19 乾く故郷
馬車からおりたティアは、つくづくと、目の前の風景を見つめた。
正面に、緑野の王宮である、白亜の宮殿がどっしりと座している。その宮殿に抱かれるようにして、薄暗い灰色の尖塔、女神ゲンティアナの神殿が、空に向かって伸びていた。
生きて再び、この光景を見ることになるとは思っていなかった。
けれど懐かしさを感じるより先に、ティアはふっと、眉をひそめた。
(匂いが、変わってる)
ティアの記憶の緑野の国は、いつだって、清涼な水と緑の匂いがしていた。やわらかく鼻に抜けるような、みずみずしい匂いだ。けれど今ティアの鼻をついたのは、乾ききって、どこかすえたような臭いだった。
ティアの迎えに出てきた官吏たちの中には、見知った顔もちらほらといたが、皆一様に暗い表情を浮かべていた。
まるで葬列のような彼らにつれられて、ティアは謁見の間へと通された。
緑野の国の謁見の間は、ひどくあざやかで、豪華絢爛な広間だ。琥珀色の壁は磨きぬかれて黄金に輝き、天井と床には神界大戦での女神ゲンティアナ勝利の場面が極彩色で描かれている。けれど今、その最奥にしつらえられた玉座の上で、ゆっくりとこちらへ目を向けた父王を見て、ティアは息をのんだ。
この国において、王は女神の第一の臣とされるため、王は、非常に装飾過多ではあるものの、根本的には神官服と同じ作りの式服を身にまとう。そんなティアの記憶どおり、赤青緑の宝石と金糸銀糸の刺繍が光る、青紫の式服に身を包んだ父王はしかし、最後に会ってから一年も経たないのに、ひどく老けこんだように思われた。
その落ちくぼんだ水色の目が、呆然としたティアを映して、ゆらりと、暗く波うった。
「……おまえも、悲劇をなさずに戻ってきたのか」
娘を見ての第一声は、呪詛にも似ていた。
「おまえだけでも悲劇に死ねば……台本どおりでなかったとしてもせめて夫王に殺されたならば、女神ゲンティアナのお怒りも少しは鎮まったかもしれぬものを!」
ぶつけられた言葉が、ティアは最初、理解できなかった。憎しみに満ちているような父王の目を呆然と見返しているうちに、ようやくじわじわと身に染みてきて、唇を引きむすんだ。
そんなティアのかわりに、ベネトがその場にひれ伏した。
「申しわけございません、わたくしめの力不足でございます。なんなりと、お咎めは受けます」
ティアは驚き、あわてて父王に首を振った。
「違うわ、ベネトはなにも悪くないわ、わたしが」
「もうよい」
そう、ティアを遮った父王の顔から憎悪のような影は消えて、ただ深い憔悴の色が浮かんでいた。
「アーシュミーヤはいまだ見つからぬ。次にすぐまた悲劇を演じられる王女は、おまえだけだ。――別命あるまでおとなしくしておれ」
*
砂塵の国までついてきて仕えてくれた侍女たちは、父王の命で全員ティアから引き離された。ベネトの身柄も神殿の預かりとなり、今、ティアのまわりに、親しんだ顔はひとつもない。
嫁ぐ前とまったく同じ、第三王女ティアの居室に、ずらり控えるのは、無表情の侍女たちだ。視線だけがつねに動いて、ティアの一挙一投足を監視している。自国に戻ったというのに、砂塵の国にいたころよりも、息苦しい環境だった。
(ベネトもそうとうな無表情だったけど、この侍女たちよりは親しみが持てたわ)
長椅子に浅く腰かけたティアは、逃げるように、窓の外へと視線を向けた。けれどそうして視界に入ってきたのは重々しい灰色の尖塔で、ひそかにため息をこぼす。砂塵の離宮の、鬱蒼とした緑の庭が、今となっては懐かしかった。
(そういえば、ルベルはどうなったんだろう。もうだれからもお水をもらえなくて、枯れてしまったかしら。……せっかく、実がついていたのに)
だれもいなくなった離宮の庭で、ひっそりと枯れていくルベルを想像したら、切なくなった。ティアはきゅっと、可憐なドレスの胸元をつかんだ。
窓の外が、だんだんと夕闇に沈んでいく。
ふと違和感を覚えて、ティアは首をひねった。なにかがおかしい、なにがおかしいのだろうと、しばらく考えたところで、違和感の正体に気づいた。
(神殿の篝火が、灯されてないんだわ)
ティアの知るかぎり、女神神殿の篝火は、日が傾くころには早々と灯されていた。けれど今は、完全に日が落ちて、空気の色が黄昏の紫から夜闇の紺に変わりはじめたというのに、火の焚かれる気配もない。神殿入口の両脇に据えられた、篝火の土台だけが、黒々と闇に沈んでいた。
「どうして? 神官たちは中にいないの?」
思わずこぼしたつぶやきに、答えがあった。
「おりません。現在、神殿への立ち入りは禁止されております」
ティアは振り返った。壁ぎわにならぶ侍女たちは皆、同じような無表情で口を閉じており、だれが今の言葉を発したのかわからなかったので、全員に視線を流してから尋ねた。
「どうして。今も女神様はお怒りなんでしょう。だったら神官たちは少しでも神殿で、鎮めのお祈りをするべきなんじゃないの?」
真ん中の侍女が答えた。
「神殿に居合わせた神官がたが皆、女神のお怒りに打たれて殺されておしまいになった日以来、だれも神殿には近づいておりません。神殿はもっとも、女神のお力を受けやすい場所ですので。女神がひどくお怒りになっている今、神殿に立ち入っては命の保証がないと、生き残った神官がたも、なかなか手を出せないのです」
刻一刻と闇に沈んでいく灰色の尖塔が、ひどくおどろおどろしく見えた。思わずつばを飲みこんで、それから、ティアははっと息を止めた。
「待って。じゃあ、ベネトは今どこにいるの? 彼女の身柄は神殿の預かりになったはずよ」
再び、真ん中の侍女が口を開いた。
「生き残った神官がたは現在、王宮内の祭礼の間に移っておいでです。おそらくそちらかと」
そう、といったん納得したティアだったが、不吉な予感がよぎった。
ベネトは父王に、なんなりとお咎めは受けます、といっていた。――ほかならぬティアを、父王の怒りからかばうために。床にひれ伏して。
あのときの父王の、憎悪に満ちた怒りようを思い出し、ティアはぶるりと震えた。
あのあとティアは自室へのゆるい軟禁状態で済んでいるが、ベネトに関しては、身柄が神殿預かりになったとしか、聞いていない。
(まさか。わたしの台本が中断になった罰として、神殿に放りこまれたなんてこと、ないわよね? ちょうどいいから、神殿に立ち入っても女神に殺されないかどうか探ってこいだなんて、まさか、ね)
考えすぎだろうと自分に言いきかせるも、一度生まれた疑念はふくらむ一方だった。
闇が深まる。とうとう、ティアは長椅子から立ちあがった。
侍女が即座に聞いてきた。
「どちらへ」
一瞥して、ティアは答えた。
「神殿よ」
「なりません」
「中には入らないわ。外から様子を見るだけ。こちらに帰ってきて一度もご挨拶していないんだもの、神殿に入れないというなら、せめて外から祈りを捧げたいわ。王族が女神様に敬意を表そうとするのを、あなたたちに制限できて? ――監視はどうぞ、続けてくれて結構よ」
言いすてて、ティアは歩きだす。ぞろぞろと、侍女たちがついてくる気配を背中に感じながら、速度をあげた。




