逃げの一手
結局、あたしは一日、天使のほうを見ることができなかった。天使があの面白いメガネをかけてても、もうちっともおもしろいと思わなくなっていたのは不思議だったけど。
天使は休み時間ごとにあたしに近づいたけど、あたしは脱兎のごとく女子トイレに立てこもった。これ以外にあたしにどうしろっていうの? だって、天使の声を聞いたら心臓が早鐘みたいにどっきどきするのに?
自分でも現金だと思う。あれだけ、天使のことをよく思ってなかったのに、謝られたとたんに意識するなんて……自己嫌悪だ。
あたしは放課後の部活へも全速力で向かった。背後で天使の声が聞こえたように感じたが、これ以上一緒にいるとどうなってしまうかわからない。爆発するかもしれないし。
クラブキュイジーヌの部屋につくと、あたしより早く、八尋君がいた。料理の下ごしらえをしている。ぺディナイフの使い方が様になっている。ああいうふうに料理する男の子っていいな……。料理人って憧れるよね。昨今のアニメみたいにカンフーしたりアトラクションしたりしなくってもかっこいい。
「こんにちは」
声をかけると、八尋君は顔を上げてにこっとかわいらしく笑った。
「お姉さま」
いや、お姉さまは余計かも。こう言うところはついていけない。
「お姉さまはいいよ、名前で呼んでもらえれば」
「じゃ、朱莉先輩? こっちの方が使い慣れなくて照れますね」
八尋君は恥ずかしそうに舌を出す。なんか女の子みたいでかわいいなぁ。
「男の子が料理部って珍しいなぁって思うんだけど」
あたしは率直に訊ねてみた。すると、八尋君はまじめな顔をして、あたしを見つめた。
「うちは料亭なんです。もちろんオーナーは料理なんてしなくてもいいです。だけど、ぼくはそれじゃあ、今後経営していく上で問題なんじゃないかなと思ったんです」
へぇ、まじめだぁ。
「それで、実は……、朱莉先輩の料理する姿を見ていて、他の人たちと違う。朱莉先輩にはプロ意識があるって感じて……」
そんなことわかるんだ……。こっちがてれちゃうな……。
「あ、ありがとう……」
気づけば八尋君の顔が真っ赤だ。
「あ、あの……朱莉先輩!」
「は、はい!」
八尋君の真剣な目をあたしは真正面から受け止めた。
「ぼくと結婚を前提にお付き合いしてください」
「はぁあああ!?」
思わず叫んでしまった。なんでいきなりそんなことになるんだ!
「ぼくは料理のできない女性と結婚する気がないんです。一緒に会社のことを考えてくれる女性が理想なんです!」
「そんな、いきなり言われても困る!」
気づくとあたしは走り出していた。校門を出たところで、教室にかばんを忘れてきてしまったことに気付いたが、もどれば八尋君がいる……。も、戻れない……。
い、一体、あたしになにが起こっているんだ!? 今世紀最大のモテ期!? でも、でも……、なにもこんなにいっぺんに来なくても。一つ一つ来てくれたら心の準備ができるのに!
「朱莉さん、まってました」
「ン?」
顔を上げると、真っ赤なフェラーリが校門の前に停まっている。その運転席には郁哉さんがいた。
さわやかにほほ笑んでいる。白い歯がまぶしい! ていうか、なんでここにいるんだ! 井上さんは!?
またしても心の声が口から洩れていたようで、郁哉さんが朗らかに答えた。
「帰ってもらいました。今日はわたしがご自宅まで送りますよ。朱莉さん、さぁ、乗ってください」
「え、いや、その……」
知らない人じゃないから断りにくいけど、なんか、今日は一人になりたい気分。すると、郁哉さんがすごく悲しそうな顔をした。
今にも泣きそう……。郁哉さんでもそんな顔をするんだ。仕方ない。あたしは渋々助手席に座った。
なんか緊張する。座ったとたんに郁哉さんは嬉しそうにしてる。とても十歳年上の人に見えない。なんだか甘えん坊みたいだ。
「よかった……、今日、お弁当、ありがとうございます。おいしかったですよ」
「あ、はい」
「わたし、今までいろんな女性と付き合いましたが、料理のおいしい人はいなかった……。それも、お弁当を作ってくれるような家庭的な人は……」
「はぁ」
「わたしの家庭はすごくよそよそしくて、母はあまりわたしを愛してくれなかったんです。お弁当や家庭料理なんて一度も食べたことがありません。なんどか、朱莉さんの手作りのご飯を頂いて、お弁当を食べていて、ああ、こんな女性と結婚したら暖かな家庭を築けるだろうなって、本気で思ったんです」
気づくと、ものすごく近くに郁哉さんの顔があった。目が目が、めっちゃ近くにある! 心臓が爆発する! 顔が熱い! 手がいつの間にか握られてる! 郁哉さんの手は大きくてすべすべしてて、暖かで、あたしは心臓が今にも口から飛び出しそうな思いで、固まってた。
「改めて言います、わたしと結婚してください」
ゴン!
あたしは跳ねるように立ちあがって、フェラーリの天井がひん曲がるかと思うほど、頭を打った。
「朱莉さん!?」
「ごごごごごごご」
ごめんなさいって言葉にならないまま、フェラーリから逃げ出して、あたしは校舎の中に再び駆け戻ったのでした……。