八話 アズキは大切な妹
パンの置かれていないパン屋、というのは実に物悲しいもので、染みついた麦の匂いがそれをいっそう強く感じさせる。臨時休業のため誰もいない店内で、コムギはため息をつく。
予定していた通り今日は定休日ではないにも関わらず、母の同意のもとコムギの判断で休業とした。
コムギの体調はまだ優れなかったが、肉体労働が無いだけでずいぶんと気が軽く、冷静に行動できている。しかし寝て起きたからといって、課題はまだなにひとつ解決していない。コムギは厨房にのぞく壊れた魔法の窯を見て、またひとつため息をつく。
そうしていても良い案は浮かばないが、しかし何もしていないとそれはそれで落ち着かないので、コムギは本日何度目かもわからない店内外の掃除を始める。
しばらく床掃除をしていると、外から足音がふたつ近づいてくる。臨時休業の札は店に続く道の入り口と店のドアに置いたのだが、すでに何人かの客がドアの前までやってきては、残念そうな足音を鳴らして帰っていくのを、コムギは店の中から申し訳ないと思いつつ見送っていた。
しかしどうも今回は様子が違うらしく、ドアの前でなにか言い合っている声がする。その声に聞き覚えがあったので、コムギは自らドアを開けて出ていく。
「――あっ! ほら、コムギちゃんいたよ!」
「いたよじゃなくてなぁ……」
いつもこの子は元気だな、と思いつつ、ふわふわの緑髪を揺らして飛び跳ねる少女――リザンテラの姿を確認する。ついでにその隣でヘトヘトになっている少年、マグワートの姿も。
「マグワートさん、リザンテラさん、こんにちは」
コムギが二人に挨拶をすると、彼はくたびれたまま、事情を説明し始める。
「すみません、臨時休業って書いてあったんで、止めたんですけど……」
「美味しいパンが食べたーい!」
「こうなっちゃって」
なるほど、とコムギは苦笑する。
「店に行っても誰もいないよって言ったんですけど」
「コムギちゃんの匂いしたもん!」
「こうなっちゃって」
そのやりとりに再度苦笑しつつ、コムギは自分の腕の内側あたりを嗅ぐ動作をする。察したのか、マグワートは補足する。
「いや、リザンテラの鼻がいいだけっす。鼻っつーか、五感全部凄いんですけど」
そういえば森に入った時もそうだったなぁと思い出し、コムギはリザンテラのほうを見る。腕を組んでエッヘン、と大威張りしている。あの時は一瞬獣のように機敏な動きを見せていたけど、こうしていると本当に可愛らしい子だな、と思ってコムギがニコニコしているといると、リザンテラは思い出したように口を開く。
「コムギちゃんってマグワートのこと知ってるのー?」
「あ、うん、昨日色々と助けてもらいまして……」
その節はどうも、とコムギがぺこっとお辞儀をすると、マグワートも思い出したように口を開く。マグワートとリザンテラの二人は性格がまるで違うように見えて、こういう細かい所作が時々似ているかもしれない。
「あ、そういえばお母さんその後どうですか?」
「おかげさまで順調に治ったみたいで、朝も割と元気だったんですけど、念のためもう一日休んでもらうことにしました」
マグワートは「よかったです」と、笑顔とまではいかないが柔らかな表情でそう返した。それからコムギは、お腹を空かせているであろうリザンテラのためにドアを開ける。
「どうぞ」
「いやいや、休みの日なんで流石に悪いっす。コムギさんも……」
リザンテラの代わりにマグワートが答えて提案を拒もうとする。彼は昨日コムギも体調が悪かったことを知っているから、その配慮もあってのことなのだろう。実に真面目な人だと思いながら、コムギは接客の笑顔で返す。
「いやいやいや、昨日のお礼だと思ってください」
マグワートはまだ渋っていたが、その横でリザンテラが無邪気に店内に入っていくのを見て、諦めたように「……じゃあ」と足を踏み入れた。
パンの置いていない店内の違和感がすごいのか、リザンテラはどこか落ち着かない様子でカウンター席に座る。その横の椅子を引いて、マグワートが隣に座る。それからコムギはカウンターのほうに歩いていきつつ、純粋に気になったことを質問する。
「今日は二人でお出かけですか?」
すると、リザンテラは待ってましたと言わんばかりの勢いで叫ぶ。
「うん! デート!」
「デート?」
コムギがそう聞き返すと、リザンテラは自信満々の笑顔を作る。
「うん! だってマグワートは私の――ゅもぎょっ!」
すると隣で黙って聞いていたマグワートが、カウンターに乗り出しそうになっているリザンテラを引っ張りつつ、彼女の口元を左手で押さえた。
「余計なこと言うな」
「おえいあああいえお!」
「余計だ」
リザンテラはもごもごと彼の手の中で話していた。
昨日マグワートと話した時は、声も低いしテンションもあまり高くなかったのでてっきりかなりクールな子かと思っていた。だが、どうやらそれは思い違いだったらしいと、リザンテラの口を押さえ続ける彼の気恥ずかしそうな表情を見て悟った。なんとまあ、可愛らしいカップルだ。
ところで、コムギにとって騎士隊のメンバー――マグワートは厳密には違うらしいが――と今話せる機会というのは非常にありがたかった。昨日は色々あってまだ解決していない問題も多いのだが、その中でもとびきりコムギの頭を悩ませていたのは、間違いなくエノとの仲違いの件であった。仲違い、と言っても一方的に気持ちをぶつけてしまったので私が悪いことだと理解している、とコムギは考えているのだが。
だからエノと近しい人間に話を聞けるというのはかなり助かる。昨日今日で直接エノに話すのはなかなかハードルが高い。かといっていつまでもこのままでいたら、きっとぎくしゃくしてしまう。それは避けたい。
コムギはコップの水を持ってくると、二人の前に並べる。リザンテラが一秒で飲み干す。それからコムギは意を決してお願いをする。
「ちょっと――相談したいことがあるんですけど……」
◇
「……なるほど」
山盛りのパンをどんどん削っていくリザンテラの横で、マグワートは難しそうな顔でうなった。リザンテラのほうはどうだろう。話を聞いているのか聞いていないのかよくわからないが、時々ウンウンと独り言以上相槌未満のなにかは発している。
「エノさんって……お二人から見てどんな方ですか?」
別に彼らにとっておきの仲直り法を思いついてほしいというわけでもないから、とりあえず簡単な質問をする。こちらは答えやすいようで、二人は一回顔を見合わせる。
「まあ一言で言うなら『完璧』っすね。性格、能力ともに欠点がまるでない」
「かんぺきー!」
「そうですよね……」
二人の言葉で改めて彼の振る舞いがそうであることを再認識させられて、コムギはどこか安心している自分を発見する。少なくとも自分だけが思い込んでいたわけではないのだと。
「俺はリザンテラとか他の二人ほど親しいわけじゃないっすけど、まあ関わることは多いんで……それでもあの人がいつも通りじゃないとこは見たことないです。いつも、いつも通りなんすよ」
しかし、マグワートはこうも続ける。
「俺はそういうの、まあスゲーっては思うけど、――あんま良いとは思わないっすね」
「え……」
「ええっ! なんでー?」
コムギが聞くより先に、口の周りに食べかすをどうしたらこんなに付けれるんだというぐらい付けたリザンテラが驚きを代弁する。マグワートはコムギのほうに話し続ける。
「大前提俺はあの人のこと普通に好きですけど、でも多分深い仲にはなれないだろうなって」
「というと……?」
「あの人絶対弱みとか見せないじゃないですか」
「弱み?」
「はい。……例えば、なんすけど」
マグワートは水を一口飲んで、ちらりと横目でリザンテラを見てから話し始める。
「俺もリザンテラも魔法属性が治癒適性で、一緒に治癒術師やってた時期とかもあるんすけど……俺は重傷の治療とかリザンテラより下手だし戦闘員じゃないから戦えない。感情表現もあんま得意じゃないんで怒ってる? ってよく聞かれるし。でも俺はリザンテラより魔力量は多いし、リザンテラより賢いです」
「なっ……!」
リザンテラは心外な後半の文にお怒りのようだが、彼は右手を彼女の口元にかざし、食べかすを飛ばされるのを防ぎつつ続ける。
「まあつまり何が言いたいかっていうと、――弱いところダメなところ苦手なところ見せ合いたい、認め合いたいって思えるほうが良い関係築けると思うんすよね」
その言葉にコムギは昨日の自分を振り返ってみる。あの時、咄嗟に弱っていてイライラしている自分を見ないでほしい、エノに見られたくないと感じた。でももし、彼とこの先も関わっていきたいのなら、そういうところを見せないでやっていくのは、自分には無理だ。そしてそれを無理に隠そうとすれば、昨日みたいな結末が待っている、というのが、マグワートの言っていることの究極化なのだろう。コムギがひとり納得していると、マグワートは右を親指で一度さして、話を続けた。
「リザンテラは基本わがままだし、食いしん坊だし、すぐ物壊すし、ダメなところ挙げたらキリないけど――そういうダメなとこが可愛いし、俺は好きなんで」
マグワートは、思いのほか一切照れずにそう言い切ってみせた。哲学を聞いていたはずが、コムギはなんだか聞いているこっちが恥ずかしくなるような惚気を聞いたような気がしてくる。
そしてコムギはてっきり、リザンテラがそれこそいつもみたいに自信満々でエッヘンと腰に手を当てているものだと予想していたのだが――彼女はマグワートの隣でぷしゅーという音が聞こえそうなぐらい暑そうにしながら、しぼんだ風船のように小さくなって恥ずかしがっていた。
(意外だ……!)
普段彼女がマグワートを振り回しているのは想像に難くないのだが、時折こうして大きな反撃をくらわせているのではないか、と空想してみると微笑ましくなる。
同時に、リザンテラの幼い可愛らしさに――性格は正反対と言ってもいいかもしれないが――コムギは妹のアズキを重ねていた。
◇
時は少し遡って、朝。
タニカル王国騎士団二番隊隊長、ノイバ=ティフローラの朝は早い。
昨晩、ノイバは街で知り合った少女マスカが働いている行きつけの酒場で飲んでいた。雨も強くなってきたから夜通し飲み明かそうと意気込んでいたのだが、マスカは途中で店を閉めてしまい、ノイバは大雨の中放り捨てられてしまった。
そんなわけで今日は健康的な時間に目を覚ましたノイバは、騎士用の邸宅の階段をのそのそとくだる。
この日はエノがキッチンに立ち朝食を用意していた。エノとユリグルが朝食を作ってくれることが多いが、エノはこの街に来てからパン屋に入り浸っているからその調理姿はあまり見ていない。といってもノイバもそれを仕向けるような片棒を担いだことがあるのだが。
(……ん?)
立っているエノの横顔を見て、ノイバは違和感を覚える。そもそも毛に隠れていて顔の様子は見えにくいことが多いが、さすがに何年も付き合いがあれば昨日今日で変わったところぐらいは気づく。
ノイバにはエノの目元にくまができているように見えた。
(……いや、気のせいか)
あり得ない。エノが自己管理もできないような人間では無いことぐらい、ノイバは誰より理解している。そもそも極寒の地と灼熱の地下洞窟を一日で往復した時でさえ体調を崩さなかった男だ。たかが港町に数週間いたところで寝れないわけがない。
それからエノの手料理を一口運び入れて、思わずフォークを口に突っ込んだまま停止する。何やってんだお前、とでも言わんばかりに、ちょうど夜の見回りから帰ってきたユリグルがノイバをつつく。
説明するより実際に食べさせたほうが早いと思い、ノイバはスプーンでスクランブルエッグを一口分救って、エノのほうを凝視したままユリグルのほうに差し出す。ユリグルは不思議そうな顔をしてから、ノイバが持つスプーンのほうに顔を伸ばしてそれを食べる。
「……!?」
ユリグルは思いっきり顔をしかめて、ノイバと同じように、皿洗いをするエノのほうを見つめた。
――エノが塩の分量を間違えている?
信じられないことだが、どうにもそういうことらしい。とてもじゃないがしょっぱくて食べれたもんじゃ無い。酒のつまみじゃないんだから、朝からこんな濃い味付けの飯をエノがなんらかの意図をもって提供するとは考えにくいし、そうだとしても一言、二言確認は取るはずだ。
「……エノが料理でミスするの、見たことあるか?」
隣にいるユリグルは、硬直しながら首から上だけを横に振る。
あり得ない。かつて騎士としての戦いの中で、魔獣が大量発生して多量の血肉を見た翌日にケロッとして、それでいてかつグロッキーになっていた俺たちに配慮してしばらく肉を抜いてから徐々に量を増やしたりしてくれていたような奴だ。なんでもない日に塩を多めに入れて気づかないわけがない。ノイバもユリグルも驚きが大きすぎて、エノの動きを観察することしかできない。そうしていると、なんかいつもよりソワソワして落ち着きがないように見えてくる。
――ガッ、パリン!
それは錯覚ではなかったようで、エノが皿の一枚を手から滑らせて割るところを目撃する。ノイバもユリグルも、そして当のエノも、割れて三枚といくつかの欠片になった残骸を見つめる。目の前の光景が非現実的すぎて、多分エノ本人が一番受け入れられていないのだろう、「皿が割れた? 何故?」とでも言いそうな、純粋な疑問の顔をしている。
それからエノは短く「……失礼」と言って、どこから取り出しのだろうか、小さなほうきとちりとりを使ってササッと皿の破片を掃除する。例えばリザンテラがなにかをこぼした時はこんな感じで、気付けば掃除が終わっているのであるから、この仕草はいつもと変わりない。しかしだからこそ、そのイレギュラーをエノ自身で作ったというのがにわかに信じがたくて、片付け中のエノを横目に、ノイバはユリグルとまた目を合わせる。
そしてエノがそれを捨てに行く後ろ姿を二人で見ながら、また問いかける。
「……エノが皿を割ったの、見たことあるか?」
ユリグルは首を小さく横に振る。
すると、エノはドアを開けることなく――そう、開けることなく、廊下に出ようとした。
ゴニュッ、と妙な音を立てて、エノはドアに激突する。
「……エノが扉を開け忘れるなんてことは?」
ユリグルは首を横に振る。
エノは今のどう考えてもあり得ない失態について特に触れることなく、廊下に出て曲がって――つまずいて、転んだ足が真横に伸びるところがドアフレームに納まるのだけ、二人から見えた。
「……エノが何もないところでコケるのは?」
またユリグルは首を横に振った。
ノイバはこれまでにエノを心配した記憶がない。いかなる時も冷静沈着、すべての場面を完璧に切り抜けてきた彼にそんな感情を抱いている暇は無かった。だから今、自分がエノを心配している状況が理解できず、心配を心配と認識できなかった。
やがてエノが帰ってくると、二人は事情を聞く体勢に入る。
「……お前、どうした? 今日ずっとおかしいけど」
「いえ……話すことのほどでも……」
さすがに本調子でない自覚があるのか、素直に発言を受け入れるが、心ここにあらずといった感じで下を向いている。思ったより、重症だ。
ノイバは低音混じりの鼻息を漏らすと、おもむろにエノの肩に手を置く。
「一応これでも隊長なんだ。頼ってくれると、あれだ、俺のメンツ的にも助かる」
「……」
ノイバの軽口に笑ってくれる気分でもないらしく、閉ざした口は重そうかと思ったが、エノ本人も自分の異常を自覚しているのだろう、存外早く話してくれる気になったらしい。
「……実は……」
そこで、ユリグルが一度待ったをかけた。
「立ち話もなんだし、場所を変えよう。気分転換だ」
朝飯がとても食べれたものではなかったノイバも、口直しにちょうどいいと同意した。
◇
「……というわけなんですが」
こんな時間から空いていた酒場のカウンターに座ってしょぼくれていたエノは、淡々と、なるべく主観の入らない形になるようにコムギとのやり取りを語った。
「うーん……」
それを彼を挟むように両隣に座ったノイバとユリグルの二人が聞き終えると、二人とも難しそうにうなった。それからしばらくして沈黙が続く。といっても祭りの準備期間で人通りが多く、こんな時間だというのに酒を飲んでいる人間が少なくないため、店内は少し騒々しいぐらいに保たれているが。
「じゃあまず……その、言われたことに対して凹んでるってことでいいんだな?」
話し合いの開始地点の設定、という意味でノイバが確認を取ってきたが、エノはそもそもその前提に違和感を持ち、自分の中で考え込む。それから、なんとか自分の気持ちを言語化してみる。
「……そうでもないんです」
「なに?」
「むしろ、完璧だと思われていたことは、多分……嬉しいんです」
二人はあまり理解していないようなふうにエノを見てくるが、エノ自身も完全には理解できていないまま、話を続ける。言葉に出そうとしなければ具体化できない感情もある、と思ったからだ。
「僕は、騎士として常に完璧でありたいと思っていますから……」
「じゃあ嬉しすぎて様子がおかしかったって?」
「いえ、それは違います」
一人でグビグビ酒を飲んでいるノイバの半分冗談のような発言を、エノはきっぱりと訂正する。
「……完璧であること――いえ、これは彼女が僕を完璧な存在だと見なしてくれていたことを前提にするのですが――完璧であることで、彼女を傷つけてしまったのがショックというか、わからないのだと思います」
形のない糸くずのように散らばっていた思考が、まとまってくる感じがする。ただ、話しているうちにまたひとつ「わからない」が増えて、散らばる。
「わからない、ねぇ……」
「……常に気を張り失敗しないこと。最善を選択し続けること。これらは僕の根源たる精神であって、理想です。……単純に、昨晩の彼女とのやり取りが失敗だったのでしょうか」
ずっと隣で考え込んでいたユリグルだが、その思考を中断するような勢いで、エノのその発言は強く否定する。
「いーや、間違ってない。コムギとの関係を踏まえても、何らおかしいことは言ってない」
「……なら」
なぜ、というのは難しいものだとわかっていたから、エノは一瞬だけユリグルのほうに目をやって、それからまたコップの水面に視線を戻す。
「ただ、その場に置いてエノが完璧だったから、逆にダメだったんだと思う」
「……? どういう……」
その質問はユリグルにとってもまだ思案中の糸くずなのか、それからユリグルはしばらく考え込んだ。それから意を決したように彼女は話し出す。
「なんて言うのかな。自分に持ってないもの全部持ってて自分にできないこと全部できる。それでいて性格もよくて自分を気にかけてくれる。そんな奴がいたとする。そんで自分が自分の不出来で落ち込んでる時に、ソイツが『話聞くよ』とか言ってきたらどう思うかな」
「……」
「まあエノは自分より優れた人間に会ったことないだろうけどさ」
「それは」
「いや、言い過ぎじゃないね。だって私がそもそもエノより完成された人間に会ったことないから。……とにかく私は、自分にもっと力があれば、ってときにそういう状況になったら多少なりともイラッときちゃうかもしれないな。だから多分、コムギも似たようなことで悩んでたんじゃないかなって思う」
そこまで話して、ユリグルは一度口に含むように水を飲んだ。
「誤解してほしくないんだが、エノの騎士道は否定していないよ。むしろ、エノが完璧でありたいっていうのは、私は凄いと思う。実際なんでもそつなくこなすしな」
ユリグルは赤い髪を垂らしながら、横にいるエノの顔を覗き込むように念押しする。それに気づいたエノは顔をあげ、彼女と目を合わせる。
「ただ、――完璧じゃない時間を少しでも共有できれば、相手ももっと理解してくれるだろうよ」
その顔がどことなく寂しげで、エノははっとして目を丸くする。その言葉を追うように、すでに赤くなり始めているノイバも、酒を飲む口を拭いながら笑ってこう言う。
「その相手ってのは、例えば何度も一緒に戦ってきた同僚の騎士でも良いしな」
「同感だ」
これまで、一切のミスを自分に許さずにやってきたエノにとって、それは一種の気づきだった。彼らに心を許していなかったわけではない。いやむしろ、エノは彼らを、騎士隊のメンバーという枠組みを超えた戦友のように思っていた。だからこそ、大切な彼らの前では常に完璧でありたいと思っていた。自分の中の理想を追い求めると同時に、その理想を具現化し彼らに提示することがリスペクトなのだと思っていた。
だけど、彼らはどうだっただろう。一切の隙を見せない自分のことを、果たして同じように友として感じてくれていたのだろうか。いや、そうだからわざわざ自分の相談に乗ってくれているということはわかっている。長年の付き合いで、それはそういうものなのだと半分諦めのように受け入れてくれていた部分もあったのだろう。
でも、あの人はそうじゃない。長い人生の中で見れば、まだ会って間もない彼女にとって、自分はどう映っていただろうか。軽薄な人間に、見えていなかっただろうか。
エノの中の糸は再びぐちゃぐちゃになった。だけども不思議と悪い心地はしなかった。端と端を、両隣の二人がしっかり持って待っていてくれるのが伝わってきたからだ。
「……そうすることにします」
エノは少しだけ目を細めて、自然と笑みをこぼした。
それから両隣の二人もつられてフッと笑う。今までにこういう会話がなかったわけじゃない。ただ、これまでとは明確になにかが違う、核心が動いた雰囲気は三者三様に感じ取ったのだろう。
そんな雰囲気に包まれていると、ノイバが両手を大きく広げて背もたれに思いっきりのけぞって伸びをした。
「しっかしアレだなぁ、なんか負けたって感じがするなぁ〜!」
「……?」
急にそんなことを言い出したノイバに、エノはその真意を問うように見つめる。だが、その無言の問いに答えたのは左隣のユリグルのほうであった。
「十数年来の仲でも相談ごとなんか一つもしなかったエノが、惚れた女に調子崩されて悔しいんだろうよ」
「ほっとけ」
ノイバは不貞腐れたように、でもどこか嬉しそうな表情で、また酒を音を立てて喉に通した。
「しかし凄いな、あの子は。エノを骨抜きにしてしまうなんて」
「エノに負けず劣らずしっかり者だもんなぁ。街でこんだけ愛されてるわけだ」
もはや名家のエリートとしての品格など微塵も感じられないぐらいの、酒焼けしてしゃがれた声でノイバはユリグルにそう返す。すると、そこで。
「惚れ……僕は彼女に惚れている、のでしょうか」
エノがぽつりとそう呟くと、二人は飲み物を飲む手を止めてエノのほうを見つめる。何を言っているんだコイツは、と考えているのが丸わかりな表情で、しかし茶化すでもなくただ黙って言葉の続きを待った。
「正直、まだよくわかっていません。なにぶん、今まで剣に打ち込んでいて人並みの交際経験がありませんから……」
ユリグルとノイバは二人、横目で視線を合わせる。二人は声に出さずとも、なんとなく、考えていること、エノについてどう感じているかが一致している感じがした。
「確かに、完璧でありたいと思う気持ちが彼女の前で特に強まっていたことは否めません」
「ああ、さっきも言ってたなそんなこと」
「ですから、これが恋なのかどうか自分では、恥ずかしながらわかりません」
それからエノは「ただ」と前置きして、まっすぐな瞳で、どこかここにはないなにかを見つめてこう言った。
「ただこれが――恋というものであってほしいと、そう思います」
その言葉を聞いて、ノイバは自然と――本当に自覚が遅れるぐらいに自然と、エノの頭をわしゃわしゃと撫でていた。
父性や母性というものなのだろうか、いや歳もそこまでは離れていないのだが、ノイバはこの瞬間確かにエノを愛しい、いじらしいと感じた。多分それはユリグルも同じだったらしく、ほぼ同タイミングでエノの頭に手をやっていた。
「???」
精神的に成熟している分、普段は保護者のような立ち回りをすることが多いエノにとってそれはまさに未知の経験なのだろう、撫でられるまま可愛がられるまま、視線が両隣を行ったり来たりして困惑していた。
れっきとした人間である彼にこんなことを思うのは失礼だと思いながらも、その光景が人慣れしていないおとなしい猫が撫でられる様にそっくりで――多分彼がヒト族であってもまったく同じ感想を抱いていたと思う――二人は思わず口元を押さえて笑い出した。
やがてノイバが手を挙げて、店主に「もう一杯!」と要求する。それにユリグルが「飲みすぎないように、な」と睨みをきかせる。エノはその横で、くすりと静かに笑う。
なんらいつもと変わらない、ありふれた日常の一場面に戻っていく。ただそれでも、これまでの関係とは少しだけ違うのを、変わったのを感じていた。一人の少女をきっかけに、隊の古株三人の間で見えない、しかし確実に存在していた壁が瓦解するのを、穏やかな気持ちで実感していた。
◇
その夜、コムギは夕食を用意してアズキの帰りを待っていた。朝と昼は顔を合わせることはなく――向こうが話したくないのなら当然なのかもしれないが――すれ違いになっていた。
「ごちそうさま!」
やがてダイズがご飯を食べ終えて満足そうにそう言った。
アズキがこんなに遅くまで家を出ていることはない。コムギが寝る時間まで帰らないつもりだろうか。でも、だとしても、今日はちゃんと話したい。そう思いながら、マメと戯れるダイズを見つめていた。
それからどのぐらい時間が経っただろう。ダイズもマメも寝てしまったからコムギは一人部屋の中で待ち続けていた。
しかし、それにしても遅い。外はもう真っ暗で、さすがに心配になってくる。自警団や騎士隊の人たちが巡回しているとはいえ、今の時期はなにが起こるかわからない。余計なお世話、と思われても構わないから、コムギは家を飛び出してアズキが働く服屋へと向かった。
「――え、アズキちゃん? ならいつも通り帰ったけど」
だから服屋の主人がそう言った時、コムギの頭は真っ白になった。それから不安がっている暇は無いと、アズキを探すという文字を真っ白な頭に書き下ろして走り出した。
また、服屋の主人はこうも言っていた。「そういえばアズキちゃん昨日から元気なくてなぁ。なんかあった?」。それを聞きたいのはこっちのほうだったが、構わずコムギはぼんやりした街灯を頼りに走り続けた。
街の中央部辺りまで来たところで、コムギは声をかけられた。
「……え、コムギ? どしたのこんな時間に」
振り返ると、幼馴染のマスカと、その横で大きな荷物を運んでいる同じく幼馴染のグレフが歩いているところだった。そういえばここはマスカの酒場から近かったと思い出しつつ、息を切らしながらアズキが見つからないことを説明する。
「どおりで急いでるわけだ」
グレフは左の側頭部から髪をかきあげ、真剣な顔でそう言った。それからマスカと目を合わせると、彼女は荷物をグレフの荷物の上に重ねる。
「とりあえず私たちで探してみるから――コムギは家に戻って」
「え、いや、私が探さないと――」
コムギが直ちに提案を拒否しようとすると、マスカはコムギの肩に手を置く。
「もしアズキちゃんが家に戻った時、あんたはいたほうがいいでしょ」
「でも……」
「大丈夫、任せて。絶対なんとかするから」
その顔はひどく頼もしく見えたが、正直どうしてマスカがそこまで助けてくれるのかコムギに推し量ることはできなかった。確かに幼馴染で大切な縁だが、彼女は時折それ以上の熱量でコムギに向き合ってくれる。
「ほら、早く行くよ」
そう言ってずんずん歩いていくマスカに引っ張られながら遠ざかっていくグレフは、ひらひらと手を振りながらコムギにも声をかける。
「コムギも夜道気をつけてなーっ」
それは二人も、と言おうとして、そういえばグレフが自警団所属で用心棒としては最適な人材であることを思い出した。普段のおちゃらけた彼と接すると忘れがちだが、こういう時、彼もまた頼りになるなぁと考えながら、コムギは自宅に逆戻りしていった。
◇
アズキは木に吊るされたブランコに腰掛け、時々意味もなく前後に揺れたり、小石を蹴っ飛ばしたりしてひたすらにぼうっとしていた。
日はすっかり落ち、月明かりの光だけがぼんやりと地面を照らしている。
一日経って落ち着いて、アズキは自分の言動を反省していた。どう考えても、姉にあたるべきでは無かったと。反面、心の底で思っていたことを口に出したのだからそれを訂正して終わり、とはならないわけで、とにかく時間が解決してくれないかなと無謀な願いをするばかりであった。
――はぁ。帰りたくないな。
とは言うものの、あそこが自分の生まれ育った家で、生まれ持った家族で関係である以上帰る場所に違いない。それでも今はもう少し、その時間を引き伸ばしていたかった。
――お姉ちゃん、心配してるかな。
ああいうふうに言った以上、多分あれが本心だ。だけどだからと言って姉が嫌いなわけではまったくない。姉と自分を取り巻く環境や、相対化した関係の中に不満を見出しているだけであって、姉のことは変わらず大好きなお姉ちゃんであると、アズキは考えていた。
それから地面に足をつき、また意味もなくブランコを一度こいだときだった。
トストス、と草を踏む足音が聞こえて、アズキは警戒して立ち上がり、振り返る。
「お嬢さん、こんな時間に何してるんだ?」
「……」
暗さでよく見えないが、ここらじゃ見ない格好をした二人組の男だった。顔はわからないものの、少なくともアズキの知り合いではないという察しはつく。
「迷子かな? 危ないから家まで送っていくよ」
背の低いほうの男はそう言うと近づいてきたから、アズキは本能的に後ずさる。
ちょうど木の影から外れて、月明かりで大きいほうの男の口元が照らされる。半笑いで、しかし不機嫌そうな顔で男は短く舌打ちをした。
「――あッ待て!!」
それからアズキは背を向けて振り返ることなく全力で走った。とりあえず人のいるほうへ逃げなければ、と。
二人が追いかけてくる音が聞こえる。先に走り出した分間隔は空いているが、それがだんだん縮まっている気がする。草を踏む。地を蹴る。音が近づいてくる。距離が縮む。音が近づく。走る。走る。走る。
そうして暗闇を駆け回っていると――ドン、と何か、あるいは誰かと衝突する。どうにも後者だったようで、しかもだいぶ体感が強いらしく、転倒することなくアズキを抱きしめて受け止めた。男たちの仲間かもしれない、と思わなかったのは、その際の衝撃で「うおっ!?」と驚いた声が、よく見知った人物のものと一致していたからだった。
「――グレフくん!!」
「うおーっアズキちゃん! 探したよ、どしたどした」
その声がいつもと変わらず軽快であり、正直安心感で涙が出そうだったが、グッとこらえて事情を説明する。
「たっ、助けて!! あの人たちが追いかけてきて、それで……」
グレフは恐怖からくっついてくるアズキの肩に触れて受け止めながら、男たちを睨みつける。
「……お前ら、最近センバの街荒らしてる奴らだな」
ガラッと雰囲気が変わったグレフにおののいたのか、あるいは単にアズキに深追いするほどの価値が無いと踏んだのかはわからないが、男たちは踵を返して逃げようとする。
グレフが手を突き出して呪文を唱えると、男たちの足元に草のつるが巻きついて、派手に転倒した。
「大事な祭りにかこつけて悪さしやがって……」
グレフが倒れ込む男たちに一歩近づく。
小枝が踏まれて、パキッと折れる。
◇
グレフが男たちを気絶させて縛り終え、両手を合わせてぱたぱたとはたいていると、近くの木の後ろに隠れていたらしい、マスカがひょっこりと現れた。
「お疲れ様、ちょっとかっこよかったよ」
「ちょっとって! 俺めちゃめちゃかっこよかっただろ!」
軽口を叩いている二人に、アズキは声をかける。
「グレフくん、マスカちゃん、助けてくれてありがとう」
「いーのいーの、無事でよかったよ。じゃ、帰ろうぜ。コムギも心配してたしな」
その言葉にアズキが浮かない顔をしていると、なにかに気づいたのか、マスカが耳打ちしてきた。
「――コムギとなんかあった?」
アズキはパッとマスカのほうを見て、それから目を合わせたまま小さく頷いた。姉の親友である彼女には、たとえ姉が話していなかったとしても何かしら見抜かれているのだろうと観念して、アズキは彼女に何があったのかを話すことにした。
近くの木のベンチに座り、その間グレフは少し離れた場所で縛り付けた男たちの側に佇んでいた。グレフに聞いてもらってもよかったのだが、どちらかといえばやはりマスカのほうが話しやすいということもあり、二人で話し合うことにした。
ひとしきりアズキが話し終えると、黙って聞いていたマスカが口を開く。
「なるほどねぇ……。で、それは本心なの?」
「うん……多分、本心なんだと思う」
アズキは俯いたまま、昨晩からずっと考えていたものを打ち明ける。
「私はお姉ちゃん越しの私でしか見てもらえなくて、でもそう言ってくる人たちに悪気がないのはわかってる。だから我慢するしかなくて、自分自身を見てもらえないままで……それで、ふとした時にお姉ちゃんを見ると、いつもありのまま、自然体で楽しそうにしてて、みんなもそれを評価してくれて……お姉ちゃんは『誰の何々』じゃなくていいなって、我慢しなくていいなって、そう思っちゃったんだ」
改めて言葉にすると、我ながら酷い言い分だ、とアズキは自覚する。それは実に一方的、主観的な感情だとわかっていて、だけどどこか受け止めたくない、甘い自分がいるのだった。
別にマスカに味方してもらおうとなんか考えていないけれど、これを彼女に打ち明けるべきではなかったかもしれない、と言いながら後悔する。彼女はコムギの親友であり、味方であり、理解者なのだから。
我慢しているのは、我慢してきたのは自分だけじゃないなんて、わかっている。我慢して、歯痒い思いをしてきたのが自分だけ、自分だけが不幸に見舞われたヒロインだなんて驕り高ぶりも良いところだ。コムギだって我慢を強いられてきた経験があるのなんて、当たり前のことだ。そして今アズキの目の前にいるマスカはきっと、それを誰よりも知っている。アズキには見えなかったコムギの我慢を、苦悩を、誰かが知っているとしたら彼女とグレフぐらいなのだろう。
「……アズキちゃん。私は、まあ、アズキちゃんほどじゃないけど、コムギとずっと一緒に育ってきて……だからわかるんだけどね、コムギは――」
だから、姉と同じくアズキより成熟した彼女の意見を聞くのは怖かった。だから、とても勇気のいることだった。だから、てっきり『コムギはずっと我慢してきたんだよ』とでも言われるのだろうと予測した。だけど、マスカの続けた言葉は全然別のものだった。
「コムギは――アズキちゃんのこと大好きだよ」
「……え」
思わずアズキはうつむいていた顔を上げて、マスカの顔を見る。彼女は優しく笑っていたが、その黄緑色の瞳は真剣そのものだった。水晶玉みたいなそれに見透かされるのは怖かったが、だけども目が離せなかった。
コムギが自分に、いや自分だけじゃない、色んな機会で我慢してきたことを、彼女はあえて伝えなかったのだと、アズキはそう解釈した。わざわざ説教みたいに言わなくてもアズキちゃんならわかるでしょ、と彼女の瞳が言っているように思えた。
それには悔しさもある一方で、アズキはこの時明確にマスカのことを「可愛がってくれる年上のおともだち」ではなく「尊敬できる人間」として再認識した。
「アズキちゃんは?」
「……え?」
「アズキちゃんは――コムギのこと好き?」
彼女がどこまで考えてその質問をしたのかはわからない。ただ、アズキはその真意を探り当てるのは不可能だろうなと諦め、正直にこう答えた。
「うん。好きなものとか昔話したこととか細かく覚えててくれたり、悩んでたら相談乗ってくれようとしてくれるし……大好きだよ」
「そっか」
マスカはまた優しい顔で笑って、アズキの頭をポン、ポン、ポンと優しく撫でるように触った。
「じゃあ、絶対大丈夫。親友の私が保証する」
月明かりに照らされて、立ち上がってアズキに手を差し伸べるマスカの白い髪がキラキラと、第二の月のように光って見えた。そしてこの人の唯一無二になれる姉を羨ましいと思うとともに、やはりそれもまた、彼女自身の人柄によるものだと思うと、自分も姉やマスカのような人間になれるだろうか、という希望半分不安半分の複雑な気持ちになるのだった。
それから彼女の手をとり、二人が並んで立つと、グレフは木に何重にもぐるぐる巻きにされた男たちから離れて、二人に合流する。
「グレフくん、ありがとう。待っててくれて」
「いやいや全然! 君の笑顔のため、ってヤツさ」
そうして指パッチンをしてキメ顔をしてくるグレフに感謝をしつつ、普段からもう少し落ち着いていればちゃんとかっこいいのにと思うなどしていると、マスカがすかさず「かっこつけないで」と笑う。でも、それから彼女は背伸びをして、グレフの髪をわしゃわしゃと――アズキにした時より断然激しく、というか乱暴に――撫でた。
「けどありがとう。お手柄じゃん、よくできました」
「おーい俺は犬かーい!」
グレフがわざとらしくツッコミを入れると、マスカは「あんたみたいな大型犬飼えないわよ」と鼻で笑ってあしらった。
それからグレフは左耳に髪をかけ直して、いつもの――ちょっと、いやかなりチャラチャラして見える――髪型に戻しながら、「……あのさ」とマスカの手を引く。
「こういうの俺以外にもやんの?」
すると妙に真面目な顔をして聞く彼を不審がっているのか、マスカはそれから眉を寄せた。
「はぁ? しない……っていうか、あんたみたいなの二匹も三匹もいないってば」
「あ、匹やめてね〜」
そんな二人の絶妙な距離感の会話を、後ろからトコトコ着いていくアズキはくすくす笑いながら聞いていた。
◇
コムギの家に着き、マスカはドアを開けて先に入る。
「マスカ! どう……」
ずっと座って待っていたのだろうか、コムギはちょっとよろめきながら立ち上がると振り向いてマスカと目を合わせる。遅れて後ろからアズキが入ってくると、姉妹は一瞬どちらも固まる。それからアズキが気まずそうに口を開く。
「あ……お姉ちゃん……」
アズキは何を言うべきか逡巡しているのだろうか。コムギと目を合わせたかと思ったら、すぐに逸らして下を向きかける。
コムギは黙ってスタスタと歩いて行き――目いっぱいに広げた両手で、アズキを抱きしめた。
「よかった……っ」
誰が見ても、心から喜んでいるとわかる喜び方で、コムギはしばらくアズキを抱きしめ続けた。アズキもアズキで、反省やら安心やらが混ざっているのだろうか、「お姉ちゃん」と「ごめんなさい」を行ったり来たりして何度も伝えて泣き続けていた。
抱きしめる半泣きのコムギと、アズキの肩越しに目が合ったマスカは、彼女の顔を見て、ふと幼き日の思い出に吸い込まれる。
二人の少女と一人の少年は、親同士が古くからの友人であり、生まれた日も近いことから、世界を知るより先に、もしかしたら自己を知るよりも先にお互いを知っていた存在であった。彼らはともに遊び、学び、育っていった。彼らにとって、これだけ仲の良い友人が同じ街にいることは、気づかないながらに最大の幸福であった。
ある時、そのうち一人の少女が行方不明になったことがある。少女は気付かぬうちに森の奥に迷い込んでしまっていた。見る見るうちに日は暮れていき、少女の味方だった自然の木々は無機質で不気味な集団に早変わりした。さらに運の悪いことに、少女は足を滑らせて、ぬかるんだ岩の溝から抜け出せなくなってしまった。
足をぶつけて痛い。腕も擦りむいた。眠くなってきた。木々が擦れる音が動物、最悪の場合は魔獣の唸りに聞こえてくる。少女はしくしくと泣いていた。
幼き日の少女には、その恐ろしい時間は何十日分にも感じられた。そんな時、少女の頭上がふわっとした明かりに包まれた。照明を持ったもう一人の少女が、「だいじょうぶ。わたしにまかせてー!」と力強く叫んだ。
そうして助けられた少女が、安心から声をあげて泣こうとした時、助けにきたほうの少女は笑いながら泣いて、泣きながら喜んでいるようだった。助けられた少女はそれを見て、幼いながらに、他人の無事にここまで力を尽くして、自分のことのように喜べる彼女を素敵だと思った。同時に、自己犠牲を厭わない彼女を心配するようになった。
コムギに助けられたあの日から、マスカは何があっても彼女には幸せになってほしいと強く願うようになった。
――誰も助けに来てくれなかったあの日、一人で泣いていた私をたった一人で助けに来てくれたヒーローのためなら。
他人のために笑って、泣いて、落ち込むくせに、怒るのだけは下手くそな優しいあなたはきっと、自分の幸せも後回しにしてしまうから。もし幸せに総量があったとしても、誰にでも幸せをパンみたいに分け与えてしまうであろうあなたが、最後に不幸になってしまうなんてことがないように。隣であなたの幸せを叶える助力をさせてほしい。
それが単に幼馴染や親友といった垣根を越えた、マスカの信念だった。
(懐かしいこと思い出しちゃったな……)
それから一度ゆっくり瞬きをして現実に戻ってきたマスカは、アズキを抱きしめ続けるコムギと尚も目が合ったままだった。
マスカは左の口角を上げて、ピースサインをしてみせる。
コムギは目に涙を溜めながら、しかしそれをこぼすことはせずに、はにかむように笑い返した。
◇
翌日、コムギは空模様と同じように晴々とした気持ちでパン生地をこねていた。
あの後、散々泣いて落ち着いたアズキと腹を割って話し合うことができた。アズキがコムギのことをどう思っているか。それだけでなく、アズキがアズキ自身をどう思っているか、など、こんな機会でもなければたとえ姉妹であっても話さないようなことを打ち明けてくれた。そんなふうに思われていたことには驚いたものの、話しづらいであろうことを覚悟を決めて話してくれたという事実が嬉しかったし、ぶつかり合うことで絆が深まったようにも感じた。
それから、道中でマスカとグレフが物理的にも精神的にも助けてくれたとかで、それを聞いたコムギは今度二人になにかお礼をしよう、と決意を固めていた。
コムギが一度厨房を出ようとドアを開けると、おもわぬ人物との遭遇に、二人とも「あ」と固まった。
「……おはようございます」
「お、おはようございます」
ドアの前には、エノが立っていた。丸一日会わないこと自体は何度かあったが、今回の場合は実状よりもかなり精神的な面で、久しぶりに会ったような感覚がした。
エノとコムギはそれから黙って目を逸らして、しばらくの沈黙に入るかと思われた。けれどそれではいけないと思い、コムギが意を決して口を開くと、「あの」という二人の言葉がぴったり重なる。それからワンテンポ遅れて、また「ちょっとお話が……」が重なる。
二人は目を合わせたが、不思議と驚きはなかった。少なくともエノが、ああいう別れ方をした後に何の言葉もなしに自然に接してくれるとは思っていなかったからだ。彼は悪くないとしても、きっと謝ってくれてしまうのだと予想していた。だからこういうとき、率先して自分から切り出すという気の遣い方を彼にしてほしくなかったコムギは、珍しく「じゃあ、私からいいですかっ」と、ドアをパタンと閉めて店の外に出ながら提案した。エノは「……ええ、では」と、少し驚いているように見えた。
「――おとといは本っっっ当にすみませんでした!!」
勢いよく腰を直角に折り曲げ、コムギは誠心誠意の謝罪をした。
それからあの日起こったトラブル――迷惑客、母の風邪、魔法窯の故障、妹との不和――諸々の説明をした。それと同時に、それらが彼とはまったく関係ないところで起こったトラブルであることも、きちんと加えて。
「……というわけなので、本当にエノさんは何も悪くないんです。当たってしまって、本当にごめんなさい」
エノは終始黙って聞いていたが、最後には笑って口を開いた。
「そんなことがあったら、誰でもイライラしてしまいますよ。……てっきり僕はあなたに嫌われてしまったのかと思っていましたから、そうでなくて安心しました」
いやいやいや、とコムギは手を何度も振って全力で否定しつつ、同じ状況にあっても彼は動じないんじゃないか、と思うなどした。そうしてコムギからの言葉が一段落すると、今度はエノが話し始める。
「僕は……コムギさんにああ言われてから、自分の行動を今一度見つめ直してみました」
「っいえあれは……」
「本意でないかもしれないことはわかっていますよ。……ただ、僕がそうするべきだと思ったんです」
エノはそう言うと、なにやらカバンから紙を一枚取り出して、読み始めた。
「――眠気を我慢すること。面白い冗談を言うこと。先の尖ったもの。匂いの強い場所。尾を触られること。高度な魔法を使うこと。熱い、辛いものを食べること。寒さに耐えること」
一見無関係な事実を淡々と陳列していく彼に、コムギは呆気に取られてそれが耳から耳に通り抜けていくのを感じ取ることしかできなかった。それから彼はその紙をひっくり返し、コムギに見せる。書道の達人が書いたように綺麗な文字列がびっしりと並んでいた。
「これらは全部――僕が苦手とすることです」
「……えっ」
なぜ急にそんなことを、というか苦手なことがあったのか、とか、色々いきなり情報量が増えたせいで混乱するコムギをよそ目に、エノは自分の額の傷を指し示す。
「この傷はどうしてできたと思いますか?」
「えっ? ……えっ、あ、やっぱりその、手強い敵と戦ってとか、激しい修行の末に、とかで負った傷なのかと思ってましたけど……」
未だ混乱しながら、コムギがそう答えると、エノはフッと笑った。
「これは僕が幼いとき、前を見ずに歩いていて階段から落ちた時に割ってしまったものです」
エノは満足そうにそう言うと、一度こほん、と咳払いをする。
「僕はあなたに完璧だと言われて、あの状況で不謹慎かもしれませんが――嬉しかったんです。あなたの前では完璧でいたいと、そう思っていましたから」
彼は真面目な顔で淡々と続ける。
「しかし同時に、自分の苦手なこと、不得意なこと、できないことを……あなたに見せるべきだと思ったんです。そのほうが誠実、だからでしょうか。自分の中でまだ整理はついていないですが」
それを聞いたコムギはようやく思考がまとまってきて、ふと脳裏にある言葉がよぎる。
『――弱いところダメなところ苦手なところ見せ合いたい、認め合いたいって思えるほうが良い関係築けると思うんすよね』
その時はその言葉の意味を理解した気でいた。しかし今になってようやく、相手側の当事者になった今になってようやく、コムギはその真意を理解することができたように思う。
常日頃から悩みや弱みを出すことを厭わない人物じゃない。完璧でありたいと願っていた騎士エノ=ログサが、完璧でない一面を知らせてくれた、見せようと思ってくれたということは。マグワートの理論によれば、それは――コムギと良い関係を築きたい、ということの現れではないのか。だとするのなら、コムギはこんなに嬉しいことは今までにないぐらい、嬉しいことなのだと、ようやく実感を伴って理解することができた。
「あの……お返事がこれで合ってるかわからないんですけど――ありがとうございます。私に、教えてくれて」
「……いえ。僕がそうしたかったので。……それから、傷の話は誰にも話したことがないので……その」
エノはちょっと恥ずかしそうに、頬を指で掻くようなそぶりを見せた。
(意外だ……可愛いな……)と若干失礼なことを思いつつ、コムギはふふっと笑って人差し指を口元にあてる。
「言いませんよ。二人だけの秘密にしておきますね」
◇
それから厨房に入り、コムギは魔法窯の状態と、現在の状況をより詳細にエノに伝えた。
「なるほど……クラゲソウの調理に必要な魔法窯が壊れてしまい、その修理は厳しい。さらに代替品の交換はセンバ祭には間に合わない……と」
「はい。鑑定士の方にも色々と手を尽くしてもらってはいるんですけど、本命の魔法窯の交換はやっぱり間に合わなそうで……」
エノは顎に指を当て、八方塞がりなこの状況に同じく悩んでくれている。マントを脱いだ彼の背中のラインは綺麗な曲線で、尻尾もくるくるも回って独立して悩んでいるように見える。横から見た姿はやっぱり絵になるなぁなどと思いつつ、コムギはひとつ用意していた案をエノに話すことにする。
「解決策は一応考えたんですけど……」
「……けど?」
「人手がかなり必要になるのであまり現実的じゃないっていうか……当日は街の人みんなそれぞれ役割があって、忙しいですから」
ということでコムギが言いかけたそれを却下すると、エノは「……いや」と待ったをかけた。
「逆に言えば、人さえ集められれば実行可能である、と」
「……そう、ですね。難しい手段でもないので……」
「であれば、なんとかなるかもしれません。……ただ」
それからエノはコムギに向かい合って、少し複雑な表情でその内容を話し始めた。
「コムギさんが少しでも嫌だと感じなければ、の話ですが――」