴が広がっていた。
まわりを囲む岩自体が、ほのかな光を発しているらしく、ぼんやりとした薄明かりに照らされたその洞穴は、まるで神殿の中のような、静粛な空気に満ちていた。外の、荒波が打ちつける音も、ここには遠くしか届かない。
その、しんと冷えた空間に、虚ろな声が反響した。
「……見つけた」
しじまの染みる洞穴の奥に、女がひとり、たたずんでいた。岩間に燃える火のような、あざやかな真紅の髪を震わせて、女は――緑野の国の王女であり、海辺の国の王妃であった、今はそのどちらからも追われる身であるアーシュミーヤは笑う。
「見つけた。これで殺せるわ」
青ざめた絶世の美貌に浮かぶ碧眼が、うっとりと見つめる先。
洞穴の最奥で、崩れかけた岩の祠が、赤い光を放っていた。
*
頭がくらくらする。この神殿にあるという、隠し通路を探しはじめて、どれだけたったかわからない。口の中は乾ききって、もう唾液も出てこない。舌が喉にはりつくようだ。
四つん這いを続けたせいで、両手のひらと、両膝の皮が剥けた。両膝の傷口はドレスにくっついてしまったらしく、進むたびにざりざりと痛む。かなりひどい見た目になっていそうで、このときばかりは、傷口の見えない暗闇に感謝した。
吐き出した息はひどく熱く、すえたような臭いがした。ティアはくしゃりと顔をゆがめる。
時間の感覚はとっくに麻痺しているが、たぶん一日くらい前。指先で見つけた、甘酸っぱい臭いを発していたやわらかいなにか――おそらく供え物の果実――を、空腹に耐えかねて口にした。きっと腐っているだろうと覚悟はしていたが、予想以上の、舌を刺すような味のあと、しばらくは、焼けつくような胸、腹の痛みと、嘔吐が止まらなかった。ぐらぐら揺れる頭で、それでも前に進まなければと這いずって、その途中で体が動かなくなって床に伏した。神殿を汚して、もういっそ罰を当ててほしいと思うほどの苦しみだったけれど、雷がティアを貫くことはなかった。女神の目さえ届かない闇の中で、たったひとり、もがいているようだった。
どうにか意識を取り戻したのはついさっきのことで、焼けるような胸の痛みは少しだけましになっていたけれど、体の熱っぽさと重だるさは増していた。乾燥しきった口の中は嫌な臭いしかしない。両手のひらと両膝がじくじくと痛むが、姿勢を変える余力もなくて四つん這いの姿勢のまま、ティアはほとんど意地だけで、ずりずりと前に進んでいた。
もう、まわりが暗いのか、目が見えなくなってしまったのかわからない。ときどきなにかにぶつかるたびに、鈍い音は聞こえるから、耳はまだ機能しているはずだけれど。もしかしたら自分は、あの腐った果物を食べた時点ですでに死んでしまっていて、今は幽霊になって神殿の中をさまよっているのではないだろうかと、そんなことすら考える。けれど、それにしては、苦痛が過ぎた。
ふっ、と、かびくさい臭いが、鼻先をかすめた。それから、ひやりとした感覚。体の芯まで冷やすような、湿気を含んだ冷たい空気が、どこかから漂ってきていた。
どこから、と朦朧とした頭で考えて、ティアは右手を踏み出した。そこには、床がなかった。
「え……っ」
いや、正確には、床はあったが、段になっていた。疲れきっていたティアはそこで踏んばることができず、右腕と上半身が伸びて膝はついた体勢のまま、その階段をすべり落ちていった。
「……いた、い」
階にするなら三階分くらいの、ずいぶんたくさんの階段を、すべり落ちた気がする。落ちたままの体勢で、ティアはうめいた。
体中がずきずきと痛む。左腕が、妙な方向に曲がっているのを感じた。
奥歯を噛みしめて痛みを慣らし、少しずつ落下の衝撃が抜けていくと、落ちる前に嗅いだのと同じ、かびくさい臭いを感じた。
頬の下に感じる石の床は、ぬるぬると湿っている。外は旱魃のはずなのに、この場の空気は、冷たく湿っていた。それになんだかここは、さっきまでいた場所よりも明るい。明るいといっても、目の前にかざした自分の手がうっすら白く見える程度だが、今までの暗闇に慣れきったティアには、それで十分だった。どうも光源は、ティアのうしろにあるらしい。
ティアは右腕を支えに、ゆっくりと上体を起こしていった。落ちたとき、どこもかしこも打ちつけたらしく、きしむような痛みが体中に走る。それを、奥歯がすり減るほど噛みしめることでこらえ、起きあがった。
そして見えたこの場の光景に、ティアはほんの一瞬、痛みを忘れて息をのんだ。
青みがかった石の床に、苔がびっしりと生えて、その苔が、七色にぼうやりと発光していた。その神秘的な光のおかげで、この場にずらりならんだものたちの姿が、薄暗くもはっきりと見えた。
(大姉様……!)
今ティアがいるこの場所には、歴代の、悲劇のヒロインとなった王女たちの彫像が、整然とならべられていた。成人よりも大きな、二十体近い彫像が、ずらり三列でならんでいるさまは、いっそ壮観だった。
それらが悲劇のヒロインたちの彫像だとわかったのは、三列めの一番端に、真新しい、上の姉姫ミーアソティスの像があったからだ。おだやかな微笑みを湛えたその像は、彼女の葬礼で見たときと、寸分違わぬ姿でそこにあった。
(わたしもやがてはこうして、ここに納められる運命だったのね)
食い入るように見つめても、姉姫の像はなにも語らない。やがて驚きが去り、戻ってきた痛覚に低くうめいたティアは、自分の髪が揺れていることに気づいた。
(風が入ってきてる。……どこから?)
風をたどって、像の間を進んでいくと、真ん中の列の、奥から三番目の王女像が立っている土台と床との間に、わずかな隙間があいているのを見つけた。ゆっくりとしゃがんで、そこに手をかざしてみると、たしかにその隙間から、この場の湿ったものとは違う乾いた風が、手のひらに吹きつけてくるのを感じた。
ティアは黙って、その王女像を見あげた。
悲劇のヒロインとして死んだ王女の彫像は、世代を経るごとに装飾が増え、巨大化していく傾向にある。今ティアが見あげている王女像はだいぶ昔のものらしく、ここにある像の中では、ずいぶん小柄なほうだった。とはいえ、大の男よりも大きいし、なにより、石の塊である。
けれどきっと、隠し通路は、この下だ。
ぐっと膝に力をこめて、ティアは立ちあがった。とたん膝に走ったびりびりとした痛みも、背中から全身に広がった、吐き気をともなうほどの痛みもすべて無視して、その王女像に全体重をかけた。
王女像は、びくともしなかった。ティアは、王女像を押す体に、さらに力をこめる。さっき階段をすべり落ちたときに、痛めたらしい体中が悲鳴をあげた。
けれど。王女像の土台が、少しだけ動いた。
それに励まされて、ティアはいっそう力をこめた。体中が、今にも砕けそうに痛んで、胸に吐き気がこみあげる。脂汗がこめかみを伝って、目に入る。食いしばった奥歯が、ぎりぎりと嫌な音を立てた。
それでも少しずつ、少しずつ王女像を動かして、とうとうどかしたその下には。
暗いトンネルが、ぽっかりと口を開けていた。




