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20  女神の声



 神殿の門は固く閉ざされていた。


 篝火が焚かれていない今、侍女たちの持つ手燭だけが、たよりなげに闇を照らしている。周囲はまるで墓場のように、静まりかえっていた。


 ティアはおそるおそる、目の前に立ちはだかる、黒い檻のような門に触れた。とたん、ひやりとした金属の冷たさが伝わってきて、反射的に手を引いた。


 ここからでは、神殿の中の様子はわからない。門から神殿の正面扉までは、まだ十歩以上の距離がある。せめて門が開いていて、神殿のすぐそばまで行けたなら、中の気配に耳を澄ますこともできたかもしれないが。


 つめられない距離に、ティアが唇を噛んだときだった。



『哀れだな』



 声が、聞こえた。妙に反響して、二重に聞こえるような声だ。ティアは背後を振り返った。


「だれ?」


 しかしそこには、手燭をかざし、濃紺のお仕着せに身を包んだ侍女たちがいるだけだった。


「どうかなさいましたか」

「声が、聞こえたわ。だれかなにかいった?」


 緊張したティアの問いに、真ん中の侍女は眉ひとつ動かさず答えた。


「いえ。だれもなにも申しておりません」


『戦によって、恋い慕う相手と引き裂かれた。まさに悲劇だ』


「ほら、また!」


 動揺するティアと、いぶかしげな侍女たちなどまったく関知しない様子で、その不思議な、どこかいとけないような、女の声は続ける。


『だがたりぬ。そのようにかわいらしい、幼い悲劇ではたりぬぞ。もっともっとあの王を愛して、あの王もおまえを愛して、そのうえで引き裂かれすれ違い、憎しみあって死ぬくらいでなければ』


「聞こえないの? こんなにはっきりと――」


『無駄だ。いくら緑野の民といえ、神官でもないその者たちに、わたしの声は聞こえない。おまえは仮にも、このわたしがじきじきに、この国の統治を許した一族の娘。だから、ほかの者よりわたしに近いのだ。王族ならば皆そうだ』


 はっと、ティアは口を閉じた。


『……そうだ、王族は、皆わたしに近いのだ。だのに、愚かなアーシュミーヤ。このわたしを、あざむけると思ったとは』


 声には怨詛の響きがあった。


「まさか」


 ティアは息をつめた。


「まさか……女神、ゲンティアナ……?」


 心なしか先ほどよりもはずんだ声で、それは答えた。


『そうだ。いずれわたしに捧げられる、哀れでかわいい、わたしの王女。中断されてしまったようだが、そなたの演じる悲劇には、まだ期待しているぞ』


 ごくりと、ティアはつばを飲みこんだ。


 とっさに思ったのは、刺激してはいけない、ということだった。たとえ声が愛らしく思えたとしても、砂塵にいたころのベネトの報告や、さっきの侍女の話が本当ならば、この女神は、神殿にいた神官たちの命をいともたやすく奪っているのだ。


 けれどどうしても、これだけは聞いておきたかったから、意を決して、ティアは口を開いた。


「あの、女神様。――今、神殿の中に、ベネトはいますか?」


 答えが返ってくるまでの時間が、とほうもなく長く感じられた。


 女神の声があっさりと答えた。


『だれもおらぬぞ。わたしを悲劇のヒロイン以外でなだめられるはずもないと、神官たちも悟ったのだろう』


 瞬間、ティアは安堵で、体からほっと力が抜けるのを感じた。


 だから気も抜けて、ついつい、軽い調子で聞いてしまった。



「悲劇のヒロインって、そんなにいいものですか?」



 とたん、空気が変わったのがわかった。女神の声が聞こえていないらしい背後の侍女たちにも、空気が冷えたのは感じられたのか、数人がざわりと身じろぎする。


 怒らせたのかと、身を固くしたティアに、雷が降りそそぐことはなかった。が、



『――そう、とてもいいものだ』



 そう答えた女神の声は、ひんやりとした重苦しさを含んでいた。


『悲劇を眺めている間だけ、わたしは慰められるのだ。わたしだけではないのだと。そして、悲劇に散った王女の魂は、死してわたしのそばまで昇る』


 女神の口調は歌うようなものへと転じた。


『わたしの愛しい、哀れな娘たち。哀れな子はかわいいものよ、永遠に愛してやれる。だからおまえも恐れずに、悲劇的に死んでくるがよい』


 最後の言葉だけは、直接耳に吹きこまれたように、ひどく近くで聞こえて、ぞくりと背中があわだつのを感じた。


『だから』


 まるで内緒話をするように、耳元で、女神の声が続ける。体を凍りつかせたまま、ティアはその言葉を聞いた。


『そんなわたしの愛から逃げた、アーシュミーヤは許さぬ。このわたしの目の前で、だれもが目を背けるほどに、むごたらしく死なせぬかぎり。そうしたら、あの子もまた愛してやろう。監督不行き届きの王宮も許してやる。そう何度も伝えておるのに、まったく、王や神官たちの使えないことときたら。……だからおまえにもいっておくぞ』


 女神の声は、それまでの愛らしいものから、恐ろしい、割れ鐘のような響きに変じた。



『今の月が終わるまでに、アーシュミーヤをつれもどせ。できなかったときは、覚悟しておくがよい』



 ――それきり、声も、いつしか漂っていた、ひんやりとした気配も消えて。


 へたりと、ティアはその場に座りこんだ。






 ざわざわと、近づいてくるいくつもの気配を感じて、ティアは顔をあげた。


 ティアについていた侍女たちが、皆いっせいに頭を垂れる。青紫の式服をまとった神官の一団が、手燭を携え向かってきていた。


「第三王女殿下が神殿前にいらっしゃったとの報告を受け、まかりこしましてございます。なにか、女神よりのお告げでもございましたか」


 ティアに向かいそう尋ねたのは、一団の先頭に立つ、初老の神官だった。そのうしろには中年の神官が二人と、まだ若い神官が二人つきしたがっている。


 と、そこで、若い神官のうちの一人に気づいて、ティアは声をあげた。


「ベネト!」


 そのまま地を蹴って立ちあがり、式服姿のベネトにかけよる。帰国してから離れていた時間は、実際のところそう長くはないのだが、とても久しぶりに会うような気がした。


「よかった、無事だったのね。わたし、あなたがこの中に閉じこめられているんじゃないかと思ったのよ。あなたの身柄が神殿預かりになったって聞いて、でも、神殿は今……」


 そこからなんと続けていいかわからず、口ごもったティアの前で、ベネトが口を開いた。


「それは、ご心配をおかけして申しわけありませんでした」


 そういったベネトはあいかわらずの無表情だったが、今まわりにいる侍女たちと違い、その眼鏡の奥の瞳には、ティアを案じる色が浮かんでいるような気がした。


 ティアは、首を横に振った。


「いいの、ベネトが謝ることじゃないわ。……国に帰ってきたときだってそうよ。あなたが謝るときって、謝らなくていいときばっかりだわ」

「それは、不調法者で申しわけございません」

「だから……」


 さらにティアが言いつのろうとしたとき、咳ばらいが聞こえた。はっとして、ティアはしぶしぶベネトから離れ、咳ばらいをした初老の神官に向きなおった。


「ごめんなさいね、さっきの質問に答えるわ。――女神様からのお告げは、あったわよ。お告げを受けたのなんてはじめてだから、本当に女神様からのお告げだったのかと聞かれるとなんともいえない部分はあるけど。……でも、女の人の声を聞いたわ」


 初老の神官のうしろで、ベネトを除く神官たちがざわめいた。


 そのざわめきを手で制して、初老の神官が口を開いた。


「王族がたは、もっとも女神に近しい方々。そして、この神殿を中心とした王宮の敷地内は、国内において女神のお力がもっとも色濃く溜まる場所。第三王女殿下が女神のお声を聞かれたとしても、なんら不思議はございませぬ。今は亡き第一王女殿下も、たびたび女神のお声を聞いておいででした」


 ティアは目を瞠った。


「大姉様も?」

「さようでございます。――して、第三王女殿下。貴女様に、女神はなにをお告げになられましたか」


 初老の神官のうしろで、神官たちが息をつめたのがわかった。


 ティアもまた、一度唇を湿してから、答えた。


「今の月が終わるまでに、アーシュミーヤ姉様をつれもどしなさい。できなかったときは、覚悟しておきなさい……って」


「今の月が、終わるまで」


 神官のうちのだれかが、つぶやいた。


「もしそのお告げが真実であれば、あと十日もありませんぞ」

「海辺から引きあげてくるだけでも数日はかかるというのに」

「覚悟とは。旱魃はいっこうに和らいでおりませぬ。この上さらに、なにか起きれば――」


「静まれ」


 神官たちのざわめきを低く制して、初老の神官はティアに一礼した。


「お言葉、たしかに頂戴いたしました、第三王女殿下。国王陛下にも、しかとお伝えいたしましょう。しかし、第三王女殿下におかれましては、そろそろお部屋にお戻りになられたほうがよろしいかと存じます」


 あたりはもうすっかり暗闇に包まれている。ティアはちらりとベネトを見てから、初老の神官にうなずいた。


「ええ、戻ります。父王様への伝言、よろしくお願いしますね」


 初老の神官は、もう一度丁寧に頭を下げた。




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