七話 マグワートは苦労人な治癒術師
時を戻すこと、エノとグレフが個人的な特訓に励む日の朝。
それまでの数日はマスカも家業で忙しく、コムギは特に大きなイベントもなく過ごした。朝エノと会話をする時もコムギの脳内では、取り付けた約束がリズミカルに跳ね回っているのだった。
気づけばセンバ祭までちょうど残り一週間となっていた。とはいえコムギベーカリーはすでに割り当てられたタスクをこなしているから、残りは当日の段取りを日々確認するぐらいであり、特に変わりのない毎日を送っていた。
「っ! ……ふーっ」
コムギはずきんと痛む頭を押さえて、壁に一度寄りかかる。今日は朝から体調がすぐれない。かといってまったく動けないわけでもない。全身の動きが一段階引き下げられるような、でも頑張れば動けるような、こういう倦怠感が一番めんどくさいのであると思いつつ、着々と開店の準備をする。
接客が始まってからも漠然とした体調の悪さは続く。だけども決して笑みを絶やさず、店で食べる人にも持ち帰ってくれる人にも、良い気持ちで食べてもらえるよう全力で接客を続ける。
途中、見慣れない二人の男性客が話しながら来店した。コムギが見慣れないということは、おそらく旅人か行商人であろう。
「いらっしゃいませ〜!」
体調の悪さからくる嫌な冷や汗をぬぐいつつ、いつもとまったく変わらない声の調子で挨拶する。すると、二人はコムギを一切見ることもなく、店内の椅子に座ると大声で話の続きを始める。大きなほうは酔っているのだろうか? 顔が見てわかるぐらい赤くなっている。とはいえ、こういう客を相手するのは慣れている……というほどではないが、経験はある。コムギは口角を上げて自然な笑みを今一度作り直し、メニュー表を持って話しかける。
「ごゆっくりどうぞ〜」
そのままコムギがカウンターに戻ろうとすると、メニュー表を置いた手をがっちり掴まれる。こういうのはたいてい一瞬なにが起こったのかわからないものだが、コムギの肌に男の大きな手の感触がはっきり伝わってしまって、否が応でも理解してしまう。
「……ってことで俺ら今暇しててさぁ!」
普段なら客の細かな会話も聞き逃さないように気を張っているのだが、今日はいかんせん体調が優れないことと、態度の悪い客の声を無意識のうちにシャットアウトしていたから、なにが『ってことで』なのかわからないままコムギは振り向く。振り向く以外の選択肢が無いようだったから。
「はい……?」
「若い女の子探してたんだけどよォ〜、この街爺さん婆さんばっかりで困ってたんだわ。ちょっとでいいから遊ぼうよ」
コムギはそれを聞きながらゆっくり距離を取ろうとしていたが、男は言い終わるあたりで腕を強く引っ張ってきて、コムギは思わず「いた……」と声を漏らす。
「え? これで? さすがに痛くなくね? なあ」
男はケラケラ笑いながらもう一人の小柄な男に同意を求めると、そっちも同調するように笑い始める。
――ああ、この忙しくなる時間に、いったいなんなんだ。決して表出しないようにはするが、さすがのコムギもイライラしていた。男たちというよりかは、このめんどくさい状況に対して。店内では、子連れの母親が子と一緒に心配そうにコムギを見ている。どうか彼女たちが巻き込まれませんように、と思っていると、男はさらに強い力でコムギを引っ張る。
男の手の脂と、男のだか自分のだかわからないじっとりとした汗、それから男の手に対してコムギの腕が細いことも相まって、コムギが反射的に腕を引っ込めるとするりと抜ける。
「あの、他のお客様もいるので……」
良い機会だと思ってコムギがそう告げると、男は笑いながら立ち上がって――一番近いところにあった商品テーブルのパンに向かって、唾を吐いた。
「は……」
「した手に出てやってりゃつけ上がりやがって」
自分がぶん殴られるとかよりもよっぽどショックな出来事を前にしてコムギが固まっていると、男はだんだ逆上してきたのか、メニュー表をはたき落とす。
「お前みたいな奴は若さと従順さぐらいしか可愛いとこねぇんだから、素直に言うこと聞けよ。若くて愛想振り撒いてるから儲かってるだけだろ? この店もよォ」
この街で生まれて、生まれた時からずっと愛されてきて、神聖なこの店の中でそんなことを言われたことがなかったコムギは上手く言葉を返せなかった。なんなんだ、この人たちは。機嫌が悪いのか? 酔っているからか? どうして会ったばかりの他人に対してそんな言葉を言えるのか。私の何を知っているというんだ。色々言ってやりたいことがあるはずなのに、言葉が出てこない。コムギは悪意にまみれるのに慣れていないのと同時に、向けられた悪意に怒るという作業に慣れていなかった。
「ほら来いって」
男に肩を掴まれる。コムギから見ればずいぶんな大男に見えたが、不思議と恐怖はやってこない。ありえない光景と罵詈雑言に放心状態であったことと、午前中だというのに、体調不良のせいか疲労が一日が終わった時ぐらい溜まっていること。言い返したり抵抗したりする気力が無い。どこか夢見心地で、いや、もしかしたらこれは夢なんじゃないか? だとしたらなんて目覚めの悪い夢なんだ。
そんなふうにぐちゃぐちゃの思考の中、コムギの肩を掴む手が緩まる。緩んで初めて、痛かったことに気づく。
「……なんだお前」
「――いや、彼女嫌がってますよね」
見れば、とある少年が男の大きな手を、その強靭そうとは言えない手で掴んでいるのだった。
コムギが彼を見るのは初めてではなかった。エノが話す内容にたまに登場していたり、リザンテラと一緒に歩いているところを街で見たり。ただ、逆に言えばそれぐらいの関係――関係といえるかどうかも怪しいが――であり、店に姿を現したのは初日にエノたちと一緒に食べにきた時以来である。
「かっこつけんなって」
ますます怒りに支配された男は、少年の手を強く振り払う。おかげでコムギは解放されたのだが、状況は依然として悪いままだ。すると、少年は胸襟を開くような仕草で、葉の模様が書かれたバッジあるいは勲章のようなものを、男に見せつける。男はぽかんとするが、小柄な男のほうはそれにピンときたのか、苦虫を噛み潰したような顔をして男にささやく。
「――あれ騎士団員のバッジですよ!」
「あァッ?」
「流石にやばいですって」
小柄な男は、今にも殴りかからんとする男を決死の表情で止めながらまだごにょごにょなにかを男に伝えている。
「……チッ」
男は諭されたのかあるいは酔いが覚めてきたのか、あけすけに舌打ちしてドアを蹴り飛ばして出ていった。去り際に「潰れちまえこんなボロ小屋」と、なおも機嫌が悪そうに吐き捨てていった。
小柄な男のほうも、「よかったな、困ってりゃ誰かが助けてくれるカタチしててよ」と好き放題言っていた。それは単に美醜や立場に対する悪態というよりも、生き様に対する不満のように思えた。
「……ったく」
少年は心底不快そうに彼らの後ろ姿を睨みつけて、ため息を吐く。
「人増えるとああいうのも出てきて大変っすね」
「あっあの、ありがとうございます。助けていただいて……えっと、マグワートさん」
正直まだ放心していたが、助けてくれた彼に対する礼は早いうちに行いたくて、コムギは記憶から名前を引っ張り出しつつ、深々とお辞儀をする。すると彼は片手を顔の前でひらひらと振って、むしろ申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「あ、俺のことわかるんですね。じゃあもしかしたら知ってるかもすけど……俺べつに騎士じゃないんで、そんな畏まらなくて大丈夫ですよ」
「そういうわけには……」
「いや俺が戦えないんで……あんなやり方しかできなくてすみません」
あの対応は、この場においては最適解だったような気もする。確かに商品はいくつかダメにされてしまったが、厄介者は追い払えたし、暴力が発生したわけでもない。マグワートは目にかかるぐらいの焦茶の髪をかきながら平謝りし、その謙虚さにあてられてコムギももう一度お辞儀をしておいた。
切り替えて、コムギが袋に先ほど被害にあったパンたちを詰めていく。するとマグワートはそれを見て、ぽつりとつぶやく。
「やっぱ廃棄すか」
「そう、ですね……流石に。気持ちのいいものでも無いですから……」
コムギの悲しそうな顔――実際、自分が傷つけられるよりも真心込めて作ったパンが台無しにされるほうが精神的に苦しいのだが――をしているのを見かねてか、マグワートは硬貨の入った袋をカウンターに置いた。金属の擦れる音が、かちゃり。
「俺その分払いますよ」
「へっ? いやいや、それはいくらなんでも……」
「あー、まあ、知り合いがお世話になってるみたいなので」
どきりとする。妙な濁し方だが、エノのことだろうか? そもそも彼はエノとコムギのことをどれぐらい知っているのだろう。おそらくノイバやユリグルほどエノと親しい間柄ではないはずだが。
「とにかく、俺がこうしたいだけなんで受け取ってください」
いやいや、と今度は二人の間と押し問答が生じそうになっている時だった。
――カラン。ガッ、ドン。ゴロゴロ。
なにかが転げ落ちる音と、ずっしりとなにかが倒れる重い音。それからまたなにかが落ちる音。
厨房のほうから聞こえたそれは、店内にいても聞こえてくるぐらい痛々しい音に思えて、二人は同時に手を止める。
「すみません、ちょっと」
なんだか嫌な予感がして、コムギはマグワートにその場で待つようにお願いした後、駆け足で厨房の様子を見にいく。
そこには苦しそうな表情で床に倒れ込む母の姿があるのだった。
「え、お母さん!? お母さん大丈夫!?」
体を揺すって起こそうとする。ぐったりはしているものの「うん、ちょっと……」と舌足らずに反応することはでき、意識はあるようだ。服越しでも伝わるぐらい体が熱を帯びていた。ひとまず彼女を寝かせられる場所に移動させようと考えを巡らせていたとき、人の影がコムギと母にさす。
「運びますね」
「え」
マグワートはコムギの声に寄せられてやってきたのだろうか、そう言うと慣れた手つきでコムギの母をおぶる姿勢にスムーズに移行する。
「すみません勝手に厨房入っちゃって。……あとは任せてください」
彼はさくさくと歩いて外に出ようとするので、流されるまま、コムギはドアを開ける。正直身内のことで彼にそこまで迷惑をかけるのは憚られたが、今はそんなことを気にしている余裕がないぐらい切羽詰まった状況である。母を運ぶのにコムギより力はあるであろう男手を借りられるのはありがたい。そしてなにより、こうして悩む間に、マグワートの職業を思い出したから。
「――俺、一応治癒術師なんで、なんとかしますよ」
彼の真剣な顔は、困りきったコムギにとても頼もしく輝いた。
◇
コムギの家で仰向けに寝かされた母の額に、マグワートが手をかざし続ける。薄黄緑色の光が浮かんでは母の身を包む。
「どう、でしょうか……」
少し表情の強張りが薄れた母を見ながら、コムギはなおも不安そうにマグワートに問う。
「熱が高かったんで、負担がかからない程度に解熱の魔法をかけておきました。ま、普通に風邪ですね」
特に平時のテンションと変わらず淡々と話すマグワートに、コムギは逆に安心する。
「普段怪我の治療が専門なんで気休め程度ですけど、一日寝ればよくなると思います」
「……わかりました。ありがとうございます」
そこで母は寝転んだままコムギのほうを見て、申し訳なさそうに笑った。
「ごめんねぇ、この忙しい時に」
いつになく小さく見える母を安心させてあげたくて、コムギは大袈裟に自分の胸を叩く。
「大丈夫大丈夫! とりあえず今日明日ぐらいなら一人でなんとかなるから、お母さんはちゃんと寝て治してね」
そうはっきりと声に出すことによって、自分自身を安心させようとしていたのかもしれない。言葉にすれば、なんとなく実現する気がするから。きっと大丈夫だと、言い聞かせる。
それからマグワートと二人、家の外に出る。コムギは今一度彼に深々とお辞儀をして、パン屋に戻ろうとした。しかしそこで「コムギさん」と思いがけず呼び止められる。
「……」
マグワートはコムギの顔をじっくり眺める。そんなにまじまじ見つめてなにを、と思い「あの……?」と声をかけるが、彼は依然コムギを見つめたまま。とはいえ彼のことは信頼できる人間だと理解しているから、コムギもそのまま黙っていると、彼は唐突に「ちょっと失礼しますね」と、右手でコムギの手を取り、いっぽう彼の左手はコムギの額に当てられた。
「……?」
いきなりのことでもあまり驚かなかったのは、彼の配慮が上手く機能していたことが理由だろう。まずは手を取り肌との接触に慣れさせ、次に額に手を当てる。この時目を隠すような動作にならないよう、視界の端からするりと手を伸ばしたことで一切の本能的恐怖を感じさせないようにしている。
「……熱はないすね」
「えっと……?」
「体調悪いですよね。変なのに絡まれてた時は緊張や不安から来る一時的なものかなって思ってたんすけど、なんか違うっぽいんで」
コムギは自身の体調不良を見抜かれていたことに驚き、同時に彼の手腕に感服する。それがそういう診断ができる魔法によるものか、マグワートの経験則に基づくものなのか、あるいはその両方なのか、コムギにはわからなかったのだが、とにかく騎士団所属の治癒術師の技量を垣間見た気がして、ある種の感動さえ覚えた。
「……そう、ですね。あ、でも、多分風邪じゃないんで……大丈夫ですよ。お気遣いありがとうございます」
「……ああ。了解です」
マグワートはそれ以上踏み込んで聞くこともなく、一度手を下ろす。
「とりあえず魔法だけかけておきますね。頭痛とかなら一時的に軽減できると思います。……さっきも言ったんですけど、俺怪我が専門なんで、ほんの気休めですが」
やはり手のひらから何かしらの魔法で不調の原因を突き止めたのだろうか、彼はコムギの状態をずばり言い当てると、もう一度手を側頭部にかざして魔法をかけた。
朝から鳴り響いていた頭痛がわずかに息を潜めた気がする。少なくともちゃんと影響を感じるぐらいには、効果がある。やはり彼ほどの治癒術師ともなれば専門外でも上手く治療が行えるのだろうか。
「ありがとうございます」
やがて魔法が閉じると、コムギはまたお辞儀をする。こうして彼に頭を下げるのは通算何回目になるだろうかと思いながら、しかし毎回同じように心から感謝をしながら、深々と。
◇
マグワートとは外で分かれ、コムギは再び店内に立つ。彼の魔法がよく効いたのか、それがかかる前よりもはるかにマシな体調でパン作りと接客にのぞんだ。
そもそも便利な魔道具のおかげで、一人でもなんとか経営することはできるようにはなっている。ただ常日頃母と二人で店を回すことに慣れているせいで、たまにこういう一人で接客提供調理すべてをやらなければならない日はかなり骨が折れる。
「よっ! コムギちゃん今日も頑張ってんね」
中年の得意客の男性が陽気に声をかけてくる。コムギはいつもと変わらず、明るいテンションで返そうとする。
『若くて愛想振り撒いてるから』
その瞬間、ふいに脳裏に雑言がよぎって、響く。
戯言だ。わかっている。わかっているつもりだ。だけども、コムギは一瞬固まって言葉に詰まる。それから出かけていた「ありがとうございます!」をむせるように吐き出す。
これは愛想を振り撒いている、ということになるだろうか。きちんとパンの魅力を伝えられているだろうか。ベーカリーの次代として、ふさわしいだろうか。
そこまで考えて、一度接客に集中し直す。悩みごとをすればするほど頭痛も増える気がする。これから昼のピークを迎えるにあたって、人の数も増えてきた。ここからが頑張りどきだ。気を引き締めて――
その時、パチパチ、バチッ、ドン! という激しい破裂音が厨房のほうから響いてきた。ずいぶん大きい音で、テラス席にいた客たちもなにごとかと覗き始めている。
(もう今度はなに? 次から次へと……)
これから頑張っていこうと気合を入れた矢先の出来事だったから、コムギは出鼻をくじかれる苛立たしさに身を震わせながら、厨房のほうへ向かう。それから器材の点検を始める――までもなく、なにが爆発音の原因かは一目瞭然であった。
「う、っそでしょ……?」
モクモクと黒い煙をあげているそれ――厨房でもっとも大事な魔道具のひとつ、魔法の窯を見て、コムギは思わず引き攣った顔で立ち止まる。しかし悠長に驚いている時間はない。即座に魔石――魔道具のエネルギー源である、魔力の詰まった物体――を外し、稼働を止めた。
◇
お昼時に差し掛かる頃に起こったトラブルのために、一番な稼ぎどきに店を閉めざるを得なくなったコムギは、ひとまず街に滞在していた魔道具の鑑定士を呼んで窯の状態を見てもらった。
「あーこれ完全に壊れてますねぇ、寿命でしょう」
しかし動力源と本体の接続部の特殊な構造が壊れたとかで、鑑定士もお手上げのようであった。鑑定士の男は後ろで短く結んだ青色の髪をほとんど覆うぐらいのキャスケットを被り直し、首を横に振った。
「なるほど……。たしかに母が幼い頃から使い続けてきたものなので……どうにか直せませんか?」
「うーん、魔道具の目利きにはかなり自信がありますが、これは多分直らないですね」
「そうですか……」
鑑定士の男はやってきた時からずっと飄々としていてイマイチ緊張感のない話し方だったのだが、コムギが落ち込んでいる、というか不安がっているのを察してか、ぽんと手を叩いてなにかを閃いたような口ぶりで話し出す。
「ただ、王都に戻れば同じ魔道具を見繕えるかもしれません。ふだんは王都で魔道具屋を営んでいますから……人脈を辿れば、あるいは私より魔道具の修理に詳しい人を呼び寄せたりも」
「……! 本当ですか。すぐにでもお願いしたいんですけど、どのぐらいで用意していただけますか」
コムギは一筋の希望を見つけて、鑑定士の男にグッと顔を近づける。男はやや困ったような顔をしながら、しばし考えて、口を開く。
「そうですねぇ、運搬作業が結構時間がかかりそうですから、二週間ぐらいでしょうか」
コムギは目を見開いたまま固まり、それから悟られない程度に肩を落とした。だけども諦めきれないといった表情ですぐに立ち直り、さらに詰め寄る。
「無理を承知でお願いしたいんですがっ! もっと早められませんか?」
すると鑑定士の男はニヤリと笑い、キャスケットから覗く前髪を指で流して整える。まさに商人、といった笑顔で底知らぬ怖さがある。
「しかしそうなるとお金のほうが……」
「お金のほうはどうでも……よくはないんですが、早くできるならそうしたいんです!!」
鑑定士の男の顔にふんす、と鼻息がかかるぐらいの勢いで近づいて懇願すると、彼は根負けしたように説明する。
「そうですか……。であれば、一週間から九日ほどに……」
「いっ……」
コムギは再び言葉を失う。
実のところ魔法の釜が壊れたことによる、日常の業務への支障はあまり無い。別の種類の窯や通常の窯も設備としてまだ残っているから、そちらを稼働させれば当面は持ちこたえることができる。ただ、それは日常の業務に限った話であり、コムギの最大の懸念は別にある。
――センバ祭である。
コムギがエノと試行錯誤を凝らして作り上げたパンの調理工程には、魔法の窯が不可欠である。クラゲソウの特性上、特殊な魔法の窯で焼かなければ加熱後長くは持たず蒸発してしまう。
残り一週間を切った今から、通常の業務と並行してクラゲパン以外の新商品を考え出すことは難しい。あるいは、可能であってもクオリティや祭りへの適合性といった面からクラゲパンを超えることは絶対に不可能だ。そして何より――非常に個人的なものだが――恋愛感情以前に、一人の人間として尊敬を抱く騎士エノと作り上げた思い出深いパンを、どうしても皆に共有したかった。このセンバの街で、センバの祭りという舞台で。
以上のような思いを、祭りに合わせたいという旨の簡潔な――少なくともコムギは簡潔にできたと思っている――文にして鑑定士の男に伝えると、彼の商魂たくましい表情の中に感心が現れた。
「現実的に一週間というのは厳しいです。……しかし、ええ、私もできる限りの手は尽くしてみましょう。あ、これは商談ではなく、個人的な協力の姿勢ですので、悪しからず」
鑑定士の男は胸に手を当て、ニコニコとしながら立っていた。コムギはその友好的な態度に多少の違和感を覚えながらも、しかし訝しむのも失礼だろうと「助かりますっ! ありがとうございます」と一歩後ろに下がって礼をする。実際、理由がなんであろうと、今は猫の手も借りたいところであるからだ。
「でも……どうしてですか? あまりメリットは……」
それでも流石に気になって、語尾を濁しつつそう聞くと、鑑定士の男はくすくすと笑う。
「さあ。どうしてでしょうねぇ。……ただ、あなたの熱量にあてられて、ではダメですか?」
それから、彼は妖艶な雰囲気を纏ったまま、帽子のつばを押さえて目を細める。
「あとは――昔話になってしまいますから」
◇
一方、グレフとの稽古に一段落ついたエノは何をするでもなく、いつものように街の見回りをしていた。さすがに三週間も経てば見慣れてくるだろうと思っていた街並みも、祭りが近づくにつれてますます活気にあふれてきて、飽きさせない光景が続いている。逆に言えば人が多くなればその分トラブルも増えてきて、エノを含む騎士たちの仕事はこの頃露骨に増えた。
騎士団の派遣は特例であったが、この調子なら毎回でも行かせたほうがいいかもしれない。来年以降はどうなるだろうか。もしも次も派遣されるようなことがあれば、この素敵な街の街並みと、非常に個人的な情事を理由にまた二番隊で行かせてもらえないだろうか。
エノはそんなことを考えながら街のはずれのほうを歩く。それはそれとして、午前にグレフに言われた言葉がまだ引っかかっていた。
『――あいつは度を越した奥手だ』
奥手、と言われても世間一般的なそれがどの程度を指しているのかがわからない。果たしてそれは誰に対してもなのか、それとも、などと考えてしまう。考えないわけにはいかなくなってしまう。
それからエノは、コムギと出会ってからの日々を思い出す。そのワードに該当するような言動を探しているうちに、どういうわけか、まったく反対に思えるものばかりが見つかる。
『せっかくですし……パン作り、やっていきませんか』
『一緒にクラゲパンの開発、していただけませんか』
『――私は、もっとエノさんとパン作りがしたいですっ!』
『そう……ですね。私もエノさんが来てくれたらその……嬉しいです』
『――祭りの日の日中、二人で街を回りませんか』
彼女が奥手、と思えるような要素が見当たらなかった。だからこそ、彼女の幼馴染であるグレフが言った言葉が真実であるとするならば、それは、なんとも都合のいい――
「ちょっと、猫のお兄さん、何突っ立ってんだい。大丈夫か?」
そこまで考えて、しゃがれた老婦人の声で現実に引き戻される。という自覚があるからには、いつのまにか夢うつつだったのだろうか。いつの間にかこぢんまりとした小物屋の前で立ち止まっていたエノは、今日はやけに気温が高く感じる、と思いながら、二度瞬きをして応答する。
「……あ、申し訳ございません。少し、考え事を」
老婦人は「騎士さんだかなんだか知らないけど、冷やかしなら他所でやってくれ」と言った。しかしぼうっとしていたエノにかけた声にはどこか心配してくれていそうな雰囲気があって、やはりこの街の人たちはあたたかい人が多い、と再認識させられる。
それからエノは言われた通り露店から立ち去ろうとしたが、売り出されている小物類に興味を惹かれる。
『――こっちから攻めないと絶対進展しないぞ』
なんとなくまた、グレフの助言が反響してきて、エノは少し考え込む。こういうことには不慣れではあるが、こっちから攻めるというのをやってみる必要は、確かにあるのかもしれない、と。
「あの、すみません」
「なんだい? だから冷やかしなら――」
「いえ、こちらを」
エノは純白に魚の刺繍が入ったハンカチに向かって手を広げる。店主であろうその老婦人は、「なんだ、客だったのかい」とぶっきらぼうに言った。
◇
この日、アズキは服飾の納品のために服屋に向かっていた。服を作るのは好きだ。一着作るのに何日もかけて、それが一つの作品として完成する工程は何事にも替えがたい喜びがある。それを誰よりも間近で確認できるのは、特権である。
顔見知り、といっても長く住んでいればこの街の人は大抵知り合いに該当するから、道行く人には挨拶をする。アズキは姉よりもずっと控えめな性格だったから元気よく、とはいかないが、見えてしまう以上は無視するわけにもいかないので、静かな声で挨拶をする。
「おはようございます」
聞こえていないなら聞こえていないで別に良いのだが、この街の人は優しい人が多いからか、多くの場合は拾ってくれる。だけどもやっぱり、そのぐらいの距離感の人たちに声をかけるのは時々苦しい。
「……ああ、コムギちゃんの! おはよう!」
慣れたつもりではいても、言われるたびにちくりとどこかが痛む。悪い人たちではないことはわかっている。姉が人気者で有名人で、他方自分がそうでなく顔も狭いことも、わかっている。それでも「コムギの妹」として扱われることは、アズキにとって――多感なこの時期には特に――モヤモヤすることが多くなっていた。
コムギは祭りに向けた新商品の開発に熱中していたとかで、それもあってか最近は特に姉に縁のある人間から声をかけられることが増えた。
「あっアズキちゃん! ちょうどよかった、コムギちゃんに伝えておいてほしいんだけど……」例えば、パン屋の客からの伝言。
「コムギちゃんが助けてくれてねぇ、この間は本当に……」例えば、姉の人助けに対する感謝。
「コムギちゃん忙しそうだよね」例えば、単に姉の話題を。
アズキは姉のことは嫌いではなかった。むしろアズキのことをよく考えてくれていて、食の好みも覚えてくれているし、昔から相談事にも乗ってもらっていて、妹から見て素晴らしい人格者だと思っている。だから、そんな姉を見て劣等感を覚える自分が嫌いだった。
慣れたつもりで振る舞っていても、それはしかし確実にアズキの心を弱らせていった。だから今日そういう声のかけられ方が多かったことは、単なるきっかけに過ぎなかったのだと思う。
「どうですか」
店長に家で完成させた服を見せる。祭りに際し、初めて自分でデザインから考え、数週間に渡って試行錯誤を繰り返したロングドレスだ。正直かなりの自信があった。店長は普段は温和な人間だが、服に関しての審美眼が鋭く、妥協しない。そんな彼を唸らせる自信が、今回に関してはあったのだ。
「……うん、いいんじゃない。全体としての色彩がバランス取れてるし、かつダンスしても動きやすそうだから、祭りにぴったりだと思うよ」
ああ、よかった。頑張ってよかったと、心の底から思う。彼は服のひとつひとつを丁寧に見てくれる。作り手の価値観や素材の使われ方まで、念入りにチェックしてレビューしてくれる。だからこそ作り甲斐があるし、この人に認められれば一人前だと胸を張って言えるのだ。一つ、自分の殻を破ることができた気がする。
長い期間を経て報われたんだと、そう思った時、それは打ち砕かれることになる。
「細部までこだわられてて――やっぱりコムギちゃんに似て器用だよね、君は」
店長が優しい人間であることはわかっていた。人間として尊敬できるところもたくさんある。誰にでも柔らかい語り口で、かつ仕事には妥協せず時には厳しい。理想の大人、師匠のように思っていた。
その言葉に言外の意味なんかないこともわかっている。わかっているつもりだった。いつもならよくあることだと、気にも留めず受け流せているはずだった。とにかく今日は、最近は、重なりすぎていたのだ。
「……はい」
アズキはとびきり下手くそな笑顔でそう答える。多分笑顔にすらなっていない、引き攣った不気味な表情。見られたくなくて、下を向く。
――ああ、私はお姉ちゃんの妹という形でしか評価されないのか。
――お姉ちゃんが何々だから私も何々、なのか。
――いいな、お姉ちゃんは一人で評価してもらえて。
――私も私のままでいたいのに。
空が曇って、雨が降りそうだ。あるいはずっと曇りだったことに、ようやく気づいたのかもしれない。
◇
魔法の窯が壊れ、一時店を閉めざるを得なかったものの、コムギはなんとか昼から午後にかけての激動の時間を乗り切った。ただし母がいないため、一人で店を回さねばならず、コムギの体力は途中で底を尽き、あとは気力を振り絞って夜を迎えた。
コムギの頭痛や倦怠感も、きっと安静にしていれば平気なものになるはずだったのだろうが、体を酷使したせいで途中からマグワートの魔法の効果も虚しく意識朦朧とした状態でせざるを得なかった。
とはいえ、明日もこの調子ではどう足掻いても体に限界が来る。そこで明日は臨時休業と客たちに伝えておいた。客たちの残念そうな顔を見て、またコムギも悲しくなったが、気持ちを優先して自己管理ができなくなっては本末転倒である。母のいない今、明確に自分一人が店を背負っているからこそ、無理はできない。
「……ふーっ。キツいな……」
またクラッとして、自宅の台所で両手をつく。まだ握力が残っていてよかったと思う。しっかり支えられないほどの疲労が腕にも及んでいたら、このまま顔面からシチューに突っ込んでいるところだったからだ。
「……ただいま」
やがてシチューが出来上がり、アズキも帰ってきた。アズキがなんだか浮かない顔をしていたから、二階にいるダイズを呼ぶ前に、二人で話そうと、向かい合って席に座る。
「……どうしたの?」
いつもなら勢いよく、とまではいかないが、座ったらすぐに食べ始めるぐらいには気持ちよく食べてくれるアズキが黙ったまま動かないから、心配になって声をかける。
「……ごめん、食欲あんまりない。もう寝るね」
そう言って席を立とうとするアズキを、コムギは慌てて引き止める。
「待って、体調悪いの? お母さんの風邪が移ったのかも。いつから?」
すると、アズキはコムギの手を振り払う。
「……大丈夫だから。なんでもない」
帰ってきてからずっと、アズキに対してなにか違和感のような不安を覚えていたコムギは、さすがに気になって「でも……」と続けようとする。
「――なんでもないって言ってるでしょ!!」
ただでさえ痛む頭に、キーンと部屋中に鳴り響く甲高い声が突き刺さる。
コムギは混乱した。いったい彼女になにがあったのか。アズキが激昂することなんて、平時静かなことも相まって、一定年齢を超えてから一回も無かった。衝突が無かったのは、コムギがつねにそれを避けるように譲ってきたからかもしれない。ただ、その隙すら与えずに彼女が不機嫌にあたることなんて一回も無かった。そもそも彼女はおとなしい以前に温和な人間である、とコムギは認識していた。
気まずい沈黙の中に、彼女の声で目が覚めた愛犬のマメのトトトトという歩行音とヘッヘッという呼吸音だけが響く。とにかく、コムギはこの空気を打開したくて、困った表情のまま口をゆるめて開く。
「……ごめんね」
これがよくなかったのか、アズキの顔はますます曇り、午後の雨空のようになった。それからアズキはきゅっと唇を結んでから、泣きそうな声で言い放つ。
「――いいよね、お姉ちゃんは。なにも我慢しなくても、そのままでいても、愛してもらえて」
「……っ!」
目の前にいる少女が最愛の妹であることも忘れて思わず反論を飛ばしてしまいそうになって、すんでのところで押さえ込む。
どういう意味だろうか。なにを伝えたいのだろう。我慢していない? そのままでいる? そんなはずがない。慣れっこになってしまっただけで、あの時もあの時もあの時も、本当はどの譲った瞬間の胸の切なさも覚えている。はっきりと思い出せる。代わりのきかないぬいぐるみ、宝石の入ったペンダント、残り一足だったブーツ、泥だらけになったお気に入りの服、初恋。相手が誰であれ、コムギは常に譲る側であった。我慢する側であった。
しかしそれをアズキにぶつけられなかったのは、それらを選択したのは自分自身であるという自覚があったからだ。結局のところ、自分を後回しにして、幼馴染にいらぬ心配をかけさせてきたのは自分だから。
アズキに私はどう映っていたのだろうか。彼女が言ったように映っているのだったら、それは違うと言ってやりたいのが本音だった。ただそれで彼女を傷つけてしまうかもしれないのなら、やはり、ここでも私は我慢しなければならない。爆発してはならない。ぶつけてはならない。アズキの、姉として。
「……ごめん」
コムギは精一杯感情を抑えて、困ったような声でぽつりとつぶやいた。
「なんで……ッ」
どう言えば正解だったのだろうか。いや、アズキが話そうとしていない以上、なにを言ってもダメだったのかもしれない。『なんで』の後を聞くことは叶わず、アズキは二階へと上がっていった。
◇
アズキを追いかける気にもなれず、一階に取り残されたコムギが座っていると、マメが寄り添うように足元で舌を出している。
「はぁーっ……」
そのまま眠りこけないように気をつけつつ、腕を枕にして机に突っ伏して大きくため息をつく。
厄日、というものが存在するのならそれは間違いなく今日であろう。頭痛と全身の倦怠感にさいなまれた朝、唾とともに汚言を吐き捨てた迷惑客、風邪で倒れてしまった母、祭りを目前にして壊れてしまった魔法の窯。ああ、そうだ。コムギは振り返っていて思い出したが、魔法の窯とクラゲパンの問題はまだなにも解決していないんだった。どの方向性でいくかの判断もまだ下していない。どうしよう、どうしよう、どうしよう。そんな時に起こった、妹との不和。
(最悪だ……)
そもそも、なんなんだ今日は。こんなにやたらめったら不幸なことばかりが起きて。不幸が不幸を呼んでいるのだとしたら、歯止めがきかないじゃないか。
『――いいよね、お姉ちゃんは。なにも我慢しなくても、そのままでいても、愛してもらえて』
『若くて愛想振り撒いてるから儲かってるだけだろ?』
『よかったな、困ってりゃ誰かが助けてくれるカタチしててよ』
ああ、ダメだ。本当にダメだ。全部がイライラする。誰の言葉のひとつも、全部が癇に障ってしまう。一日にストレスが降りかかりすぎた。コムギは机を指の骨でコンコンコンコン鳴らして気を紛らわせる。ものに当たる気力も残ってない。今日のところは早く寝よう。でも先にダイズにご飯を食べさせて、それから――
また新しく苛立ちの種が増え始めた矢先だった。ドアをコンコンとノックする音が聞こえた。ベーカリーを営んでいると、たまに差し入れで具材を持ってきてくれる人がいる。こんな夜だし、それかもしれない、とコムギは力なく立ち上がってふらふらしながらドアを開けにいく。しかし雨が降っているのに、そんな律儀な人はいたかなぁ。普段だったら誰が来たのか確認の一つでもするのだが、とにかく疲労困憊だったコムギは特に気にすることなくドアを開けた。この頃の街のことを思えば、もし荒くれ者でも出たら、ということを意識すべきなのだが、ドアを開けてすぐその憂慮は必要なかったことを知る。もっとも、コムギにとっては別の意味で、もう少し考えてからドアを開けるべきだったのだが。
「わっ、エノさん!?」
「夜分にすみません。お店のほうが閉まっていたので……」
二人は軽くお辞儀をすると、コムギは玄関に彼を招き入れる。傘はさしていないようだが、雨に濡れた様子は無い。ぱらぱらと音が聞こえるが、雨足は強くないのかもしれない。それからコムギは、疲れすぎて途中から乱れていた髪を直してもいなかったことに気づいて、エノに背を向けて手櫛で軽く整える。
なぜだろう、好きな人と会えたはずなのに、素直に嬉しいと思えない。多分、余裕がないんだ。恋にドキドキしてる暇がないぐらい今は疲れている。それから、今の状態――精神的にも肉体的にも――で彼と顔を合わせたくない。疲弊しきった自分を、見せたくない。
「お母様のこと、マグワートくんから聞きました」
「あっ……そうでしたか。ご心配おかけしました。今は結構よくなってて……あっ、そうだ。それで、明日は朝からお店を休みにします」
ということはつまり、朝二人で仕込みの作業をする時間もなくなるというわけだ。祭りまで残り数日しかないうちの貴重な一回を、と惜しい気持ちはあったが、今の状況では懸命な判断、とコムギは自分に言い聞かせる。
エノは「そうですか」と残念そうな顔をする。ああ、どうしてだろう。いつもなら嬉しいと思えるはずなのに、今日はまったくそんな気分になれない。残念なのは私だって同じだ。残念に決まってる。私だってこんな決断したくてしたわけじゃない、と段々思考が感情に支配される感触が、コムギには生ぬるくて気持ち悪かった。
「わざわざ母の見舞いに来てくれたんですか」
そんな気を紛らわせようとなにか言葉を発する。だけど多分、精神状態が著しく悪いせいで、自分の言い方に棘があるように思い込んでしまう。わざわざ、なんて言わなきゃよかった。エノさんが店のことを考えてくれるのは確かに嬉しいはずなのに、こんな言い方じゃ気を悪くしてしまうかも。と、出した言葉にもそれによる余計な思考にもイライラする。
いつまでも後ろを向いているのも奇妙であるから、コムギは言葉の最中にエノのほうを向く。あんまり見ないでほしい。今、やつれてないかな。顔は青白くなってないかな。あなたに見られるならもっと元気な時がいい。そんなことばかり考えて、目が合わせられない。
「それも、あるんですが……」
エノはなにか言いかけてやめて、一度コムギをじっと見る。だから、今は見ないでほしいのに。
「それより……コムギさん、なにかありましたか。体調も優れていないように見受けられます」
ああ、やっぱりバレている。普段からよく人のことを気にかけてくれる彼のことだ、体調や感情の機微にも細やかな配慮ができるのだろう。それが今は苦しかった。弱い自分を、弱っている自分をこれ以上見ないでほしい。
「悩みごとがあるのであれば、僕でよければ聞かせてくれませんか」
エノはひどく優しい声で、心から心配するような声でそう言った。
優しいな。忙しいだろうに、わざわざ夜に家まで来てくれて、こんな自分を気にかけてくれて、気遣いもしてくれて、本当に彼は――
――ぷつっ。
コムギの中でなにかが弾ける音がする。恋に落ちるような軽快な音ではなく、肉が爆ぜるような断裂音。多分、ただ本当に、今だっただけだ。運が悪かった。今、運悪く、あふれてしまった。
「……エノさんに」
自分で自分が止められない。口は、言葉はときに簡単にすべてを破壊してしまう。誰にでも扱える、世界一無責任な殺傷道具である。
「――いつも完璧なエノさんに、私の悩みなんてわかるはずないじゃないですか」
――言ってしまった。
言ってしまってから慌てて口を塞ぐ。強く塞ぐ。私じゃなくてこの口が悪いのだと、痛みを通して訴えるように。でも不意にこぼれ落ちた以上は、いやむしろ不意に出たからこそ、口じゃなくて多分、これは奥底で眠っていた本心なんだろうと自覚するのが、怖かった。
「っ! すみません今のは……」
ワンテンポ遅れて、目線を恐る恐る上げてエノのほうを見る。わずかに角度を上げるだけの動作が無限に感じられる。
――彼は存外、ほとんどが驚きで構成された表情をしていた。悲しみとか怒りとかではなく、本当に驚いていて。彼がたびたび何かに驚くことはあったが、大抵目を丸くするぐらいだった。今は、まんまるの目を開いて、口も下側に半分開いて立ち尽くしていた。
「今のは……っ」
「……すみません」
違う、エノが悪いわけじゃない。謝ってほしいわけでもない。でも言葉が上手く出てこない。感情的になりすぎて、これ以上喋ったら多分涙が出てしまう。悲しいからじゃない。気持ちが昂っただけで、多分泣いてしまう。それだけは嫌だ。彼に嫌な言葉をぶつけておいて泣くなんて、そんな不恰好な人間になりたくない、と思ったコムギは一旦黙り込む。それからくるりと後ろを向いて、悟られないように冷静に話す。
「……今日、色々あって、余裕なくて、すみません。一人になりたいです。頭冷やします」
自分でも説明下手すぎると思う。だけどたくさん喋るとまた変なこと言いかねないし、何より声がうわずってしまう。だからこれ以上の言葉を選べなかった。
「……わかりました。失礼します」
コムギの様子がおかしいことはエノも察しているのだろう。いやそう思わなければ気が狂ってしまいそうなぐらい申し訳なさでいっぱいなのだが、とにかくエノはそれ以上深く追及したりはせずに、玄関を出る。
「……おやすみなさい」
「……おやすみ、なさい」
最後に最低限の挨拶だけ交わして、パタンと戸が閉じる。
途端に、コムギは床にうずくまる。
――やってしまった。
いくらでも不満を露わにするタイミングはあったのかもしれない。だけどもコムギはそれを見つけることができなかった。迷惑客に酷いことをされた時、あれ以上のトラブルが起こるかもしれなくても強く怒鳴るべきだったのか? 母が倒れた時、自己管理の甘さでも彼女に指摘するべきだったのか? 魔法の窯が壊れた時、他の器材に八つ当たりでもするべきだったのか? アズキに理不尽に言葉をぶつけられた時、幼い彼女に本音を叩きつけることができたのか?
そのどれも、コムギには選択することができなかった。だから結果として、選択の猶予も与えられずに、そのどれよりも選びたくない結果を引き受けてしまった。溜めに溜めたストレスは袋いっぱいに満ち、たった一言、いつも完璧な彼の言葉へのほんの少しの苛立ちをきっかけに一気に崩壊した。だから、ただのきっかけだった。
「最悪だ……」
コムギは髪と顔を同時に抑えながら、床に座り込んでただ下を向いた。
自分を後回しに後回しに生きた結果、もっとも傷つけたくない人を傷つけてしまった。傷つける姿を彼に見られてしまった。数ある「もしあの時こうしていれば」の中で最悪を引いたことは明らかだった。そしてその原因が明確に自分にあるとわかっているから、ますます最悪の気分だった。
涙が一粒になる前に、目尻から手のひら、手のひらから腕に伝って、膝から滴り落ちる。マメが近寄ってきてペロペロと腕を舐める。皿に盛り並べたシチューの湯気は消えていた。
だからコムギは知り得なかった。ドアの外で一人、カバンの中に大事にしまったまま渡せなかった白いハンカチのことを考えながら、雨雲を見上げるエノの姿を。
雨はざあざあと、夜通し降り続けた。
なにも洗い流してなんて、くれない。