15 波紋は広がる
その朝は、いつもとなにかが違っていた。
それは、ご用伺いに訪れたシャウラの表情であったり、離宮の外周を巡回する衛兵の気配であったり。ぴりりと緊張した見えない糸が、張りめぐらされているようだった。
ベネトは朝から王宮に出向いている。下の姉が亡くなって、早一月。三姉妹最後のひとりである自分の台本もとうとう本格的に動きだすのかと、朝食もろくにとらず、まだ青いルベルの実の前でじっと立っていたティアのもとへベネトが戻ってきたのは、昼近くになってからのことだった。
「王女殿下」
ベネトは部屋を横切り、まっすぐ庭のティアの前までやってくると、ドレスに土がつくのもかまわず、その場にひざまずいた。
「緑野の軍勢が、海辺の国に侵攻いたしました」
ドレスが汚れるわよ、といおうとしていたティアは、その言葉ごと息をのんだ。
「緑野が、小姉様の嫁がれていた海辺へ……? どうして? だって、悲劇はちゃんと」
「悲劇はなされておりません。女神ゲンティアナがお怒りになり、緑野の国は現在、大旱魃に見舞われているそうでございます」
「待って、嘘でしょう、緑野の国は、肥沃な緑野に恵まれているから緑野の国なのよ? それが、大旱魃ですって?」
ベネトが頭を垂れた。
「はい。前代未聞でございます」
ティアは唇を噛む。冷静な口調を心がけつつ、尋ねた。
「……悲劇がなされていないというのは、どういうこと。小姉様は海辺の神様を鎮めるため、みずから生贄になられたという話だったでしょう。その行いが、悲劇の台本からはずれていたの?」
いえ、とベネトが首を横に振る。一瞬ためらうようなそぶりを見せてから、彼女は続けた。
「アーシュミーヤ第二王女殿下は、生贄になられなかったようなのです。緑野からの知らせによると、女神ゲンティアナから神殿へ、話が違う、アーシュミーヤはまだ生きている、とのお告げがあったそうで。悲劇のヒロインが悲劇的な死から逃げたことによる女神のお怒りは凄まじく、お告げがあったとき神殿に居合わせた者のすべてが女神の雷に貫かれ、かろうじて息のあった神官長も、お告げの内容を陛下にお伝え申しあげた直後に息絶えたと」
ティアは絶句した。
だってそれは、つまり。女神ゲンティアナには、異国にいる王女の生死が判別できるということだ。
緑野の国内であれば、女神に見えない場所がないことは知っていた。けれども国外に出てしまえば、女神の力は及ばなくなり、当然、女神の目も届かなくなる。少なくとも今の今まで、ティアはそう思っていたのだ。だからこそ悲劇の死の直前に、周囲の目を盗んで逃げだそうと考えていた。
(だけど、これじゃ)
内心激しく動揺するティアの前で、ベネトは淡々と報告を続けていた。
「緑野の国王陛下は海辺の国に、アーシュミーヤ第二王女殿下を送りかえすよう再三要請されましたが、海辺の国側は、第二王女殿下はもういないとして拒否。そこで、是が非でも第二王女殿下を見つけだしてつれもどし、女神の御前に引きだすべく、侵攻とあいなったようでございます。あわてた海辺の国は、アーシュミーヤ第二王女殿下と親密な関係にあったという宰相を、アーシュミーヤ第二王女殿下をかどわかした罪で処刑したそうですが、肝心の第二王女殿下の行方はようとして知れぬまま。緑野の侵攻を中止させるにはいたらなかったと」
ティアはぼんやりと、まだ熟していないルベルの実を見つめた。
(わたしが台本の死から逃げたとしても、同じことが起きるんだわ)
たとえベネトや、王の目をごまかして逃げおおせたとしても、緑野の女神はあざむけない。きっと、今の話と同じように、女神は怒り、緑野の国は混乱して、砂塵の国には緑野の軍勢が押しよせるのだろう。逃げたティアを見つけだす、ただそれだけのために。
風が吹いて、緑の鳥篭がざわざわと揺れた。
ふわふわと踊った、輿入れの日からだいぶ伸びた髪を押さえて、ティアは口を開いた。
「――シャウラ。そこにいる?」
姿を見せることこそ朝のご用伺いの一度だけだが、シャウラは陰から自分を監視している、シャウラがいないときでも、シャウラの部下らしき者が必ず一人はついているようだと、ティアが気づいたのはあの祭りのあとだった。
そして今も。気配を感じたわけではなく、完全にあてずっぽうだったが、緑の鳥篭の一角が揺れて、見慣れた生成色の衣のシャウラが姿を現した。
目を剥いたこちらの侍女たちを制して、ティアはシャウラに歩みよった。
「王様に伝言をお願いしたいの。本当は直接会って申しあげたいところだけれど、きっとお忙しいでしょうから」
「かしこまりました。なんとお伝えいたしましょう」
目を伏せて尋ねるシャウラに、ティアはにこりと微笑んだ。
「『逃げ出すことはあきらめました』と。『王様のお望みどおり、悲劇の台本のとおりにおとなしく死んでさしあげますから、安心されてよろしいですよ』と。伝えてください」
くすくすと、ティアは笑う。なにがおかしいわけでもないのに、笑いがこみあげてしかたがなかった。
シャウラが無言で一礼して、鳥篭の外に消えていった。




