馬鹿で間抜けなモンスター
一匹のモンスターがいた。
彼は右と左がとっさにわからないし、自分の名前をよく忘れてしまうし、何も無いのに「あっち」と指されれば顔を向けてしまう。
そんなだから、皆に「馬鹿で間抜けなモンスター」と呼ばれていた。
頭の回らない彼でも、そうして笑われるのは傷ついた。
「馬鹿で間抜けなモンスター」と言われる度に恥ずかしくって顔が熱くなるのに、腹の底は氷を飲んだみたいに冷たくなるのだった。
賢くなりたい。
彼はそう思って、
――人間を食べることにした。
人間を食べて、人間みたく賢くなることにした。
しかし、「馬鹿で間抜けなモンスター」のすることである。これがまるで上手くいかない。
「がおー!」
「今は忙しいから後にしてくれ!」
「あ、その、ごめんなさい……」
「がおー!」
「ママが迎えに来てくれたから、またね。ばいばい」
「え、うん、ばいばい」
こんな調子で誰も食べられやしない。
途方に暮れ、とぼとぼと歩く。後ろには尻尾を引き摺ってできた線が長く延びている。
「ずいぶんと落ち込んでいるね。何かあったのかいモンスター君」
そんな彼に声をかけたのは一人の青年だった。広場のベンチに座り、開いた本から目だけを覗かせている。
「うー……、人間が、食べられないんだ……」
「そうしないと、困るんだ?」
「うん。人間を食べて賢くならないと、また馬鹿で間抜けなモンスターって言われちゃう」
「そっか、君は賢くなりたいんだね」
「うん」
青年はパタンと音を立てて本を閉じ、モンスターを見上げた。
「それなら、人間を食べなくったっていいんだよ。人間は人間を食べないけど、賢いじゃないか」
言われてみればその通りである。
「でも、それじゃあ、どうしたら賢くなれるの? 右も左もすぐにわからない僕にはわからないよ」
頭を抱えるモンスターに青年は言う。
「右手を上げてごらん」
モンスターは慌てて両手を顔の前に並べ、何度も見比べる。
「ゆっくりでいいよ」
「う、うん」
それから五度ばかり顔を行ったり来たりさせて、そろそろと片手を上げる。
青年が微笑む。
「正解」
モンスターはほっと息を吐いた。
「それじゃあこれはどっちかな?」
青年が白くて細い手を、モンスターと鏡合わせにするように上げる。
自分と同じ方の手だ。
今度はモンスターは自信満々で答えた。
「右手!」
「ふふっ。ねえ、僕の手を見たまま、隣に座ってごらん」
モンスターは言われるままに、並んでベンチに座る。
「あれ? なんで? 手が反対になってるよ!」
「見る向きが変わったからさ。また僕の前に立ってごらん」
跳ねるように立ち上がり、青年の前に回る。モンスターは大きな目を丸くした。
「戻ってる!」
それからモンスターは青年が上げる手を、ベンチに座って立って、くるくるくるくる回りながら眺めた。
「右が左になって、左が右になる。右が左、左が右!」
右左右左。
「モンスター君、これはどっち?」
モンスターはもう迷わずに答える。
「右!」
「ふふっ、正解。人間を食べなくったって、少しだけ賢くなれたじゃないか」
「――あ」
青年の言う通りだった。
「人間は人間を食べないけど、誰かに教えてもらうことで賢くなるんだ」
ゴーン、ゴーン――。
夕方の鐘が鳴り響く。
青年は立ち上がると、右手を振った。
「それじゃあ、ね。僕は帰るよモンスター君」
「うん! ありがとう! ばいばい!」
広場を去る青年の背中がすっかり見えなくなるまで、モンスターも右手を振り続けた。
翌日、朝の鐘が鳴ると同時にモンスターは目を覚まし、スキップ混じりに広場へ向かった。その隅のベンチで目的の人間が本を読んでるのを見つけて叫ぶ。
「おはよう!」
青年が本から顔を上げて手を振る。モンスターはバタバタと駆け寄った。
「右手!」
モンスターの言っているのが、さっき自分が上げた手のことだと察した青年は、微笑みを向けて答えた。
「正解」
モンスターは太い尻尾を振り回して喜んだ。それから青年の隣に腰掛け、体を寄せる。
「ねえねえ、僕お願いがあるんだ」
「なにかな?」
「もっと、色んなことを教えて」
「うーん、モンスター君は、何が知りたいの?」
「なんでも!」
「なんでも、か」
青年は本で口元を隠して笑う。それからパタンと本を閉じて立ち上がった。
「ちょっと、散歩しよう」
「うん!」
モンスターはぴょんとベンチから飛び降りると、青年の隣に並んだ。
青年が細長い脚をテクテクと動かし、モンスターはそれをテテテテと追いかける。
歩くことしばし。青年は脚を止めてモンスターを見上げ、真上を指す。
「ごらん」
言われるままに指の先を追って、モンスターは空を仰いだ。
何も無い。
からかわれた。
顔が熱くなり腹の底が冷える、あのいやな感じが襲う。
青年はこんなことしないと思っていたのに。
裏切られた悲しさでモンスターは泣きそうになった。
しかし、そうではなかった。
青年は胸を反らせて両腕を広げる。
「今日はこんなにも空が青い」
モンスターは俯けていた頭を跳ね上げて、もう一度頭上を見た。
何も無くなんてなかったのだ。
彼の指した先には美しい青空が広がっていた。
もしかしたら、とモンスターは考える。
今までだって、本当は何かがあったのかもしれない。
誰かが何かを指して、それは素晴らしいものであったのに、自分が気づかなかっただけなのかもしれない。
嫌な感じはすっかり消えていた。
それに、今まで自分をからかっていた人達のことも、本当は優しい人達だったのではないかと思えた。
モンスターは青年を見る。
青年もモンスターを見ていて目が合った。
青年が微笑むと、モンスターは胸が暖かくなるように感じた。
青年はいつも本を読んでいた。
ある時モンスターは隣に座ってそれを覗いてみたが、まるで巣を壊された蟻のように文字が溢れていて、くらくらと目を回してしまった。
もっと賢くなったら、黒々としたこれらを楽しめるのだろうか。
彼のように脚を組み、細めた目を本に落とし、何かに納得して頷く自分を想像してみた。
格好いい。
「青年のように本を読んでみたい」という願望は、「青年のようになりたい」に変わっていった。
そして一つのアイデアが浮かぶ。
青年を食べたら、彼のように賢くなれるではないか。
その彼自身のおかげで、前より少しだけ回るようになった頭で考える。
困ったフリをすれば、きっと青年は心配してくれる。その隙に――。
それはとてもすごいアイデアに思えた。
自分がとてもすごいことをできるかもしれない。
モンスターは嬉しさのあまり、それだけで頭がいっぱいになっていた。
いつものようにベンチで本を読んでいる彼に、しかしモンスターはいつものようにバタバタと駆け寄ったりしなかった。初めて会った時と同じく、とぼとぼと尻尾を引き摺って歩く。
「どうしたんだい?」
予想通り、青年は心配そうにモンスターを見上げた。
「うん、あのね、困ったことがあって」
「困ったこと?」
「あれなんだけど……」
モンスターは青年の背後を指した。青年はその先を追って首を傾げる。
それもそのはず、何故ならそこには何も無いのだから。
今だ!
モンスターは大きく口を開いた。
青年が振り返る。
その時、彼がどんな顔をしたのか、モンスターには自分の大きな顎が邪魔をして見えなかった。
バクリ――。
頭から爪先まで、一口で頬張った。
ズブリと肉を裂き、ゴリリと骨を砕く。
食事はよく噛んで味わう。
これは青年に教えてもらったことだった。
あちこち食べ散らかさない。
これも青年に教えてもらったことだった。
残さず食べる。
どれもこれも青年に教えてもらったことだった。
モンスターは血の一滴まで飲み干して、口の周りをペロリと舐めた。
そして、泣いた。
青年を食べて賢くなり、自分がいかに馬鹿で、間抜けで、取り返しのつかないことをしたかわかったからだ。
もう二度と見ることのできない彼の顔が浮かぶ。
はっきりと、目の前にいるかのように。
パタンと本を閉じて、微笑みかけてくれる。
胸が暖かくなる。
それが悲しくて、モンスターはますます涙を流して泣いた。