すでに夜は近づきて
黄昏ほど美しい空はない。昼間と宵の不明瞭な境界を縫って緩慢と広がる淡紫の灯影。太陽の周りや水平線にだけ緋色を残し、虎視眈々に近づく夜色の光に呑み込まれていく情景。感嘆を禁じ得ないほどに素晴らしい。自然の織り成す特異な芸術。
沈みゆく夕陽の、ある筈のない残香が袖に移り、日没の余韻を名残惜しげに置き去っていく。生温かい香気は仄甘く、私は吟味するようにゆっくりと噛み締めるのだ。
朝と夜の循環する時間軸から除外された、年中どんよりと茂る樹海は焼け跡すらなく、かつてその鬱蒼とした大樹の群れに覆い隠された崖は剥き出しになり、誰かの為に建てられた乳白色の大十字架が危なっかしく傾いている。
崖の遥か下方で、夕陽の彩りを掬い取った海が静やかに凪ぐ。内陸部育ちの私は、街がこんな風になるまで海を目にしたことがなかった。海は空の鏡なのだと溜息をつく。
どれくらい時間が経ったのだろう。私はずっと大十字架の影が濃く落ちている岩に腰掛け、紫や橙の隙間から僅かに紺碧が漏れる海を俯瞰していた。
有史以来九百年もの歴史を築いてきたこの国に残存する爪痕は、破壊され煉瓦が飛び散った家屋の残骸と、実りの季節はもう訪れない荒れに荒れた土壌。悪夢の御者が襲来するまで、無邪気な子供達に遊ばれていた土まみれのボール。忘れ去られた白い骨。
希望に溢れた街は一夜にして絶望に侵された。戦場で咆哮を上げた男達、逃げ遅れた女子供と老人は殺し尽くされたと、風の便りで知った。
銅色の大地・・・・こんなに寂しかったかしら?
追手の目を眩ませながらも逃げ延びた私は、異民族の男性に拾われた。鷹を射つ者と名乗った彼に匿われて早四年。故郷と周辺の街々を統轄していたその小国全土が陥落したと音に聞き、重い腰を上げて私達は赴いた。一国が滅亡したと認めたくなくて逃避していたけれど、噂のおかげでけじめがついた。戦禍の遺留物をこの目に刻んでおきたかった思いが、やっと行動に移せる。
新鮮なオレンジを買いに幾度も通った隣町の店。従兄の家族が住んでいた村。慣れ親しんだ、狭いけれど広かった世界。思い出が遠ざかった懐かしの場所。
人が死んでも、その数が支障のない程度なら世界は止まることも軋むこともなく、ただ機械的に半永久の時を漫ろ足で歩み続ける。それは寂しいことなのか、喪失感の麻痺した私には分からないけれど。
そろそろ秋も中盤だ。サンダルを脱いで露になった素足を、肌寒い風が裏側から撫で上げる。秋寒から身を庇うように肩を抱いていると、森が焼き払われてかさかさという葉音が消えた代わりに、じゃりじゃりと地に転がる小石を踏み締める足音が静寂の帳に針を刺した。
荒れ果てた砂礫の地にいるのは、私ともう一人。
「マリー。マイリーン」
「・・・サクル様」
初めて私は振り返った。地域性を窺える褐色の肌に、光をよく反射する黒々とした長い髪。凛々しくて野性的な鋭い瞳は、私だけを優しく見守っていた。気恥ずかしくなって、もう一度暗みの増した夕闇を振り仰ぐ。
物言いたげな彼の様子を自然と受け流して私は問いかける。
「・・・・・もしサクル様が神様だとして、私がこの国の人達を生き返らしてほしいと願ったら、叶えてくれますか?」
「おいおい」
無茶言うなよ、と肩を竦めて苦笑する彼の信教は、偶像崇拝を固く禁じているのだったか。
更に距離を詰め、私の座っている岩に左手を置き、サクル様は母なる深海を見渡す。
「エト・イン・アルカディア・エゴって諺があるんだ。理想郷にも死は存在する、なんてまで言えるくらい、神であっても死は逃れようのないモノなんだよ。摂理・・・つうのかな」
「・・・・そうですか」
神様にもいつか死なねばならない日が来るということだろうか。その時にこそ、黙示録の預言した終末が動き出すのかしら。
彼はいつも静かに諭してくれる。
ひどく身近に起こった醜い血濡れの闘争。あまりにも傷心が深く、泣いて暴れ散らしていたあの頃も、彼は辛抱強く傍らで穏やかに説いてくれた。大切な人々を殺した邪教徒共に復讐してやると喚く私に、悪人は誰もいない、宗教的観念の隔たりをどちらも受容できない為に衝突してしまう。お前みたいな考えが負の連鎖を繋げる羽目になるのだ、と。
それから日数を重ねて・・・多少なりとも道理を悟った自分が、こうやって貴方と言葉を交わす。
ぼんやりしていると、私の額を彼の指が押した。
「辛気臭い顔するな。――――理不尽に奪われる命も多々ある。でも祝福されて生まれる命だってあるだろ」
彼の指がそっと私のお腹に触れる。異教徒同士の血を引くこの子は、思想から生じる不条理についてどう考えてくれるだろうか。
生まれてくるこの子には受け継いでほしい。私の胸に翳りを遺す苦い記憶を。
どうか信じてほしい。思想の軋轢で湧く恐怖が引き金となって幕開ける悲劇に、悪役は登場しないことを。アラーとアドナイの両方の血潮が流れる貴方には、相容れない宗教間の溝を埋める力があることを。
「・・・・・帰ろう。この風は腹の子にも障るぞ」
未だ肩にしがみつく私の手を柔々とほどき、逞しい褐色の指に絡め、彼は帰路の方角を眺め遣る。お腹を労わりながら私はゆっくりと岩から降り、黄昏と同じように果てしなく広がる海に背を向けて歩き出した。
今は廃れた瓦礫の街。跡形もなく壊滅した故郷はもう、復興することはない。
某御方への捧げ物。
『エト・イン・アルカディア・エゴ =アルカディアにも我(死or死神)存在せり』
はラテン語格言です。ラテン語と言ったらキリスト教聖書(かも?)ですが、サクルラーミーは名前がアラビア語なのでイスラム教だと思われます。イスラム界で鷹はムハンマドの氏族・クライシュ族のシンボルだそうです。
マイリーンもマリーも、ヘブライ語で『海』『子を願う』『反逆者』などの意味を持つ『ミリアム(マリア)』が語源です。彼女は多分ユダヤ教です。海を知らない彼女が『海』だなんて皮肉な感じもしますが…。
『アラー』はイスラム教の唯一神に対する呼称の一つで、『アドナイ』はユダヤ教の唯一神に対する呼称の一つらしいです。『ヤハウェ』と直接口にするのは畏れ多いのでこの名が派生したそうで。
舞台背景はレコンキスタのグラナダ・・・・をイメージしたのですが、時代考証はしないで下さい。ぼろがきっと出ます。という訳で分類はファンタジーに。
この話を読んで下さった人がいるなら幸いです。今後もこの輪昌を見守ってやって下さい。
では。