22 アーシュミーヤ
砂塵の国に入って二日め。あいかわらずエルナトに荷車を曳かせて、ごとごとと進んでいたツィーたちの目の前に現れたのは、もとは人里だったのだろう、黒く煤けたがれきが散らばる、焼け野原だった。
「なんで、ここはもう砂塵の国なのに」
海辺の国の町村が緑野の軍に焼きはらわれているのは、ここまでの道中でさんざん見てきたが、砂塵の国内でどうして、とツィーは布を握りしめる。
今日も今日とて荷車の上、ツィーがさしかける日よけの布の下に座る黒ずくめが、つまらなそうに答えた。
「野盗に堕ちた脱走兵のしわざだろ。ゆうべ入った酒場で、ここいらのごろつきどもが話してたよ。新参者がとんでもないって」
ツィーは膝立ちのまま、目の前の黒い背中を見おろして、首をかしげた。
「新参者?」
「緑野の脱走兵のこと。海辺の国はどこも戦場まっただ中、砂塵の軍はそんな海辺の応援に送りこまれてる、ってなわけで、どこへ逃げても戦場な海辺から、軍の守りが手薄になった砂塵へ、流れこんできてるらしいよ。本国の緑野には、アーシュミーヤをつれずに戻った瞬間雷で焼かれるらしいから、まさか帰れないだろうしね」
「焼かれるの?」
ぎょっとしてツィーが聞き返すと、黒ずくめは肩をすくめた。
「そういう噂。真偽は知らないよ、興味もないし。……それで」
黒ずくめはそこで、エルナトの手綱を持っている二番手の男に、声を向けた。
「獣を止めるなレサト。さっさと進め」
は、と、足を止めて焦土を見ていた二番手の男が、再び手綱を引きだそうとしたところで、
「待って!」
ツィーは声をあげた。
「生きてる人がいるよ」
がれきの中でも目についたのは、その人影が、あざやかな赤い髪をしていたからだ。砂塵の民の黒髪でも、海辺の民の金髪でも、緑野の民に多い茶髪でもない。かつて、勤め先の酒場でよく見た、湿地の民の占い師のような。
もしくは――。
「ちょっと!」
黒ずくめがめずらしく――どころかはじめて、焦ったような声をあげたのが聞こえたが、そのときにはもう、ツィーは荷車から飛びおりて、人影のもとへ走っていた。
真紅の髪をきなくさい風に揺らし、がれきの中に座りこんでいたのは、か細い女人だった。その横顔がはっきりと見える位置まで近づいたところで、ツィーは息をのんで足を止めた。
「……私を逃がしたあの人は、すべての罪を着せられて、首を落とされてしまった」
吹きよせた風にのって、歌うような声が、ツィーの鼓膜を揺らした。その声を聞いたとたん、すうっと、冷たい手で背すじを撫でられたような気がして、ツィーは思わず、一歩さがった。足もとにあったがれきを踏んで、がしゃりと、耳障りな音が鳴った。
それでも女人は、なんの反応も示すことなく、ただ、憂いに満ちた碧の瞳で、曇天の虚空を見つめていた。青ざめた顔の中で、唯一血のように赤い唇が、動いた。
「どうして終わってくれないの。私はもう、十分な悲劇を受けたというのに」
「さがれしもべ。あれのまわりが見えないの」
いつのまにか、黒ずくめがすぐそばまで来ていて、魅せられたようになっていたツィーは、はっとまたたいて我に返った。それから、まわり? と女の周囲に目を向けて、ぎょっとした。
呆けたように宙を見つめつづける、真紅の女の周囲には、がれきにまじって、緑野の兵士が複数人倒れていた。遠目でも緑野の兵士とわかったのは、いっしょに転がっている鎧兜が、海辺や砂塵の兵士たちではありえない、きんきらとした色合いだったからだ。倒れている兵士のだれにも、見えるかぎり、致命傷となりそうな外傷はついていなかったが、全員石のように硬直していて、すでに死んでいるとわかった。
そしてさらによくよく見れば、倒れている兵士たちの近く、がれきや、脱ぎすてられた兜にまじって、杯のようなものがいくつも落ちていた。
ツィーがそれらの杯に気づいたと同時、女がふいとこちらを向いて、その、青ざめやつれてはいるものの、それゆえいっそう凄絶な美貌が、ツィーを見た。
一度遠目に眺めたきりだが、ツィーには確信があった。そばにいる黒ずくめに勝るとも劣らない美貌の主など、そう何人もいるものではない。ましてや、湿地の民の、しっとりと情欲を煽るような深紅の髪よりさらに純粋な赤に近い、鮮血のような真紅の髪を持っているのは、
「アーシュミーヤ、様」
女の、長いまつげが震えた。かくり、と、まるで人形のように、その細い首がかしいだ。
「おまえは、だあれ?」
「あたしは、ツィーです」
いかにもたよりなげなその首は、かしげたままだと今にも折れてしまいそうに見えて、とっさにそう答えてから、少し考えて、つけくわえた。
「……あなたのかわりに海へ投げこまれた、身代わりの生贄、です」
なんのことかわからないといわれるかと思った。ツィーを身代わりにしたことは、当の王妃には伝わっていなかったかもしれないとも思った。けれど、そんなツィーの予想に反して、女は――海辺の王妃アーシュミーヤは、ゆるゆると碧眼を見開いた。人形のようだったその瞳に、じわりと色が戻ってくる。
「おまえ、が」
アーシュミーヤは立ちあがり、ツィーに歩みよってきた。角度によって青にも緑にも見えるその碧眼は今、ゆらゆらと光る燐のように、あやしく揺れていた。
「だれよりも優しかったあの人が、心を殺して、私のために捕まえてこさせた、私の身代わり。それなのに……やはり死んでいなかったのね。裏切り者はだれ。だれがおまえを逃がしたの。あの人の骨折りを、あの人の思いを、無駄にしたのはどこのだれなの」
呪詛のようにつぶやきながら、ところどころ爪紅の剥げた、まだらに赤い、長い爪が伸ばされる。息をのんであとずさったツィーの腕を、強い力がうしろに引いた。目の前が、黒一色に染まる。
無言でツィーを隠した黒ずくめの背中ごしに、一瞬、アーシュミーヤが憤怒の形相を浮かべたのが見えた。が、すぐに彼女は、それは美しく微笑んだ。
「いいわね。騎士様がいるの」
ただその碧眼だけは、冷え冷えとしていた。冷笑とともに、視線がはずれる。
「安心なさい、もう、おまえを殺す気はないわ。今さら殺したって、なんの意味もないもの」
くすくすと、おかしそうに、アーシュミーヤは笑った。
「笑い話でしょう? お膳立てされたとおりの悲劇を演じるまではしてあげるけど、悲劇の台本の最後に死んで、魂となって女神のもとへあがるのは、べつに私じゃなくてもいいだろうと思っていたのよ。死んで魂だけになれば、記憶も生前の面影も、すべてまっさらになるという。それなら、最後の最後で生贄が入れ替わっていても、女神にはわからないだろうと思ったの。あの人も同じ考えだった。だから私の身代わりとして、身寄りがなく、突然いなくなったってだれもそれほど気にしないだろう娘を探させて、生贄に仕立てあげたのだけど。……おまえが逃げなかったとしても、きっとうまくいかなかったわ。流れてくる噂を聞くに、女神は、私が死んだかどうか、感じ取れたみたいだもの。女神と王族のつながりを、甘く見ていた私の負けよ。
でも、もういいわ。あの人が死んだのに、すべてが終わってくれないのなら、私が終わらせればいいんだわ。おまえが生きているということは、私の敵は、女神だけではなかったということ。おまえを逃がして、あの人と私の計画を壊し、あの人と私の未来を壊そうとした者が、人にもいたということよ。そんな者が生きている大地に、いたくないもの」
甘やかな声で、そうさえずったアーシュミーヤの、顔こそこちらに向いていたけれど、その碧眼はすでに、ツィーを見てはいなかった。ぽっかりと虚ろな空洞に、ただ一条、狂気の光が灯っているような、その目にツィーは戦慄する。
ふらりと揺れるようにして、アーシュミーヤが歩きだした。
「終わらせるのは簡単よ。女神ゲンティアナを殺せばいいの。ゲンティアナが死ねば、緑野の国も、これまでどおりにはあれない。一気に荒廃するでしょう。王国間の力の均衡は崩れて、大陸中が戦乱の渦に巻きこまれる。いい気味だわ。私だけ不幸だなんて、不公平だもの。ゲンティアナが癇癪を起こさなければ。焦った緑野が、海辺を攻めたてさえしなければ。私はあのままあの人と、幸せになれるはずだったのに」
遠ざかっていくその背中に、思わずツィーは声をぶつけていた。
「あたしを、身代わりに死なせて?」
くるりと。鮮血のような真紅の髪をひるがえし、アーシュミーヤが振り返った。青白い顔の中、唯一真っ赤なその唇が、三日月のような孤を描いた。
「そうよ。そのほうがずっと有益だったでしょう? でも結局」
そこでいったん言葉を切って、アーシュミーヤは顔を伏せる。真紅の髪が前にこぼれて、その表情を覆い隠した。
「おまえは生き残って、手に入れたんじゃないの。私が、一度はこの手に抱きながら、残酷に奪われたものを」
低く、押し殺すようにそうつぶやいて、再び顔をあげたアーシュミーヤの顔には、一片の感情も浮かんではいなかった。
「――みんなぐちゃぐちゃになればいいんだわ」
言いすてて、ふらふらと歩きだす。そのうしろ姿を、ツィーはただ呆然と見送った。
「――ルリカの毒だ」
いつのまにかそばにいなくなっていた黒ずくめの声で、ツィーは我に返った。
黒ずくめは今、ツィーから見てななめ前に立ち、緑野の兵士だった複数の死体と、そのまわりに散らばっている、杯を見おろしていた。
「死体からかすかに、ルリカの花に似た甘い臭いがする。どの死体も、さほど悶えた様子がない。これだけの数がいながら全員馬鹿正直に飲みくだしたらしいことから見ても、おそらく砂塵の国原産の、ルリカの植物毒だ。味も臭いもほとんどなく、苦しみ少なく逝ける毒として、貴人のいざというときの自害用に、他国にも輸出されてる」
「……なんでそんなもの」
つぶやいたツィーを、黒ずくめが見た。
「あの女のしわざだろ。おおかた、自害用に持っていた毒を、絡んできたこいつらに盛ったんだろうね。傾国の美姫の酌だとでも、喜んで呷って死んだんじゃない?」
ばかにしたように鼻を鳴らして、黒ずくめが荷車のほうへ戻っていく。その背中を追いながら、ツィーはちらりと、アーシュミーヤが消えていったほうを振り返った。
「……緑野の女神様を殺すっていってた、あの人」
「ばっかばかしい」
ひょいと荷車に飛び乗って、荷袋に背をもたせた黒ずくめが、日よけの布をツィーに放った。
「狂った箱入り王女の戯言だよ。人に神殺しができるなら、とっくの昔に、周辺国の暗殺者が緑野の女神を殺ってる」
「それは、まあ、そうだけど」
自分も荷車の上に乗り、黒ずくめの頭上に日よけの布をさしかけながら、ツィーは小さく眉根を寄せた。
二番手の男が手綱を引いて、荷車は、またごとごとと進みはじめた。




