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14  縋った手の先



 荒れ狂う海に放り出されたあと、どうやって岸辺まで流れついたのか、あたし自身も覚えていない。


 捜せ、という押し殺した声と、金の具足がふれあう耳ざわりな足音で、あたしは我に返った。


 海水をたっぷり含んだ花嫁衣装はびしょぬれで、生臭く冷たく、どっしりと重かった。体にからみついてくるその衣装をほとんどかきむしるように脱ぎすて、薄っぺらな肌着一枚になって、夜明けまだきの、宝石の港町をさまよう。なにも履いていない足の裏に、石畳のざらざらした感触が痛い。行くあてなんてどこにもないけど、とにかく逃げなければいけないと思った。


 昼間は多くの露店で賑わうのだろう大通りも、今はただぽっかりと広いだけで、薄紫の空気の中、静まりかえっていた。気を抜いたら吸いこまれそうな静けさの中を必死で走っていたら、橙の明かりが漏れている窓を見つけた。そこだけざわついている。酒場のようだった。


 年季の入った木の扉を体で押しあけたら、りりん、と扉に取りつけられた鈴が大きく鳴った。とたん流れだしてきたのは、酒の臭いと、すえたような汗の臭い。あたしにとっては、なじみのある空気だった。


 だけどその酒場は、あたしが見てきたどんな酒場とも違う、異様な雰囲気に包まれていた。


 扉の左右にひとつずつ置かれた酒樽に、人間がひとりずつ、逆さに突きささっていた。下半身だけが生えて見えていたけれど、まるで剥製のように、ぴくりともしていない。


 そんな店の奥では毛色の違う黒髪の集団が悠然と席を占めていて、金の髪に茶色い肌という、あたしと同じ海辺の民の特徴をもったほかのお客は、その一団にちらちらと窺うような視線を送りながら、ちびちびと飲んでいた。海辺の民特有のたくましい肉体が、どれもこころなしか縮こまって見える。ふつうだったらすぐさまやじが飛んできそうな派手な音を立てて入店したあたしにも、だれも注意を向けなかった。


 しくじった、と、頭の隅で冷静なあたしがつぶやいたけど、あたしを捜す硬質な足音は、扉の向こうのもうすぐそこまで迫っていた。うしろの兵士か前の異質か。あたしは覚悟をきめて、店の奥の、海辺の民にはありえない、黒髪で青白い肌の集団に近づいた。


「ねえ、たすけて」


 ずいぶん久しぶりに出したような気がする声は、思いきりかすれていた。だけど、集団の中心にいた、黒ずくめの影が顔をあげた。


 そいつと目が合ったとたん、全身の血が凍りつくような衝撃が走って、あたしは息をのんだ。


 肩へ腕へ、黒々と流れる濡れたような髪に、青ざめた肌。だいぶゆったりとした黒衣に包まれていてさえ、骨と皮ばかりなのが見てとれる、貧相な体。そんな、民話に出てくる海の魔物のようななりをしたそいつの顔は、ぞっと寒気が走るほどに美しかったのだ。


 そいつの、超一級の翠玉のような目がしばらくあたしを映したと思うと、うっそりと細められた。指先まで隠れた大きな袖で、そいつはすうっと口もとを覆った。


「みっすぼらしい女」


 まじりけのない金の竪琴をつまびいたような声が、愉しげなさげすみの響きをのせてつむがれた。その、現実離れした空気にのまれて絶句しそうになったのを、どうにかこらえて、あたしは声をしぼりだした。


「お願い、匿って。追われてるんだ」


 響く足音と、こっちにもいない、おまえはそっちを捜せ、と低く慌ただしくいいかわす声。あたしの視界の端で、酒場のほかの客たちがざわつき、たがいに目くばせを飛ばしあう。目の前のおそろしく美しい黒ずくめにもこの物音は聞こえているだろうに、そいつはまったく関知しない様子で、さらに目をきゅっと三日月のように細めた。


「みすぼらしい上に身の程も知らないの? なにひとつ見られるところのないそのなりで、なんのおもしろみもない木偶みたいに突っ立ったその物言いで、哀願が通るとでも思ってるわけ? 本気でお願いしてるなら靴でも舐めてみれば」


 耳に心地よい声で、さえずるようにそいつはそういった。口もとが見えなくても、とても愉しそうに笑ったのが、わかった。


 かっと怒りを覚えた瞬間、その熱にあてられたように、頭の中の靄が晴れていくのを感じた。突如降りかかった予期せぬ恐怖におののき凍りついていた心が溶けて、ふだんの自分が戻ってくる。かじかんでいた指先にまで熱が通るのを感じて、あたしは薄く口角をあげた。


(ここよりずっと場末の、治安が悪い荒れた酒場で。自分の体の倍もある酔客たちを口先だけであしらっていた、このあたしをなめんじゃないわよ)


 あたしは勢いよく膝をついた。それから、形よく組まれていた黒ずくめの足もとに身をかがめて、お望みのとおり、靴に口づけてやった。女物のように細く小さな、今は薄汚れているけれど、もとはだいぶ高価なものだったのだろうその靴は、強烈にだれかを蹴っとばしでもしたのか、かすかに血の臭いがした。強烈に――そう、たとえばちょうど、人が酒樽に頭から深々と突きささるくらいの勢いで蹴りあげたような。


 頭上から、ふ、と、つまらなそうに鼻を鳴らす音が聞こえた。


「みすぼらしい女は、心根までもみすぼらしいんだ。矜持ってものはないわけ」


 興醒めしたように見下ろしてくる美貌に、あたしは挑むような眼を向けた。


「これがあたしの意地だよ」


 ぱちり、翠玉がまたたく。唇に笑みをのせて、あたしは続けてやった。


「あたしはあたしをこんな目に遭わせたやつらに怒ってるんだ。そんなあいつらの思うまま、捕まってなんてやるもんか。あいつらあたしを捜してる。あいつらへの嫌がらせになるのなら、土に這いつくばって泥を啜ったって逃げて生きのびてやるよ。あたしは、運の悪かった犠牲者になんかならない!」


 あたしがそういいきった瞬間、黒ずくめが立ちあがって、あたしの腕を引いた。細っこい見た目からは信じられない力で引っぱられ、あたしは黒ずくめたち黒髪の一団のうしろに倒れこんだ。


 あわてて上体を起こしたあたしの前で、黒ずくめは、円卓の上に置いてあった水さしを床へ放りなげた。水さしは割れなかったけれど、鈍い音を立てて木の床に転がり、中に入っていた水が、乾いた床に黒いしみを作った。びしょぬれのあたしが歩いてきた道すじが、それで消えた。


 その次の瞬間、扉が勢いよく開かれ、物々しい足音とともに、無骨な剣と革の鎧で武装した兵士たちが押し入ってきた。あたしは床にぴたりと伏せる。円卓の脚と黒髪の男たちの足ごしに、兵士たちの、具足に覆われた足が見えた。


 視線を向けていたら感づかれる気がして、あたしは目をつむり、息をひそめた。


 静まりかえった酒場に、居丈高な声が響いた。


「ここに女が来なかったか」

「女ぁ?」


 あたしを隠している黒髪の男たちの一人が、おかしげな笑い声を立てた。


「おつむ使って考えてみなよ兵士さん。こんなとこへ好き好んでやってくる女がいるもんか」

「だが、海から水滴が続いていた」


 びくりと、あたしは緊張した。けれど、男たちは笑いとばした。


「酔っぱらったやつが飛びこんだのさァ。……それともなにかい?」


 すうっと、目を細めたような気配があった。


「――あんたらの探してる女ってのは、海からあがってきたのかい?」

「なんだそりゃ。海辺の崖に奉られてる、ここの神様の係累かァ?」


 からかうようなその言葉に、瞬間、兵士たちの空気が張りつめたのがわかった。


 やがて、最初の居丈高な声が、押し殺すようにささやいた。


「……来なかったならいい。だが、隠しだてしていたなら、ただで済まないと思え――よそ者め」


 最後の一言には、獣が牙を剥いて威嚇するような、獰猛な響きがあった。


 居丈高な声が短くうながして、兵士たちは、入ってきたときと同じように足音荒く出ていった。





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