10 兄と弟
「よけないで。大丈夫、ちゃんと殺してあげるから」
右手に短剣を光らせて、ケルティが歩みよってくる。
「だ、れか」
同じだけあとずさりながら、ティアは叫んだ。
「だれか! だれか来て!」
ケルティが嗤った。
「だれも来ないよ。あなたの侍女はこの場所がわからない。うちの者たちはみんなまだ祭場にいる。戻ってきたとしても、この国のだれがあなたを助けるものか」
ケルティが再び床を蹴った、その瞬間、ティアは抱いていた水さしを思いきり投げつけて、きびすを返した。
走りだした耳に、背後で水さしの割れた、鋭い音が聞こえてきた。
「乱暴だね、王女様のくせに!」
ケルティの声と足音が追いかけてくる。
足にまとわりつくドレスを、行儀もなにもなくたくしあげて走った。二人分の靴音が、高い天井に反響する。
「逃げられると思ってる? この王宮の中で、僕から!」
助けを求めて、ティアは視線を走らせる。本当に、だれもいない。衛兵も、侍女も、だれも。
いや、いたとしても、きっとケルティのいうとおりだ。
だれもティアを、助けてなどくれない。
ぞっと背すじが冷たくなったそのとき、
「つかまえた」
ふいに横から現れたケルティに、ドレスの裾を踏みつけられ、ティアは勢いよく床に倒れた。
あわてて起きあがった先、振りかぶられた短剣が、銀色の軌跡を描いて振りおろされる。
――きぃん、と、高い音が響いた。
いつまでたっても覚悟した痛みが来ないことで、ティアは、固くつむっていた目を、そろそろと開けた。
見ると、少し離れた床に、ケルティが持っていた短剣と、もうひとつべつの、湾曲した刀身をもつ短剣が転がっていた。
おそるおそる視線をあげて窺ったケルティは、あいかわらずティアのドレスの裾を踏んだままで、呆然とどこかを見つめていた。
その視線の先を追って、ティアもまた息をつめた。
(王様)
祭場で儀式芝居をしていたときの、神に扮した姿のままで、王が、そこに立っていた。背後には、以前王宮探検の途中で出会ったときと同じように、シャウラと兵士を従えている。
祭礼用の姿ゆえか、以前にもまして厳粛な雰囲気を漂わせた王は、いっさいの感情を凍りつかせたような瞳でこの場を睥睨して、口を開いた。
「たいしたことはできまいと、放っておいたのが甘かったか」
「なんで」
ケルティがつぶやいた。その唇は、小きざみに震えていた。
「なんでここに、兄様。祭礼は」
「先ほどの賊もおまえの手引きだな、ケルティ」
ケルティの問いには答えず、王がいう。
ケルティがすっと目を細めた。
「……あれはもう口を割ったの」
「おまえがヒゲキノの王女を殺すべくあちこちに誘いをかけていたことは、以前から承知していた」
ケルティは黙って、兄王を見た。そして、ふ、と、ひどく酷薄に見える笑みをはいた。
「みんなに断られたよ。……ひどいな。協力してくれないだけじゃなく、兄様にいいつけてたなんて」
「台本とは異なるところで王女が死んで、ヒゲキノが黙っているはずがない。おまえ以外は皆、現時点であからさまにヒゲキノへ弓引く不毛さをわかっていたということだ。それを、こともあろうに巷の無頼を金で雇い、刺客に仕立てあげるとは」
「いい手だったでしょ? 祭の日なら、一般の民も王宮に入れる。黙っていれば、王宮の者が手引きしたかどうかなんてわからない」
無邪気に笑いかけたケルティに対し、王の面はどこまでも冷徹だった。
「あくまで外部の賊のしわざであり、王宮はあずかり知らぬことだと。そんないいわけがヒゲキノに通用すると、おまえは本気で思っていたのか」
ケルティの顔から笑みが消えた。彼はうつむいて、小さくつぶやいた。
「……ヒゲキノが王宮の責任を追及してきたなら、僕を突き出せばいいと思ってた」
「……なんだと?」
眉をはねあげた王に、がばりと顔をあげたケルティが叫んだ。
「そのときは、僕が全部の責任をかぶってヒゲキノに殺されてやるつもりだったよ! だって、だってこのままじゃ、兄様もヒゲキノの王女のために大切なだれかを殺させられて苦しむのが決まってるじゃないか! 父様は母様を殺すことを強いられて、その結果ご自分も心を病んで亡くなってしまった。これで兄様まで死んでしまったら、僕にはもうだれもいなくなっちゃう。そんなことになるくらいなら――ひとり残されるくらいなら、兄様を死なせる王女を殺して、そのせいで僕が先に死ぬほうがいいと思ったんだ!」
ケルティは泣いていた。胸に刺さるようなその泣き声に、ついさっき本当に刺されかけたことも忘れて、ティアはぎゅっと顔をゆがめた。
けれど、実の兄である王のほうは、顔色ひとつ変えなかった。
「うぬぼれるな。おまえひとりの命で片がつくものか。結果的になにも変わりはしない」
――俺が無駄に失うだけだ、と。王は小さく続けたような気がしたが、ケルティの泣き声にまぎれて、はっきりとは聞きとれなかった。
「おまえは結局、自分に酔って周囲を顧みない行動をしただけだ。自身の悲劇に酔って死んでいくヒゲキノの王女となにが違う」
びくりと、ケルティの肩が大きく震えた。
泣き声は止まったものの、まだ嗚咽を漏らす弟を、王は冷めきった瞳で一瞥して、うしろの兵士を振り返った。
「部屋へ連れていけ。許すまで出すな」
は、と兵士が礼をとった。
鍛えぬかれた体躯の兵士に伴われて、肩を落としたケルティが去っていく。そのうしろ姿は、ひどく小さく、たよりなく見えた。




