手のひらの空
四方を壁に囲まれた狭い部屋の中央に椅子が置かれている。
どこにでもありそうな代り映えのしない木製の椅子だ。
腰を下ろすとギシギシと鈍い音を立てて、背もたれがきしんだ。
私は首を回して周囲の様子を確認する。
部屋の中には窓さえない。
天井の中央にはすすけた蛍光灯が備え付けてあり、弱々しい光を放っている。
薄暗い照明に照らされ、乾いた空気の中を細かい埃が舞っている。
無機質でありながら、妙な生々しさを感じさせる部屋だった。
耳を澄ませても空調の音一つ聞こえてこない。
しかし、すぐそばに誰かが息を潜めているような緊張感が漂っている。
一見すると綺麗な白い壁にも、よく見ると所々に小さなシミがいくつも見られた。
この部屋の中を流れていった時間が、自分の存在を主張するために残した爪痕のようにも見える。
シミは生き物のように形を留めず、ジワリジワリと形を変えていく。
私はその様子をじっと眺める。
身体の感覚は遠くなり、私は胸の奥に鈍い痛みを覚えた。
痛みは過去の遠い記憶を刺激する。
私は瞼を閉じた。
遠い日に私を形作ったいくつかの記憶が、淡い光の粒となって溢れた。
曖昧な虹色の夢が浮かんでは消える。
自分という存在が徐々にほどけていくように、身体から力が抜けていく。
壁のシミが私に向かって手招きをした。
私は右手をズボンのポケットに滑り込ませた。
指先に小さな丸い玉が当たる。
私はその玉を握りしめた。
ひんやりした感覚が、僅かに意識を覚醒させる。
ポケットから手を出し、目の前で開くと、ぼんやりと滲んだ視界の中に、小さなビー玉が浮かんだ。
自ら光を放っているようにも見える。
私は目を凝らし、ビー玉に意識を集中させる。
「目を閉じると青空が広がるんだ」
遠い日に聞いた温かな言葉が、耳の奥で響いた。
今よりも私の手足が短く、地面の熱気を肌で感じられた幼い頃の記憶だ。
溢れずに器の底に残っていた古い記憶。
私はビー玉を握りしめ、目を閉じた。
部屋全体が波打っているのが分かった。
私は全身に力を込め、椅子から勢いよく立ち上がる。
大きな音を立てて椅子が倒れた。
激しい耳鳴りが一瞬私を襲い、柔らかな風が私の頬を撫でた。
目を開けると私は緑の草原の中にいた。
見渡す限りの草原は、雲の影を地平線へと運んでいく。
私は空を見上げた。
浮島のような雲を青空が抱えている。
瞼の裏に浮かんだ青空と同じ青だ。
私はもう一度、右手を握り締める。
手の中では、小さな空が懐かしい記憶を抱いていた。