3
うずくまっていた彼が、ふと顔をあげた。
「月は、綺麗かな?」
仰ぎ見て彼が言うので、わたしも首を上に向けた。
月とか星とか、見えるわけない。
ここは夢の中なんだから。
月が綺麗ですね。それが、昔々の文豪が、アイラブユーを訳して言ったものだということは知っている。
彼は知っていて尋ねたのか。
どちらにせよ、わたしたちが見上げた頭上は空ではなかった。
「彼女の、なにが好きなの」
「……俺の涙を掬い取って、口に放り込んでは、みんなばかねって笑う」
真面目な声でそう言う。
「こんなのただの飴玉なのにって、笑うところ」
思い出し笑いを浮かべた。それにとてつもなく嫉妬している自分を感じる。どうかしている……。
彼はしかし、すぐに寂しそうな顔をする。ひどく幼く見える表情だ。
「でも、今はいない」
「忘れちゃえばいいじゃん。思い出にすれば」
だってみんな、そうしている。そのために、人間には忘れるって機能がついている。
「遠距離とどう違うの? 遠く離れた恋人を忘れたらそれは裏切りなのに、会えない人を忘れることは良いっていうの?」
「離れた恋人とは、いつか会えるじゃない」
「つまりそれは、見返りを求めてるってことだ。いつか再び会えて、愛してもらえるから、忘れずに想い続けるってこと?」
「……だって、不毛だ。不健全だよ、そんなの。いなくなった人のこと、ずっと想い続けて前に進まないなんて」
「へえ?」
不機嫌に笑った。
「じゃああんたは、いなくなった人のことなんてさっさと忘れて、楽しーく暮らせば健全だと思うわけ」
「だって」
「会えなくなったからって忘れちゃうんなら、その人ってなんだったんだよ。リターンがなければ愛せないなんて、そんなの本当の愛って言えるの」
「じゃあ人形でも愛してれば良いじゃん」
「俺は、彼女を愛してるんだ」
そう言う彼は、常に主張している。
ずっと彼女を愛すると、他に心が動くことはないと。
彼から流れ続ける涙が、飴玉のようだと例えた。なんて気取った女だろう。でも彼の頬を見ると、こぼれ落ちる涙の雫は不自然なくらい綺麗な球体で、確かに、飴玉のように見えた。わたしにそれを掬い取ることはできない。
私の涙はそんなに綺麗じゃない。
彼は主張している。彼女だけを愛していると。
……そこに、私の立ち入る隙はないと。
本当に、どうかしている。こんなことに煩わされている暇はない。私は浪人生で、今は夏も終わりかけで、私の成績はちっとも良くならない。擬似的な恋愛で悶々としているわけにはいかない。
もっと現実的な問題で、いつもすっと気がつけば眠りについている。適度な眠りは学習に良いとされているけれど、こんなに眠ってばかりではやる気がないと思われても仕方がない。目を覚ますと、いそいで問題集を開いて、眠ってしまう前に一つでも問題を解こうとするようになった。
そんな中解いている問題は、受験対策のくせして恋愛小説紛いの文章で、いらいらする。よくも受験生たちの目にこれを通そうと思ったな。
『「好き」と、言ってしまいたい。言いたい』
「言いたい」
『主人公の気持ちに当てはまるものを答えなさい』
「好き」
『どうして主人公は「(a)」と言ったのか、簡潔に答えなさい』
「言いたい」
何で、こんな問題解いているんだろう。私自身、肝心なことは言わずに……。
「言いたい……」
鉛筆が止まっていることに気がついて、紙の上を滑るだけだった視線を上げた。
「…………くだらない」
夢の中の人物に、何を言うというのだ。
ばかじゃないのか……。
握りしめた紙。第一志望、D判定。
……また、だめなのかなあ。
鉛筆はいつまでたっても動かない。
わからないのだ。
答えが、わからない。いくら考えても、出てこない。だって誰も教えてくれない。周りには、誰もいない。
私は予備校の教室で、一人。誰もいないくせに、紙の上を黒鉛が滑る音だけがする。カリカリと、その音は私の神経を逆撫でする。焦燥だけが募るが、もう問題文の意味すらわからなくなって、私は泣きたくなる。
否、涙がにじんでいるから、読めないのだ。濡れてしまったから、解答用紙に書くことはできない。私は理由を見つけてほっとする。けれど次の瞬間、試験官の声が響く。
試験終了の合図に私は青ざめる。だって、やはり解答用紙は、真っ白のままだったからだ。
「彼女」が言った「ばかね」は、きっと私にも向けられている。こんな些細なことで思い悩んで、受験に受からなくたって生きていけるっていうのに。
でも私は受験生だし、大学に行きたいし、親からも期待されているし、友だちはとっくに大学生だし、追いつくためには、今、まさに今問題を解いて、答えを出さなくてはならない。
「そりゃあんたはいいよ、ずっとそこでくだらないことぐちぐち考えてりゃ!」
彼の表情が見えない。また夢の、ご都合主義という奴だ。その顔面は塗りつぶされでもしたようにのっぺりとして、伺うことができない。しかしわたしは、激情に任せて言葉をぶつけた。
「でも私は違うの! 答えを出さなきゃ、いけないんだ!」
泣いている。泣き虫は彼の方のはずなのに、おかしなことだ。夢の中で流した涙はどこへ行くんだとぼんやり考えながら目を覚ました。母親はもう家を出ているらしく、家の中は静かだ。私は予備校に行かなくてはならない。瞬きしたが、目も頬も乾いていた。
「人って、人のどこを好きになるのかな」
彼は今日も何かを考えている。それしかすることがないのだ、きっと。ここには何もない。ただ腰掛けて、顔面の半分を隠しながら、何かを考える。それは例えば、彼女のこと、愛のこと、……それだけ。きっと彼が考えているのはそれだけ。答えの出ないことをいつまでも。
「どこをって」
私は、これまで人を好きになったことがない。それは冷血漢とかそういう意味じゃなくて、恋愛として好きになったことがなかった。家族や友だちのことはもちろん、大好きだ。彼が言っているのは、前者のことだろう。
……今好きなのは、目の前のこの男だけど。
「例えば、その人の顔が好きだったら、その人が事故にあって顔が潰れてしまったら嫌いになる? 助けてくれた人の優しさで、好きになったんだったら、同じように優しくされたら好きになる?好きな人の好きなところを全部持っている別人が現れたら、好きになるのかな?」
前々から知っていたけれど、彼はとても理屈っぽい。偏屈だというより、疑問に思ったことを一々あげつらわなければ気が済まない性格のようだった。
「そんなわけ、ないでしょ」
多くの恋愛マンガや小説で言われることを引き合いに出して答えた。
「好きになったら、全部好きとか言うんじゃないの?」
「それこそ、あんたの嫌いな愛なんじゃないか」
「どういうこと?」
全てに愛情を向けることはできない。全部好きなら、それは何をしても構わないということだ。それは、相手に求めないということ。わたしの言う「不健全」なことではないか、と彼は言う。
わたしは納得できない。
彼の全部が好きだけど、わたしは彼に求めている。
答えは出ていない。○とか×とか、そんなふうに区別がつけられる物事が、この世にどれだけあることか。あるいはそれは人の数だけあると言う人もあるかもしれない。彼の愛についての考えが、○であるかは、私にはわからない。でもそれとは全く無関係なところで、私は彼に言いたいことがある。それは、今の私には、必要なことだ。玉砕するならば、さっさとしてしまった方が良いのである。
彼の目からは金の涙が流れていて、それが見つかってはバケモノ呼ばわりされたりその金を利用されたりするので、いつも彼女の陰に隠れていた。
だけど、彼女が今はいないから、部屋の隅で膝を抱えて、金の涙を流しながら、
自分の肩で必死に隠している。
彼女がいないから。
「ねえ、その役目」
唐突にわたしが話しだしたから、ぱちくりと彼は目を瞬かせた。
「あんたの、涙を隠すのってさ、それさ……」
また泣きそうになったから、大声でごまかした。
「それ、わたしじゃだめかなあ!」
だめだった。叫んだ拍子に、やはり涙はこぼれてしまった。
「あんたの涙を隠すの、わたしじゃだめかなあ」
わたしの方こそ涙をぼたぼたこぼしているくせに。でもそれを拭うこともせずに、言い切ったことでなんだか力も使い果たした気がして、ただただ立っていた。
彼がくすりと笑って、すっと足を踏み出した。
わたしはぼんやりとそれを見ている。
いつの間にか顔が近づいている。髪の毛がさらさらしていて、きっと触り心地が良いだろう。まつげも長い。一瞬瞬きをした、その風すら伝わってきそうなほど、近くて…………
気がつけば一瞬後にはゼロ距離の。
私は朝日の中で、呆然と目を開けていた。
四月某日。今日は一年の浪人の成果あって合格した大学の、入学式の日である。