九話 エノは黒猫の騎士さま
そうして迎えたセンバ祭。
前日は大ぶりの雨で、材料の運搬などに多少の支障は出たものの――当日は概ね計画通りに進行していた。
「コムギちゃーん! 新しいやつ二つ!」
「はーい!」
入ってくるなら元気よく名前を呼ぶ常連の客にコムギは袋にいれた新商品――クラゲパンを渡す。
「絶対出来立てのうちに食べてくださいね。ジャムが消えてしまうので」
「おん? ああ、そんなこと言ってたなぁ」
それから店の中に入る。
「おかあさーん! 生地足りそうー?」
「まだ大丈夫!」
店頭から一度厨房に戻り、作業をする母と短くやりとりをして、再度店の外に出る。前日までにもかなり多くの人がセンバを訪れていたが、祭りの当日はやはり比べ物にならないぐらい多くの人が歩いている。
そんな中、一人の大男が店に向かって歩いてきた。
「取りに来ました」
「あ、もう無くなりました? わかりました、追加分厨房の外……そうです、あそこに置いてあるやつです。出してあるので持っていってください」
そう言うと大男はのそのそと歩いて、焼く前のパンが詰まった袋を軽々と担ぎ上げて、街のほうへ歩いていく。入れ違いで、また別の人が荷物を運びにやってくる。
まさか彼らが手伝ってくれるとは、いざその光景を目の前にしても、一週間以上前のコムギには想像もできなかった。
なにせ彼らは――元山賊であるのだから。
◇
「――山賊の人たちをお手伝いに、ですか?」
五日前、コムギはエノの提案を聞いて、思わず一度聞き返した。
「はい。ノイバ隊長は未だ彼らの処遇を保留にしていますが――実罪の少なさから、重い罰を与えることはないと仰っていました」
「なるほど……」
それからエノは頬のひげをくるくると巻いて話を続ける。
「ですから彼らを人手として採用すれば――ひとまずコムギさんの案は採用できるのではないか、と。ただし彼らは一度僕たちを襲った人間です。特に、コムギさんが怖い思いをされていたら――彼らと会わせることは不適切である、とは理解しています」
エノはコムギを心配してそう言うが、コムギの懸念点はどちらかと言うと他にあった。
「いえ、エノさんのおかげで結局何もされてないですから、私は大丈夫なんですけど……それより、お金の面でどうなのかなと思って」
するとエノは手を下ろし、難しいことを考える面持ちで、真剣に話をした。
「実刑を与える代わりに、例えばこういう機会に無償で働いてもらって、釈放する。……その後のことは彼ら次第ということになると思います」
「……あ、確かに。お祭りで手伝ってる姿を見せれば……」
「働き手は見つかりやすくなるはずです。それにこの街ではグレフくんのいるような、自警団が上手く機能していますから」
◇
せっせとパンを運搬していく元山賊たちの姿を見送りつつ、コムギはそんな会話を思い出していた。あれから激動の日々を送っていたが、過ぎてみればあっという間な感じがした。
接客を母と交代し、コムギが厨房の外側で休憩していると、どこからともなく一人の男が――本当にどこから出てきたのかわからないぐらいいきなり――ゆらゆらと歩いてくるのが見えて、コムギは驚きつつ会釈をすると、彼もにこりと笑って会釈で返した。
「お疲れ様です。パンのほうは順調ですか」
彼――魔道具の鑑定士、ガルバンゾは相変わらずの微笑でそう言った。短く結んだ青色の髪にキャスケット帽、トレンチコートとなかなか印象深い外見をしているのに、なぜだかいつも周囲の風景にスッと馴染んでいて目立たない。
「はいっ! おかげさまでご好評いただいてます」
「それならなによりです」
そんな言葉を交わすと、二人は自然と店に並ぶ短い列のほうに目をやる。それからガルバンゾが口を開く。
「しかし、考えましたねぇ。魔法の窯ではなく――あえて普通の窯を使い、常に焼きたてを提供することにするなんて」
「うーん、まあでもうちだけでやるとお客さんが溢れちゃうし、街のいろんなところに分配とかはできなかったと思うので……皆さんの協力あってこそ、ですけどね」
コムギはどこか申し訳なさそうに苦笑する。
クラゲソウは加熱を必要とするが、普通の窯で焼くと十分から二十分で消滅してしまう。だから通常は特殊な魔法の窯で焼きその消滅を防ぐのだが、肝心の魔法の窯が壊れてしまった。そこで、コムギが提案した内容は次のようなものだった。従来の案のように、パンを焼いてから街中で配るのではなく、コムギベーカリー以外にも拠点を設置して、焼く前のパンを各拠点に運び込んでそこで焼いて提供する。これによって消滅する前の状態を保ちつつ、客足も分散することで回転率も高くする。もっとも、わざわざコムギベーカリーに来てくれる常連は多いのだが。
皆さん、というのには実に多くの人が含まれる。同業のパン屋をはじめ、様々な飲食店が窯を使わせてくれた。例えばマスカも快く場所を使わせてくれて、本当に彼女には頭が上がらない。それから、この作戦には日中に手が余っている多くの労働力が必要であったが、先の元山賊たちの協力はかなりの助けになった。彼らは罪滅ぼしが含まれているからか、とても良心的に働いてくれている。
「ガルバンゾさんも、色々助けてくれてありがとうございました。お借りした魔道具も本当に役に立つものばかりで、なんとお礼をしていいのか……」
彼はもはや依頼人としての域を超えた協力をしてくれた。例えば厨房で稼働している、生地を効率よく成型してくれる魔道具や、普通の窯の燃焼効率を上げてくれる魔道具など、もともとベーカリーになかったようなさまざまなものを手配してくれた。
「いえ、本命の魔法の窯は結局間に合いませんでしたからねぇ。微力ですよ、微力」
そうやって謙遜する彼に、そんなことはないとコムギはフォローしようとするが、それを言葉にする前に彼は「それに」と遮る。
「皆さんの協力あってこそ、と仰っていましたが……彼らの協力を取り付けることができたのは君の人望あってのことでしょう。それも含めて、君の実力なのだと、私は思いますがねぇ」
それからガルバンゾはコムギの顔をまじまじと見つめる。彼は熟練の鑑定士だと聞いているが、見た目でいうとかなり若い――多分二十代半ばぐらい――なように思っていた。しかしこうしてコムギを見つめる彼の表情は、子を見る親のような、優しいものだった。それだけ彼もまた、精神的に成熟した人間なのかもしれない。そんな彼が感情に揺れ動かされて手伝いをしてくれた、というのは、半分くらい冗談かもしれないが、本当なら素直に喜ばしいことである。
それから二、三言交わすと、コムギはあんパンをひとつ渡す。別れ際、彼はまた会釈をして人混みの中に消えていった。
◇
ガルバンゾは群衆の中、ふと振り返る。そこには別れてすぐに作業に戻って一生懸命頑張るコムギの姿があった。ガルバンゾは、淡い記憶を辿り、思いを馳せる。一人の少女の姿に、別の誰かを重ねるように。
「――やはり、君によく似ているよ」
笑顔にどこか儚いもの悲しさを浮かべて、消えいるような声でそう呟くと、ガルバンゾはあんパンをひとくちかじりながら歩き出した。何十年も前と、ほとんど変わらない甘さが香る。
◇
午後になると、お祭り中とはいえ、客の数は減っていった。各拠点を置いたことで上手く分散しているのと、常連客は一通り顔を見せに来てくれたのとで、徐々に落ち着いていき、無事閉店時間を迎えた。
「コムギいるー?」
ちょうどその頃、マスカが店にやってきた。
「いるよ! どうしたの、なにかあった?」
「ううん、トラブルはなにも。でもコムギにお客さんがね」
お客さん? とコムギが首を傾げると、マスカの後ろからドアを開けて、上質そうな洋服を大事そうに手に持った一人の少女が入ってきた。コムギと似た顔、声で違うのは彼女――アズキの髪は紫に近い褐色をしているということぐらい。
「お客さんって……アズキが?」
アズキが無言で頷くと、隣に立つマスカが口を開く。
「そう。……あー、でも、見方によっちゃコムギのほうがお客さんね」
「うん?」
「ほら、アズキちゃん」
マスカに促されると、アズキは白と銀色が混ざったドレス――あるいは、ワンピースにも見える――をパッと広げる。彼女はまだコムギよりもいくらか背が低いからか、少しばかり彼女よりも高い位置に手を伸ばして全体を見せる。
「……これは?」
布自体の美しさもさることながら、美しく縫われた素敵なデザインのそれに目を奪われつつコムギはそう聞いた。
「お姉ちゃんに、プレゼント」
「……えっ」
コムギが驚いていると、すかさずマスカが補足する。
「アズキちゃんが一から作ったんだって。すごいよね」
「……時間が無かったから、店長にも手伝ってもらったよ」
アズキが自信なさげにそう呟いたあたりで、コムギは思い切り彼女を抱きしめていた。それは純粋に贈り物が嬉しい気持ちがほとんどだったが、ぎくしゃくした――アズキは自分が一方的に感じているだけだと言っていた――店長との関係が良好そうでよかったという安心も、少し。
「こんな素敵なドレスを、アズキが? 凄いよ、本当に凄い。ありがとう」
コムギがアズキの肩を持って目をしっかり合わせてそう言うと、彼女は照れているのか目と話題を逸らしてこう言った。
「……うん。……あ、布はね、多分結構良いやつなんだけど……前にお姉ちゃんが指輪を見つけてくれたお礼だって、布屋のおばあさんが譲ってくれたんだ」
コムギは平時意識的に人助けをしているわけではないのでそれにすぐにはピンと来なかったが、やがて一ヶ月前にそんなこともあったなぁ、と思い出す。その巡り合わせを懐かしみつつ、コムギは質問する。
「でも……どうして? だって私、夜のダンスには……」
するとアズキは、コムギの両手をとってその上に自分の手を重ねて握る。
「関係ないよ。お姉ちゃんには、祭りの今日、私が作った服を着てほしいと思ったの」
「アズキ……」
「それに、ダンスの前にエノさんとデートするんでしょ?」
「デっ……ま、まあ、うん」
「特別な日ぐらい、特別な服着てもいいんだよ。マスカちゃんが来なかったら、作業着のまま行ったりしそうだもん」
いやいやいくらなんでも流石にそれは、と思う反面、忙しかったりしたらやらないという自信もなかったので、図星といえば図星である。アズキには、先日腹を割って話し合って以降、エノに対する気持ちなどを話すようになった。身近な存在である彼女にその話をすることによって、コムギは自身の気持ちを誤魔化すのを防いでいた面もある。
横からマスカは握った拳の甲を見せながら、話に参戦する。
「それ着て今夜こそエノさんを落としてきなさい。大丈夫、私たちがついてるから」
そうして応援してくれた二人に送り出されて、いよいよ。乙女の戦が幕を開ける。
◇
「あっエノさーん!」
当日はここで待ち合わせよう、とあらかじめ約束していた、街の端のほうの静かな――とはいっても今はそれなりに人も通る――池の近くに行くと、これはやはり想定していたことではあるが、エノのほうが先に着いていたようだ。
アズキから譲り受けた白基調のきらびやかなドレス、マスカにやってもらった薄づきの化粧、母から借りた香水でとびきりめかし込んだコムギは、慣れない格好や匂いにそわそわしつつ、隊服に身を包んだエノに話しかける。
「すみません、待たせちゃいましたか?」
「いえ……」
エノは振り向くやいなや、コムギの姿を見てぴたりと静止し、しばらく言葉を忘れたように黙っていたので、コムギは「エノさん?」と呼びかける。すると彼はハッとして、胸に手を当てて軽く頭を下げる。
「失礼。……あまりにお美しいものですから、少々見惚れてしまいました。素敵なドレスですね」
「お……っ、嬉しいです、けど……大袈裟ですよ」
彼のこういう慣れた言い回しは今に始まった事ではないし、自然な声色と早さで言ってくれるからクサい感じはしないのだけれども、どうにもその言葉で本当の感想が隠れてしまっているように思えてしまって、ちょっともったいない。反面、ちゃんと嬉しくも思っている自分がいて、負けたように思えてちょっと悔しさもある。
「いえ、本当によくお似合いです。……では、行きましょうか」
◇
それから二人はセンバの街を噛みしめるように、ゆっくりと練り歩いた。
コムギにとっては十八年間もの間慣れ親しんだいつもの光景のはずだった。だけどもすべてが新鮮に思えたのは、きっと祭りの非日常性だけが原因ではないだろう。隣にエノがいるからだ。彼と見て、通って、思う場所はすべてが初めての光景だった。
露店をいくつも回った。途中知り合いの人たちに何度も声をかけられた。少し恥ずかしかったけれど、こんなに多くの人に見守られて過ごしてきたんだなぁという実感が沸々とわいた。
長い距離をゆっくり、一歩一歩を大切に歩いた。アズキが作ってくれた服のは非常に動きやすくて、疲れは感じなかった。あるいは、エノと二人並んで歩くのが嬉しくて楽しくて、疲れてる暇なんてなかったのかもしれない。パンの提供が大成功に終わった今、重荷から解放されて身軽になったことも相まって、コムギは浮かれすぎて飛んでいってしまいそうだった。本当はエノに祭りの魅力を伝えるつもりが、自分のほうがはしゃぎすぎしまったような気さえしてくる。その間ずっと、エノは微笑んで隣にいてくれた。
「色んなことがありましたね」
街の中央部、美しい噴水が水路の合流地点となっている広大な広場に着いたとき、エノは誰に言われるでもなく、ぽつりとそう呟いた。それを皮切りに、賑やかな人混みから距離を置いた場所で、彼は溢れるように思い出を語り始める。
「毎朝誰かとパンをこねて、焼いて、食べるという経験をすることになるとは思いませんでした。山で襲ってきた山賊が今ではパンの提供を手伝っています。仕事から離れて穏やかなピクニックをしたこと。誰かと仲違いを経て、仲直りをすること。仲間に腹を割って相談すること。お祭りの準備に関わること。誰かとお祭りを見て回って、楽しむこと」
鮮やかにライトアップされた街の景色をまっすぐに捉えていたエノは、そこまで言うとコムギのほうに体を向けて、一度目を見つめてから、お辞儀をする。
「これらはすべて、コムギさんがいたからできた経験で――僕にとってとても大切な思い出です」
「いやっ私なんてそんな……」
「本当です。……僕はこの一ヶ月間を生涯忘れないでしょうね。単なる休暇では片付けられない思い出になったのは、本当にコムギさんのおかげだと思っていますから……ありがとうございます」
エノは再度、深々とお辞儀をした。コムギは相手からだけそんなに大きな感謝をされることは、何度されてもやっぱりまだ慣れることはできなくて、同じようにお辞儀をしてお茶を濁した。それから今度は自分の番、とばかりにコムギは一呼吸置いてから話し出す。
「私も、エノさんと出会えてよかったです。一ヶ月間、ありがとうございました」
――一ヶ月、かあ。
口にしてみると、ずいぶん短い期間だったのだな、と再認識させられる。だけどもたったこれだけの期間は、コムギにとって初めての連続で。何年にも匹敵するぐらいの濃い期間であったことは疑いようもない。
この後エノは見回りがあるはずだから、もしかしたらここが別れの挨拶になるのかもしれない。そう思うと、途端に名残惜しい時間になってくる。
一ヶ月。彼と過ごしたその時間は、本当にじゅうぶんだったのか。その答えはわからない。ひとつ確かなのは、もっと彼といたかった、もっと彼といたい、と今でも心臓が痛いぐらいに叫んでいること。そのままそれを声にして叫んでしまいたい。そんな衝動に駆られたとき、あることが脳裏をよぎる。
『そこで大切な人と踊れば、その仲は神聖な海に誓って長続きする、とされているんです。だから外から多くの人が訪れてくれるんですよ』
響いてくるのは自分の声だった。
彼との時間が終わってしまうのは嫌だ。ここでこの縁が千切れてほしくない。もっとこの仲が続いてほしい。それに最適な理由付けを見つけるために、無意識に記憶の書庫を荒らし回って引っ張り出してきた一冊の一ページだったのかもしれない。
がやがやする群衆の声が聞こえないぐらい、コムギは二人の世界に入り浸る。集中する。上手く伝えられるか不安だけど、やってみよう。
「あの」が被る。エノはなにを言おうとしたのだろう。気持ちが、言いたいことが、同じだったらいいなと思う。でも、そうでなくても、そうであってもむしろ、自分から伝えなきゃダメだ。
「私から言わせてください」
エノとまっすぐ見つめ合う。彼の綺麗な鏡に自分の姿が反射しているのが見える気さえしてくる。でも大丈夫。今の私は自信を持って、彼の前に立っているのだから、とコムギは意気込んで、口を開く。
「エノさん、私とこの後――」
これだけ多くの人が、声があるはずなのに、自分の声の一音一音が反響してうるさいぐらいに聞こえる。自信はあっても、鼓動はずっと鳴りっぱなし。だけど、伝えよう。いま楽になるためじゃなく、ただ、この先のために。
そして、言え、と自分を応援しながら次の一文字の子音だけが出たか、という瞬間だった。
「――あーっ! コムギちゃんだーっ!!」
人混みを一列、二列越えて飛んでくる、元気な元気な少女の声。よくよく響いた聞き覚えのあるその声に、二人は一気に現実に引き戻されて、声のほうを見る。
「あっエノもいるー! おーい何し……むげっ」
日もすっかり落ちた夜だというのになぜか日中にも増して元気な彼女――リザンテラがそう言っている途中で、隣で焦りまくっているマグワートに「ばかお前……っ!」と両手で口を塞がれているのが見えた。そのさらに隣ではユリグルが頭に手を当てて、あちゃー、と下を向いていた。
さすがにそのままにしておくような距離でもなかったため、二人と三人は流れで近づいて合流することとなった。人影で見えなかったが、ユリグルの隣にはノイバもいたらしい。
流れで今度は騎士隊の四人――おそらく仕事の話をしているのだろう――とその後ろをコムギとマグワート、という形で人混みの一部に溶ける。
「すみません……クッソ邪魔してしまって……」
マグワートは目を細めて眉間にしわを寄せながら、自分の失態のように何度も謝っていた。カップルというより保護者みたいだ、と感心しつつ、コムギはエノに伝えられなかった言葉を飲み込んでしまった。
多分その後に彼らがすぐ仕事をしていたのであれば、チャンスがないことはなかったかもしれない。ただ騎士隊がもうすぐ街からいなくなってしまうということもあってか、彼らは街の人たちに囲まれたり、飲みに連れて行かれたりして――とにかく、告白はおろか、ダンスパーティーへの誘いもできる雰囲気ではなくなってしまったのだ。
それから二時間ほど経って、街の人たちも徐々に寝静まっていき――ダンスパーティーが始まったらしい。
らしい、というのはコムギがパーティーの舞台である中央部から少し離れたところから眺めるぐらいにとどめ置いているからだ。踊る相手もいないからと、のんびり、そこにいない誰かと踊る自分を想像しながら、鮮やかな光飾をただぼんやりと見つめていた。
その時、なにか――映ってはいけないはずのなにかが、コムギの視界の端をかすめた。
――ダイズ?
なんの見間違いかと思った。なにより先に、誰と、あるいは何と混同したのかを探った。だけど、遠くのほうを駆けていくのは、紛れもなく愛する弟ダイズの姿で――こんな夜半には、家でとっくに寝ているはずだった。
見間違いであるのならそれでよかった。むしろ、見間違いであることを確認しに行くと言っても過言ではない。どちらにせよ、誰にせよ、この時間に小さな子が一人で歩いているのは危なすぎる。
コムギはドレスの動きやすさに感謝しつつ、その子の後を追いかけていった。
◇
ダンスパーティーが始まり、人々が思い思いの相手と手を取り足を取り踊り始めた頃、マグワートはリザンテラと話していた。
「……綺麗だな」
「だねー」
彼女は椅子に座って、パタパタと足を動かしている。たまに空気が読めない――例えば、二時間ぐらい前にどう見てもそういう雰囲気だったエノとコムギのところに突っ込んで行ったり――のはいただけないが、普段の彼女は以前に比べるとずいぶんおとなしくなった、落ち着いたものだと、そんな彼女の姿を見て思う。
「あのさ、マグワート」
「うん?」
「いつもありがとね、助けてくれて」
彼女の中でのいつも、の範囲がどれぐらいなのかわからないが、リザンテラはたまにそんなことを言う。その度に、マグワートはたいてい「お互い様だろ」と返すのだ。
「覚えてる? 二年前のこと」
「あんなの何十年経っても忘れられねーよ。できれば思い出したくないしな」
マグワートは勘弁してくれ、とでも言うようにひらひらと手を振る。
二年前、王都で史上最悪と呼ばれるほどの魔獣騒動があった。そこでリザンテラは重傷を負い、生命の危機に瀕したのだった。それ以降負け知らずの彼女がそんなことになるぐらいの災厄であったから、マグワートにとってはかなりのトラウマなのだが――その治療にマグワート自身も捨て身ながら助力したことが、二人の馴れ初めと言って概ね間違いないのだから、非常に頭の痛い話であるわけで。
「えー? 私は何度でも思い出したいけどなー、マグワート本当にかっこよかったから」
「いいって」
照れ隠しでテーブルに肘をつき、踊る人たちをつまらなそうに見ていると、リザンテラはふらっと立ち上がって顔を近づけたかと思うと、右頬に柔らかい感触が、ひとつ。
「は……」
「うそ、いつもかっこいいよ。だいすき」
ふふっと無邪気に笑って、それからまた右頬に二回。その度に跳ねている彼女の髪が耳に、頬に、チクチクと刺さる。
マグワートはされた箇所を押さえて顔を離し、焦りながら椅子から音を立てて立ち上がる。何度やられても慣れないそれにいちいちドギマギせざるを得ないことが悔しい。
「照れてる? かわいいなぁマグワートは」
「お前な……」
「……ねぇ、マグワート」
そこでリザンテラはくしゃっと笑って、そっと手を差し出す。
「――私たちも踊ろっ」
月光に照らされるその髪はライトグリーンに輝いているけれども、彼女の全体像はとても幻想的で、まるで一輪の花のようにマグワートの瞳には映った。
はぁ、とマグワートはため息をつくが、不満ではなく、「しょうがないな」という照れ隠しでしかなかった。
「俺ちゃんとした踊りとかわかんないんだけど」
「えーっ。でも大丈夫、私が抱えて踊ってあげるから」
「流石に恥ずかしいから遠慮しとく。……てかリザンテラも踊れないだろ」
「てへへーっ」
そんなやりとりをしながら、彼女に手を引かれて広場のほうへ歩いていく。
小さな彼女の後ろ姿を見て、そういえばこういうときいつも彼女が引っ張ってくれているな、とふと思う。リザンテラは毎日――冗談じゃなく、毎日毎朝毎昼毎晩好き好き伝えてくれるのだが、マグワートのほうはもともと感情表現自体が苦手なのも相まって、なかなか自分から伝えることはできていない。
だからこういう機会だし、と本当はダンスだって自分から誘いたかったのだが、その役をいつのまにか取られてしまった。そう思うと途端に悔しくなってきて、反撃したくなってくる。
「……リザンテラ」
「んー?」
彼女の名を呼ぶと、手を繋いだまま立ち止まって振り返る。
だから、もう一方の手で彼女の背中を抱き寄せて――唇にキスをした。口をつけて、すぐに離すような未熟で無作法なくちづけ。
「…………」
だけどもそれは――いつも元気にうるさいぐらい叫んでいる、静かさとは無縁の彼女を黙らせる程度の効き目はあったみたいで。
「ほらどうした、踊りにいくんだろ」
固まった彼女の手を引いて、自分も恥ずかしさを隠すようにずんずん歩き始める。
――形勢逆転だ。
◇
ゆったりとした音楽に合わせてダンスに熱中する人たちの横を申し訳なさそうにくぐり抜けてきたグレフは、広場の端の椅子に座っていたマスカを見つけると隣にどかっと腰掛ける。
「ういー、お疲れさん」
「あんたは全然疲れてなさそうだけどね」
「あーひどいひどい、俺結構重労働してきたんだけど?」
「知ってるよ。お疲れ様」
二人は笑い合うが、さすがに祭りの忙しさは何度経験しても厳しいところがあって、お互い疲れた顔を見て力無く笑った。
「……コムギ、うまくやれてるかなぁ」
マスカがため息混じりにそう呟く。
「今どうなってんの?」
「なんか、エノさんをダンスに誘いそびれちゃったとかで落ち込んでたんだよね。だから二人きりになれるように、ノイバとかにもお願いしておいたんだけど……」
「あれ? でもさっきエノさん街の人たちと食事してたぞ」
「はぁ? 嘘でしょ、何やってんのあの人……」
みるみる不機嫌になるマスカに、余計なこと言ったかもと若干後悔しつつ苦笑する。彼女はいつもコムギのことを気にかけているが、エノ絡みになると本当にそれが顕著である。
「私って、お節介なのかな……」
「うん、結構」
「うっざ!」
いつもの軽口の叩き合いだから、別に気にしているとは思えないが、グレフは一応フォローを入れておくことにした。
「やれることはやったんでしょ? じゃあ後は、コムギを信じるだけでもいいんじゃないか。俺はエノさんのことだって信じてるしさ」
「……そう、だよね。うん、ありがと」
珍しくなよなよしている彼女に驚きつつ、グレフは励ましのつもりで――しかし、本気で思っていることを伝える。
「まあマスカがコムギのこと手焼いてるの、俺は良いと思うよ。俺らのこと知らない人が見たらそりゃ過保護って思われるかもしんねーけど……マスカがコムギのこと、っつーかそもそも他人に対して全般的に面倒見いいとことか、俺すげー好きだよ」
勢い余って好意まで滑らせてしまって、言った後に顔が熱くなっていたのだが、その部分はマスカは「はいはい、ありがとありがと」といつもの軽口だと思って流してしまった。助かったは助かったし、マスカも笑顔になってくれてよかったのだが、どうにも釈然としない。
「――いや、結構本気で」
ロマンチックな音楽に、祭りという非日常的な雰囲気に、酔っていたのかもしれない。グレフは気がつけばそんなことを口走っていた。幸か不幸か、走り始めた以上は、簡単には止まれなかった。
「――そういうところ、すげー好きなん、だけど……」
ようやく減速できた頃には全部言ってしまっていて、言ったグレフも、言われたマスカも、その瞬間から同じ表情のまま、見つめ合うまま。
マスカは本当に理解できていない、というか急に知らない人に話しかけられたような顔で、停止していた。なんだその表情は、どういう感情の表れなんだ? とグレフが深読みしてだらだらと汗をかき始めていると、長い沈黙の末に。
「…………へっ?」
なんとも気の抜けた、ふにゃふにゃした間抜けな声。それからグレフと同じように、体温上昇から来ていると思われる汗の粒。
二人は硬直したまま。グレフは心の中で叫ぶ。
――どうしよう、こっから。
え? どうすればいいの?
◇
隊務の合間、ユリグルは広場の中央でダンスパーティーを見ながら、隊長ノイバと二人で休憩を取っていた。ノイバは椅子の背もたれに腕を後ろ向きに伸ばして座り、ユリグルは隣の木に寄りかかって腕を組む。
踊る人たちの中、とりわけ知り合いの姿は嫌でも目に入る。同隊のリザンテラの滅茶苦茶な動きに振り回されるマグワート。それから、確かコムギの幼馴染だとかいう、二人の男女はぎこちない動きで探り探り踊っている姿がなんともいじらしい。しかしノイバはそれを見て嘆くように夜空を見上げる。
「若ぇ〜」
「そう変わらないだろう」
「まあな」
二人は日頃の憂いを吹き飛ばすように、ハッと大きく、短く笑った。
「ユリグルはこの一ヶ月ちゃんと休めたか?」
「まあおかげさまでのんびり過ごせたよ。……ノイバは随分楽しそうにしていたみたいでなによりだよ。今日もね」
「まったく耳と頭が痛い話だ」
また赤ら顔で彼はそう言った。ユリグルはこういうくだらない談笑の時間が嫌いではなかった。
魔獣狩りや、時に人間と激しく戦わなければならないような仕事を忘れ、王都からはずれた穏やかな街でのびのびと過ごすのは、もちろんユリグル自身にとっても良い休暇になったが、同時に隊長であるノイバが本当に楽しそうに過ごしていたことを嬉しく思っていた。少しばかり酒を飲みすぎなのはいただけないが、王都での激務を思えばこのぐらいハメを外したって構わないとさえ思える。ユリグル自身がそうすることがなかったのは、彼が珍しくはしゃぐ姿を見て満足していたからなのかもしれない。
ノイバは思い切り伸びをして、あくびをして、息をつく。
「王都に戻ったら早速忙しくなるだろうなぁ」
「からだは鈍ってないか?」
「鍛錬は怠ってないさ」
彼はいくら泥酔して帰ってきても、魔法の練習だけは欠かさなかった。光魔法の名家として染みついてきたものは、無意識にでも反復してしまうのだろう。いくら醜態を晒しても、そういう堅実な努力を継続できる人間として、ユリグルは彼のことを尊敬していた。酔っ払って魔法で家を破壊するのは二度と勘弁してほしいけれども。
「ときに――お見合いのほうはなんとかなりそうなのか?」
「あー……まあ、概ね変わりなく。順調だ」
なぜだかノイバはこの話をあまりユリグルにしたがらない。結婚ともなれば彼の人生にとって大きな出来事のはずなのだが、最初に伝えられて以降彼が自分から話したことがない。別に薄情な奴だとは思ってはいないが、その点エノや他隊の騎士にはヘラヘラと話しているようで、思うところがないわけでもない。
「由緒正しきティフローラ家のエリートは大変だな」
「……おちおち恋愛も満足にできないからな」
半分嫌味のつもりで言ったのだが、彼の返答は意外にも私的感情に溢れたものであった。こいつ恋愛に興味あったのか、と内心驚きつつ、ユリグルは一度咳をしてから問いかける。
「自由恋愛に憧れがあるのか? 意外だな」
「……まあな」
酒のせいなのか今日の彼はやけに素直で、そのくせ風にたなびかれる長髪からのぞく彼の横顔はひどく大人っぽさを感じさせる。
「……」
二人の間を涼しくて寂しい風が吹き抜ける。喧騒の中の沈黙は、心地よさと切なさが半分ずつぐらい。やがてユリグルのほうから、声をかける。
「私たちも踊っておくか?」
冗談のつもりだった。言おうと思った段階では、確かに軽口の範疇に収まっていた。だけど、軽い調子で言葉にしてみてから、ユリグルはそこにほんのわずか期待を込めてしまっていたことに気がついた。彼に期待することなんて、なにもなかったはずなのに。
「ありがたいお誘いだが――やめとくよ。こういうのはちゃんとした相手にとっておけ」
だから、やんわりと断られてちゃんとがっかりしている自分に気づかざるを得なくなってしまった。そしてなるべくそれを悟られないように、笑い飛ばしながら「……そうか」とつぶやいた。
「次もみんなで来れるといいな」
「そうだな。……もし、次の祭りの時までに見合い相手にこっぴどく振られたりしてたら……その時は踊ってやろうじゃないか」
「ははっ。……ねーよ」
無邪気に笑っているように見えて、ノイバの顔はどこか物悲しげに見えた。
――もうちょっとだけ彼が酔っ払っていたら、なにか変わっていただろうか。
なにか、わずかでも、こぼしてくれていただろうか。
そこにはお互い言葉にしてはいけない想いがあるはずだった。そして悲しいことに、二人とも分別がついてしまう大人だった。
――だから、この気持ちはしっかりしまって、墓場にでも飾りつけてやる。
◇
「ダイズ!!」
「あっ、お姉ちゃん!」
気がつけば花畑の近くの荒地まで走って、ようやくダイズを引き止めることができた。
呼吸も荒いまま、コムギはダイズの目線までかがみ込んで彼の肩を持つ。
「何やってるの!! こんな時間に……」
「マメが逃げてっちゃって……」
ダイズもアズキもある程度歳を重ねてからは面倒ごとを起こすこともなく、コムギも怒り慣れていないからとりあえず大声を出してみるが、ダイズはそれどころじゃないというぐらい顔面蒼白だった。
そういえば、広場でダイズを見かけた時から、彼は下を向いて走っていた。足跡かなにかを追ってきたのだろうが、今はそんなことを聞いている暇はなく、ただダイズを家に帰すことと、マメの行方を。
するとダイズが「あっあれ!」と言って、ぬかるんだ泥沼のほうに指をさした。昨日の大雨でぐちゃぐちゃになっているのだろう。見れば、マメはその小さな体を泥に埋めて、もがいている。
コムギは一秒も躊躇うことなく、袖をまくって沼地に腕を突っ込んで深さを確認し、ずぶずぶと音を立てながら、太ももの半分より下を泥に沈めながらマメのほうへ突き進んでいった。
それからマメを拾いあげて抱き抱えると、無事沼地から脱出した。マメは少し弱っているように思ったが、ダイズの周りをくるくる回り始めて、元気を出してきたようだ。
「ダイズ。こういうことがあっても絶対一人で動いちゃダメよ。ちゃんとお姉ちゃんとか、大人の人探して助けてもらって」
「はい……」
マメを抱きかかえ、べそべそ泣いて頷くダイズにそう伝えながらも、コムギはあんまり人のこと言えないなと内心苦笑する。逆に言えば、そういう向こう見ずなところは、ちゃんと血の通った姉弟の証なのかもしれない。
それからは、たまたま近くにいた自警団の人に声をかけて、ダイズを家まで送り届けてもらうことになった。自警団の人は、全身泥だらけのコムギを見て心配したが、コムギは怪我は無いので大丈夫です、と言って去ってもらった。
「はー……ひっどいなぁこれ」
コムギは木がまばらに生えた荒地で自分の姿を確認して、思わず笑いさえあふれてくる。靴は中までぐちゃぐちゃ、純白だったドレスは、月に照らされても光ることはなく泥まみれ。沼地以外の草地も、昨日の雨でぬかるんでいたが、もうこうなってしまっては仕方がないと、コムギは膝を抱えて地面に座り込んだ。
コムギが街の中心部まで戻るのを拒んだ理由は、こんな姿を万が一でも想い人に見られたら、という心配からだった。弱いところ見せられる関係って言ったって、限度がある。これはない。おめでたい日に泥まみれで歩く馬鹿な女として記憶されたくない。
(ごめん、マスカ……ダメだった。アズキも……せっかく作ってくれた服、台無しにして……)
空を見上げると、こんな時でも美しく輝いている月が羨ましくなりそうだったから、コムギは下を向く。そうしたらそうしたで、今度は涙が転げ落ちそうで、気持ち的にも泣きたい気分だったが、一日街の有名店の看板娘として張り詰めて糸がここにきて切れたらしく、泣く気力も湧かなくなっていた。
◇
どれぐらいそうしていただろうか。気づいていないだけで、疲れから寝ていたのかもしれない。月の位置はさっきより結構動いているような気がするけれど、気のせいかもしれない。早く夜が明けてしまえと願うほど、長く感じているだけな可能性もある。
ぐちゃっ、と左の後ろのほうで泥葉を踏む音が聞こえて、コムギは顔を上げて振り返る。
――ああ、最悪だ。
最初に思った感想はそれだけだった。どうして彼は辿り着いてしまうのだろうか。どうしていつも一番辛いタイミングで、会ってしまうのだろうか。
それから、徐々に湧き上がってくる、嬉しさ。どうして彼はどこにいても辿り着いてくれるのだろうか。どうしていつも一番辛い時、来てくれるのだろうか。
コムギは目が合う前にサッと逸らし、月を見ながら独り言のように呟く。
「……どうしてここがわかったんですか」
「あなたを探していたからです」
「……答えになってないですよ」
またこんなタイミングに話しかけられたせいで、嫌味ったらしくなってしまう。むすっとしたままのコムギに、エノは話し続ける。
「……街の人たちに聞いてまわりました。そうしたら、ダイズくんを追いかけて行ったのを見た、と」
「……そうですか」
エノが一歩近づいたところで、コムギは「来ないでください」と悲しく制止した。
「……私、エノさんが苦手なことたくさん教えてくれて、嬉しかったのに……自分は情けない姿見られるのは怖いままなんです。ダメなところ見せるのってこんなに怖いんですね」
コムギは力無く笑った。
こんな姿、誰に見られたって恥ずかしいのに、彼に見られたいわけがない。向き合えるはずがなかった。
「……コムギさん」
コムギは振り返ることも返事をすることもできずに、黙ってうずくまっていた。
「……コムギさん」
彼に名を呼ばれて嬉しい。彼が心配してくれて、本当は嬉しい。だから、反応しないのも深層心理ではもっとそうしてほしいのだと思う。さっきまで子供に説教しておいて、自分もまだまだ子供みたいな精神性をしていることに気づいて、恥ずかしい。
彼はばちゃばちゃと足音を立てて、近づいて、近づいて――
ふと、コムギの体が軽くなる。
「――は」
「失礼します」
気づけばエノの腕の中にいた。コムギが座っていた姿勢のまま、背中と膝の裏側を両手で軽々と持ち上げられてしまったようだ。来ないでください、どころではない、こんなにくっつくこと、今まで一度も――いや、それよりも今は。
「え、エノさんっ私今本当に汚くてっ!」
「落ちたら危ないので、暴れないでください」
乾いていない泥だらけのまま抱えられて、彼のマントや隊服まで汚れてしまっている。だけども彼は柔らかな表情のまま――こっちの気も知らないで、とまでは思わないけれども――コムギを抱えてそう言うから、素直に従うしかなくて、彼の腕の中でおとなしく、借りてきた猫のように静かになる。
ぴたりとくっついた彼の胸の中から、心臓の鼓動が心地よく聞こえてくるせいで、コムギはうとうとしながら運ばれつつ、ふと彼はどこに運んでいるのだろうと思った。だけどコムギは、彼が群衆の中に晒すような行為はしないだろうと確信していたため、身を任せることにした。
階段のようなところを上がるたびに、コムギのからだがぐわんと揺れる。おそらく、エノが向かっているのは――
「降ろしますね。足元ぬかるんでいるので、気をつけて」
まるで高級な壺でも設置するかのように、丁寧に足から降ろされたコムギは、周りを見渡す。そういえばさっきの場所はここに近かったなと、月明かりに照らされる満開の花畑を眺めながら思う。ここはいつしかコムギがエノ、マスカ、ノイバと一緒に来た思い出の場所だ。
「さて、コムギさん。早速ですが、僕はあなたの発言をひとつ訂正しなければなりません」
エノはコムギに向かい合うと、そう言った。彼に抱きかかえられて心理的にも肉体的にも距離を縮められてしまったせいで、気づけば向かい合って目を合わせることもできるようになっていた。
「先ほど、コムギさんは今のご自分の姿を情けない、弱い、と仰っていましたね」
「それは……そうですよ、こんな泥まみれで、消えちゃいたいぐらい恥ずかしいです」
せっかく合わせた目をそっぽにやってぶー垂れるコムギに苦笑しながら、エノは一度咳払いをする。
「コムギさんは、僕と初めて会った日のことを覚えていますか」
「当たり前じゃないですかっ、お店に一人で来てくれたときですよね」
エノはそこでくすっと笑ったが、コムギはなぜ笑われているのかわからず首を傾げる。
「でも僕のほうは、あれが初めてではないんですよ」
「……? どういう……」
「……あの日の午前のことです。センバにやってきて市長に出迎えられた翌日でしたから、僕は一人で散歩をしていました。そこで僕は――全身を泥まみれにした女性が、喜びながらなにかを見つけて、老婦人に渡しているところを見てしまったんです」
その事件を思い出すまでに時間はそうかからなかった。なにせ今ちょうどその時のお婆さんが譲ってくれたとかいう布で作られたドレスを身にまとっているのだから。だからこそ、コムギは開いた口が塞がらなかった。自分が初対面だと思っていたものが一方的だなんて、想像できるわけがない。
「あっ、だ、だからあの時……」
今一度あの時のエノの言葉をよく思い出してみる。
『……パン屋さんだったのですね』
『いえ、そういうわけではないんです……。ただ、ちょっと意外だっただけで』
パン屋という飲食に関わる仕事に従事している人間が、朝から泥まみれになっていたらそうであると予想できるわけがない。そもそもあの時はエプロンもほとんどダメになっていたから――ちょうど、今と同じように。
「な……なっ、なんで……」
「……すみません、言い出す機会を伺っていたらこんな時宜に……」
驚きのあまり未だ口をぱくぱくするコムギに、エノは申し訳なさそうに笑っていた。それから気を取り直して、彼はまた口を開く。
「何が言いたいかというと、誰かのために泥だらけになっている今のあなたは、僕が最初に見た時と何ら変わらない姿なんです。そしてそんなあなたの姿は、弱いところでもダメなところでもなく――強くて美しく、誰よりもかっこいい」
彼は真剣な表情のまま、こう続けた。
それは多分、コムギがずっと聞きたくて、聞けなかった言葉を内包していて。
「パン屋のコムギさんではなく、誰かのために力を尽くし、他人の幸福を自分のことのように喜べる泥だらけのコムギさんに――僕は、恋に落ちているのだと思います。あの時から、ずっと」
その喜びに浸っている間もなく、エノは泥草の中に膝をついて頭を下げる。
「僕は一人の人間として、それから騎士として――そんなあなたを心から尊敬しています」
それからエノはおもむろに立ち上がると、片手を差し伸べて、微笑んだ。
「コムギさん。――今夜、僕と踊っていただけますか?」
コムギは静かに目の端から涙を流しながら、上ずる気持ちを抑えて、震えた声でこう答える。
「――喜んで、お受けいたします」
コムギが彼の手を取ると、彼は一気にコムギを抱き寄せる。その行動にびっくりしつつ、コムギは彼の服装を気にする。
「……あの、エノさん。やっぱり汚れちゃうので……」
すると彼は至近距離でにこりと笑って、こう返す。
「あなたと泥にまみれるのなら、名誉に違いありませんよ。……踊りましょうか」
泥まみれの二人は、一歩、また一歩とステップを踏む。たくさんの人に支えられて、短くも長かった二人の道のりを、噛みしめるように。
遠巻きに見える、街のぼんやりとした照明たちと、うっすらと聞こえる落ち着いた楽器の音。
友人や知り合いがそれぞれの想い人と踊っているであろう街の中央からはずれた、二人きりには広すぎる花畑。
暗闇の水平線から吹き二人を後押しする潮風。鮮やかに咲いて祝福の拍手を送る色とりどりの花。二人を優しく見守るように照らす淡い色の月。
泥にまみれても、雨にうたれても。二人を隔てるものはもう何もない。
さあ、今宵は満足のいくまで、踊り続けよう。
これはパン屋の看板娘と、黒猫の騎士の恋物語。
『エノは黒猫の騎士さま』
著 ララの丸焼き




