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 うずくまっていたはずの彼が、こちらをちらりと確認してから立ち上がった。

「どうしたの?隠さなくていいの?」

「あんた相手なら、隠す必要ないだろ」

 どうやらいつの間にか信頼されていたようだ。まあ夢の中ならではご都合主義というやつだろうか。とはそのときのわたしは思わない。動物が懐いたような感覚で、少し嬉しくなる。

「ねえ、その涙って、本当に金なの?」

「さあね」

 彼が涙に触らせてくれることはなかった。めそめそしている印象だったのに、話してみるとぶっきらぼうで生意気な男だった。

 彼が話すことは、彼女のことだけである。

「彼女とは、同じ学校なんだ」

「へえ」

「でも、彼女の方が年上」

 年上の彼女かあ。はっきりとした男性の好みはないけれど、何となく年下は考えたことがない。……って、わたしには関係のないことだ。

「好きなんだねえ、彼女のこと」

「大好き」

「涙を隠してくれるから?」

「そんなわけないだろ!」

 わたしにはそんなふうに想えるひとはいない、想われるひともいない。

 うらやましい。


 親戚には、浪人というだけでばかにされている。別に、勉強していなくて落ちたわけじゃない。実力が及ばなかったのだ。……それが、勉強が足りなかったということなのかもしれないけれど。

 女がそこまでしなくても良いと言われたこともある。案外古い考えの人は多くて、嫁に行けばいいだとか、短大でいいだとか。私は、そんなことしたいわけじゃないんだ。私にだって、一人の人間としてやりたいことはあるんだ。けれど全てを振り切って、家族を捨ててまで夢を叶える、なんてことはきっとできないだろう。そのくらいの弱さだ。今のところ、両親だけは応援してくれるから、それに甘んじて浪人をしている。

 途中退席したせいで、確認しなくともさんざんな模試と、その前後にあった内部テストの結果が返ってきた。私は憂鬱にそれを眺める。

 成績は全く上がらない。問題を解いている途中も、少しも集中できないのである。公式も、構文も、全部ぽろぽろとこぼれ落ちて行くような気がする。

「ぽろぽろ落ちて行く先が、ここなのかな、もしかして」

「何の話?」

「何でもないよ」

 あれ?いつのまにわたし、夢の中に来ているんだろう?

「ねえ、年、いくつ?」

「二十歳」

「嘘、わたしより年上?」

 最初に観察したときには同い年かそれより上か、と思ったものの、生意気な言動からいつの間にか年下のように錯覚していた。涙を拭う仕草とその表情が幼い子どものように見えるからというのもあるだろう。

「なんだよ。年上だから敬えよ」

「敬えるような言動をしてくれないかな」

 間髪をいれず突っ込むと、少しむっとした表情をしたが、すぐに軽く笑った。

「まあ確かに。敬えるだけのことしてくれないとな。年上だからって、良い人間とは限らないよな」

「『彼女』は、敬えるだけの人間?」

「なんだよ、その言い方」

 彼女は彼女はと言うわりには、わたしがからかい混じりに彼女のことを聞くと、彼は少し不機嫌な様子だ。そんな反応をされると、こちらだって面白くない。

「なによ、ちょっとからかってみただけじゃん。彼女は、あんたが好きになるだけの人間だったんでしょ」

 そう言うと、なぜか彼は座り込み、再び膝を抱えた。どうして黙り込んだのか、わたしには察せられない。黙って彼の顔を見つめてみたけれど、彼は自分の世界で考え込んでしまっているみたいだ。

 わたしはこんなところで何をしているんだろう。受験勉強もしないで、夢の中で無駄な時間を浪費している。


「彼女がいなくなったから、もしかして俺ももうすぐいなくなるのかな」

「ばかみたい」

 彼はどう考えても適当にしゃべっていた。わたしはまじめに聞くのもばからしくなって、腰掛けた膝に頬杖をついてはす向かいの彼を眺めている。彼はぼんやりと中空に視線を投げて、思いついた言葉だけを滑らせている。

「俺がいなくなったら、この涙は、あんたにあげる」

 もう、いらないものだから、と言う。元々いるものでもないだろうに。

「でも、価値があるものなんだろう、多分?」

「私は売り飛ばして、お金にして、贅沢するかもよ?」

「いいよ、それでも」

 わたしの頭に手を置かれた。見上げると、彼が苦笑している。

「でも多分、あんたはそんなことしないよね」

「そうかな?」

「うん。だから、あげる」

 その唇の動きを見つめていた。

 ……あ、やばい。

 落とされた、と思った。


 予備校の中で、サンドイッチをかじっていた。正面には、浪人仲間の同級生。彼女は意味もなく天井を見上げて考える素振りを見せる。

「落ちる、ねえ?」

 私は紙パックのジュースをすすった。

「落とし穴?雷?りんご?」

「……」

「あっ、受験?」

 私は思わずじっとりと彼女を見た。場所を選ばない一言に周りに聞こえていないかが気になる。幸い、まだ夏前の教室では、そこまで神経質な生徒はいないようだった。しかし私にとっても他人事ではない。

「怒るよ?」

「ごめんごめん。んーじゃあ何だろう?落ちる……あっ」

 同級生はわざとらしくぽんと手を打って、ひらめいたポーズをする。そして笑顔でこう言った。


「恋?」


 何度目の逢瀬か。

 彼は相変わらず、金の涙を流しながら、わたしに笑いかける。

「彼女ってさ、」

「うん」

 彼は意外そうに私を見た。いつも彼女の話をする彼を、わたしは呆れて聞いていることが多くて、こちらから彼女について何か聞いたことなんてもちろん一度もなかったからだ。

「どんな人なの」

 彼は目を細めて、しばらくわたしを観察していた。わたしは彼に見透かされたくなくて、うつむいたまま、顔にかかる髪の毛で表情を隠した。それでも見つめられている気配がしたけれど、やがてふうと息を吐く声が聞こえた。

「……背中まで届くくらい、長い髪の毛。茶色く染めてて、日を透かすのが、きれい」

 私の髪の毛は、肩を越したくらい。ずぼらが祟って、染めるどころか手入れすらほとんどしていないから、黒くてぼさぼさ。

 髪を切ろうと思った。フェイスラインくらいまで短く、後ろは刈り上げるくらい。染めようかなとも思っていたけれど、やめることにする。

 ……そんなことを考える自分にいらいらする。嬉しそうに語るこの男にも。


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