夕立ち
彼がふと、空を見上げた。
「どうしたの?」
「風が変わった」
つられて先程まで鮮やかに青く晴れていた空を見上げると大きな雲が近づいてくるのが見えた。白い雲の下は真っ暗だ。私たちの頭上はまだ晴れているのに遠雷が聞こえる。
「あれもすぐにここまで来よう。蓬、傘は」
「持ってない」
「では今すぐ里に、……いや、雨の方が早いか」
「帰らなくても大丈夫よ、あなたの樹の下で雨宿りすればいいのだもの」
桜の樹の幹にもたれる彼は、無表情ながらその紅い瞳を少しだけ翳らせた。強くなってきた風が淡い桜色をした彼の長い髪を乱す。すうっと涼しくなってきた。首筋に滲んでいた汗が冷えていく。
「それにしても足元も悪くなる。着物が汚れるぞ」
「そんなのかまわない」
「かまわないわけがあるか。……そうだ」
呟いた彼は急に私の膝のあたりを抱きかかえた。不安定で思わず彼の肩にしがみつく。
「え、ちょっと、」
「大枝につかまれ」
言われるままようよう手を伸ばし桜の太い枝を掴む。すると彼が下から私の体を押し上げた。その動きに合わせて枝の上に這い上がり、そろそろと姿勢を整えて横座りに腰かける。木登りなんて初めてだ。見下ろした地面までは人の背丈一つと半分くらいでけっこう高く感じる。そこには既に彼はいなかった。
「……桜鬼?」
「落ちるなよ」
呼びかけに対する答えが背後から返ってきて驚いて振り返る。体が傾いたところを彼が腰に手を回して支えてくれた。そうして彼も肩が触れ合う位置に座る。今までに一番近いところにいる、そう気付いてしまって目を逸らす。
「いつの間に登ってたの?」
「自分の体を登るわけがあるか。ここに意識を移しただけだ」
彼の本体はこの桜であり、体の外に出した自我が仮の体として人型となっている、と彼に聞いたことがある。よくわからないけれど便利だ。
「ここなら葉も多い。濡れることもあるまい」
彼の言葉の途中で雨が降り始めた。大粒だ。葉に、下草に叩きつける音もその甘い匂いも清々しい。見ると彼は心地よさげに目を細めていた。彼はこの桜の樹だ。その葉で、根で雨を感じているのだろう。
私と彼の間に隙間はない。私の鼓動は聞こえているだろうか。早まっていることに気づいたとしても、きっと彼はその意味を知らない。どうかしたかと訊かれるだろうか。そのときは素直に答えようか、どうしようか。
寄り添った彼の体は枝や幹と同じようにひんやりとして、夏の草木の匂いがした。