六話 グレフは自警団のお調子者
「あ、よかったら――エノさんとノイバさんも一緒にどうですか?」
マスカの提案に、コムギが一番わかりやすく動揺する。あんたがそれでどうするの、と思いつつ、さすがにマスカの意図を汲んだであろうコムギが黙ってエノたちのほうを見る。普段のコムギだったら「でもエノさんたちは〜」みたいなことを言い出しかねない。そういう気遣いができるのがコムギの良いところでもあるのだが、とにかく今は置いといて、一旦安堵する。
「……僕たちは一応騎士ですから、任務先でいたいけな淑女の方々を連れ出すわけには」
エノは少し困ったような、あるいは悩んでいるような顔でノイバのほうをちらりと見つつそう言う。あの後マスカはコムギから騎士エノのことを色々と問いただしたのだが、事態は思ったより深刻である。
コムギが度を越した奥手であるが故に目立っていないのだろうが、エノのほうも多分奥手である。いや、彼が騎士という身分を重んじて線引きをつけているのはわかるのだが、にしたって感情を表に出さなすぎである。一昨日、彼はコムギに気があるのだと、マスカはコムギに力説したが、どうにもピンときていないようすであった。それぐらい、彼は自分の気持ちを隠している……と、少なくともマスカ個人は考えていた。
だからこういう返しをされることは想定の範疇であり、次なる一手も考えてあった。
「でもコムギもエノさんに来てほしいよね?」
「えっ」
自分にパスが渡されると思っていなかったのか、コムギは気の抜けた声を出す。マスカは(行け! 押せ! やったれ!)と顎でエノのほうを静かにさしてコムギに指示を出すと、やがてコムギは意を決したかのようにエノのほうを向く。
「そう……ですね。私もエノさんが来てくれたらその……嬉しいです」
そういえば、コムギが語る彼女なりのアプローチとして、最近積極的に「ありがたい」ではなく「嬉しい」を多用するようになったと言っていた。そんなことに一喜一憂していたらいつのまにかおばあちゃんになってしまうぞ、と思いながら聞いていたのだが、なるほど、あながち効果なしとも言えないのかもしれない。
実際、上目遣いで――昨日マスカがしたようなぶりっ子のようなものではなく、マスカよりも身長の低いコムギにしてみればまったくいつも通りなのだが――恥じらいながらそう伝える姿は、マスカから見ても可愛らしいと思った。
気になるエノの反応はというと、関係値の浅いマスカから見る限りではわかりにくいが、多少の動揺はしているようにも見える。
「……では、僕は構いませんが……」
エノはなんでもないというふうにノイバのほうを向いた。しかしマスカは見逃さなかった。彼は今たしかにコムギから目を逸らすためにそっぽを向いたのだ。マスカにはそうにしか見えなかった。あれだけ純朴な瞳でお願いされたら誰でもそうなるだろう。コムギ、これはちゃんと効いているぞ、がんばれ、と思っていると、エノの逃げ出した視線が行き着いたノイバは少し考えてから申し訳なさそうに口を開く。
「あー、悪いけど俺は明日はやることがあってな」
するとエノはそれに乗っかる形で続く。
「……となると、せっかく幼馴染のお二人の休日に水を差してしまいますので……」
やはりこうなるか、とマスカは更なる手を打つ。正直コムギが直接エノをおでかけに誘えば一発で成功しそうな気もするが、それができないからこうして助け舟を出しているわけであるし、そもそもそれができないことは問題ではない。コムギの向き不向きの不向き側に積極的なアプローチ、というものが置かれているだけであって、コムギの魅力は向き側にたくさんあることはマスカは誰よりも理解しているつもりだからだ。
気遣いの塊のようなエノを攻略するには、その気遣いを誘導するかそもそも気を遣わせる原因を取り除くべきで、マスカは後者を選択する。
マスカはちょいちょいとノイバの服の後ろを軽くひっぱり、その井戸端会議から一度離脱してノイバとひそひそ話を開始する。ノイバはエノよりはるかに身長が高く、小声で喋るためにノイバは少し屈む。
「協力してください。あなたが来るほうが自然です」
「いやそうしたいのは山々なんだが、言った通り明日は予定があってな」
なんの協力、とも聞かずにずいぶんと察しがいい。コムギによる事前情報と、この間彼が客として来た時にこぼしていた発言から、ノイバがこちら側かもしれないと踏んでいたが、これを利用しない手はない。
「……予定って、どうせ今日この後どこかの酒場で死ぬほどお酒飲んで二日酔いになるからですよね?」
「なぜそれを」
「街のコミュニティ舐めないでください」
ノイバはわかりやすく動揺して冷や汗をかく。エノもこれぐらい表情に出やすかったら、コムギとの恋愛もスムーズにいくかもしれないのに、と思いながら、バツの悪そうな顔で――ずいぶん綺麗な横顔の無駄遣いだが――立ち尽くすノイバの耳元に、マスカは背伸びをしながらトドメを囁く。
「この間ウチで酔って騒いでたこと、ユリグルさん……でしたっけ? に言いつけますよ」
ノイバは観念した、というようにスッと姿勢を正してくるりと向きを変え、エノとコムギのほうへ戻っていく。
「――たまには自然と戯れることも騎士としての務めさ。そう思わないか? エノ」
美しい金の髪を手の甲で、わざとらしくふぁさりと後ろにたなびかせながら、美辞麗句を連ねた。
◇
さて裏でそんな会話が行われていたことなど知らないコムギはピクニックの当日、いつもの作業着とは一味違った、紫がかったベージュと白のワンピースに身を包み、マスカとともにエノたちに合流する。
コムギの服は、朝マスカがじっくり時間をかけて見繕ったものであった。パン工房でほとんどの時間を過ごす都合上、彼女は私服らしい私服をほとんど持っていないものだから、マスカの私物を貸し与えたのだ。
「ほらアピールアピール」
「うーん……」
エノたちに近づく途中、マスカは肘でコムギをつついてそう囁く。彼女の新鮮なおでかけ姿なら、いくらあのカタブツでもころっとやっつけられるはずだ、と思ったの提案だった。しかし、マスカの予想は大きく外れ、コムギがアピール――彼女自身がどうやってそれを実行するのか気になるところではあったが――をする前に、エノのほうから声をかけてきた。マスカはその内容に自分が含まれる前にサッと退散してノイバの後ろに移動する。
「おはようございます」
「おはようございますっ」
「素敵なお洋服ですね。とてもよくお似合いですよ」
多少は見とれてもいいはずなのに、エノは動じずに丁寧で完璧な褒め言葉を返す。いや、もしかすると彼なりに見とれてはいて、しかしまじまじと見つめすぎるのが彼の中での騎士道精神に反するのかもしれない。と、返り討ちにあってまごまごしているコムギを見ながらマスカは悔しさをにじませる。
ちなみにエノのほうの服装はいつもと変わらなかった。ノイバはともかく、ネコビト族の特徴をこれでもかというほど体現している彼の存在はこの街ではいやでも目立つから、多少の変装でどうこうなるものでもないだろう。ただ、騎士隊のマントは外しており、そうするとサイズのあったワイシャツによってすらりとした彼の細身が強調され、ついでに尻尾の動きもよく見えるようになっている。
誰が言い出すこともなく、四人は目的の山のほうへ歩き出す。山といっても以前山賊が出た、隣町との間にあるのとは反対方向の、気もまばらで穏やかな場所だ。丘といったほうが近い。
踏みならされた道なりに進むと、自然と前にコムギとエノ、後ろにマスカとノイバという形になる。
道中、見えにくい段差のある場所で、エノがコムギに手を差し伸べた。コムギは照れくさそうにその手を取り、一歩進む。それを後ろから見ていたマスカは思わず歩く速度を緩めて前の二人から距離を置き、ノイバに話しかける。
「エノさんって普段からあんな感じなんですか?」
「まあ割と誰にでもあんな感じだよあいつは」
「うぇ〜」
マスカは普段よく話す人物としてグレフを思い浮かべる。彼は非常に適当な話し方でいつも調子のいいことばかり言っている気がする。同い年ながらエノの紳士っぷりに感心するとともに、あれはあれで思わせぶりということにならないだろうか、と心配もする。
そんな調子で一行は進んでいくと、やがて海の見える花畑に出た。赤青黄じつにさまざまな色が咲き乱れて壮観である。
四人はそこで昼食――もちろん、コムギが持参した洒落た見た目のパン――を取りつつ、互いの好みや街のことなど、たわいもない話を繰り返した。
一人だけ年長者のノイバがややその空気感に置いていかれかけそうになったあたりで、マスカは彼を連れ出して二人と距離をとった。会話の流れも口実もごく自然に、エノとコムギを二人だけにすることに成功したマスカは、花畑の端にあった切り株に腰かけて双眼鏡で二人の様子をチェックする。その徹底ぶりにノイバは鼻で笑いながら声をかける。
「そんなに心配か?」
「心配……どうですかね、私はコムギの応援してるだけのつもりなんですけど、そう見えますか。てか実際エノさんのほうはどうなんですか?」
距離が微妙に縮まっていなそうな二人を双眼鏡で覗いてうーんうーんと唸っていたマスカは覗いたまま、ノイバに聞き返す。彼はおそらくエノの一番の――少なくともこの街に来ている人間の中では――友人であるはずだから、エノ側の気持ちも知っているかもしれない。
「……さあな」
はぐらかすように、薄ら笑ったトーンで返すノイバに、マスカは双眼鏡を目元から外して彼のほうを見る。
「あ、こういうのは意外とはぐらかすんですね」
「騎士たるもの、誠実に、な」
マスカはふーん、とつまらなそうに話を続ける。
「でも最初にエノさんのこと焚きつけたのあなたなんですよね」
「ま厳密に言うと最初は俺じゃないよ。それに実際あいつがコムギのこと好きかどうか直接聞いたわけじゃあないからな」
なにやら途中引っかかるようなことを言っていたが、ひとまず発言の後半の部分を追及する。
「へぇ、意外ですね。エノさんとあんまり仲良くないんですか?」
「いいや、もう十年以上の付き合いだ。何度も死線を潜り抜けてきたんだ、信頼は互いに大きいよ。……まああれだな、ただ単にあいつは自分のことあんまり話さないんだよ。俺やユリグルにぐらい話してくれてもいいんだがな」
なるほど、単にエノはガードが固いだけでなくあまり自己開示もしないタイプということか、とマスカはなんとなく納得する。となるとコムギにとってはますます難儀な恋になりそうだ。
「ちなみにあなたはあの二人を応援している、ということでいいんですよね?」
「どっちかといえば、だな」
「というと?」
「エノは王都の騎士で、コムギはこの街のお嬢さんだからな。本人たちの望みよりも積極的な行動は、しにくいだろ」
マスカは目を丸くする。彼女が知っているノイバといえば、酒場で朝まで騒いで爆睡しているどうしようもない人間であった。だから今こうして一人の理性ある常識人、いくばくか年上の大人、隊をまとめる隊長、友人のことを真剣に考える人間、などの面での思慮深さを見せつけられた気がした。
それでもマスカは、仮に迷惑になるかもしれないリスクを孕んでいても、その恋の行方が不安定なものになるとしても、彼がエノを思うのと形は違えど同じように、コムギの初恋をなんとか実らせてあげたいと願っているのだ。
それからノイバはふっと草地に腰を下ろし、空を見上げる。
「でも友人代表として――やっぱ幸せになってほしいよ。それが恋かどうかは別としても、な」
酔っ払っている時とは全然違う、清々しい顔でこの人は笑うのだなと思いつつ、マスカは双眼鏡をふたたび覗き込んで、その光景に口元を緩める。
「それに関しては同感です。――願わくば、この恋でありますように。って応援するしかないですね」
レンズ越しに映る二人がまた、なにか話しているようだ。
◇
「花に囲まれて海を見渡せるなんて、素敵な場所ですね」
「気に入ってくれたみたいでよかったです」
花の甘い匂いと潮風の匂いが混ざって、独特の匂いがする。だけど多分、悪い匂いではなくて、コムギの隣で座るエノはどこか上機嫌に見える。この頃は彼の表情も少なからず読めるようになってきた、気がしている。
「鮭、いますかね」
コムギがそう言うと、エノは「ふふ」と目を細めて笑う。冗談は冗談と通じて初めて冗談に成るものだから、彼と通じ合えている気がして少し嬉しい。
「あっあの雲エノさんに似てませんか? ほら、あれが耳で……」
猫の顔の形をした雲に指をさしながら、さりげなく彼に近づく。ごめんマスカこれが精一杯、と心の中で謝りつつ。
「なら、あれはコムギさんですね」
「ええ? 似てますかね」
隣にゆったりと流れる台形に近い雲をエノが指さす。髪の形から、確かにそう見えなくもない。
それから雲の形から連想した話題をいくつか話したり、時折向こうのほうにいる二人をチラッと見たりしつつ談笑は続いた。
「……センバ祭ももうすぐですね」
しばらく経ち、エノはぽつりと呟いた。
祭りが来るということは、祭りが終わるということ。祭りが終わるということは、エノは王都に戻るということ。
もっと一緒にいたい。
ただそれだけ、彼が同じ気持ちでいてくれたらいいなと思いながら、しんみりする空気を吹き飛ばすようにあえて気丈に振る舞う。
「そういえばエノさん、祭りでどんなことするかご存知ですか?」
「……言われてみれば、あまり詳しいことは知らないですね」
コムギはこほん、とセンバの街を代表するかのような心意気で説明する。
「センバ祭は豊かで美しい水への祝福になる祭りなんです。ですから当日は水路や噴水、もちろん海も見ながら皆で食べたり飲んだりするんです。うちのお店はそこで配る食べ物の用意を任されてるので、結構重要なんですよ」
「なるほど、クラゲの名や見た目の青も、祭りのコンセプトに合っているわけですね」
「そうなんですよ。……あ、その節はどうもありがとうございました。今のところクラゲソウなどの仕入れも滞りなく進んでるので、上手くいきそうです」
特に、今年は気合を入れて祭りに参加する。なにせ彼と一緒に作り上げたクラゲパンは、味や見た目以上にコムギにとってはその経緯が大事だった。彼との思い出が詰まった大切な商品だ。その幸せを街の皆にも共有できればいいな、と意気込んでいる。
「そして……夜にはライトアップされた街の中央でダンスパーティがあるんです」
「ダンスパーティ?」
「はい。パーティって言っても一日中パーティみたいなものなので、夜は逆に、流れる音楽に合わせて静かに踊るんです」
エノはとても興味深そうにその話を聞いていた。コムギは地元に興味を持ってもらえるのが純粋に嬉しくて、少し饒舌になる。
「そこで大切な人と踊れば、その仲は神聖な海に誓って長続きする、とされているんです。だから外から多くの人が訪れてくれるんですよ」
「大切な人、ですか」
「はい。家族とか友人とか。……あと、恋人……とか」
言っているうち、別になにもやましいことなどないのになぜか気恥ずかしくなってしまうのは、多分一瞬すごい妄想をしてしまったからだろう。
――祭りで、エノさんと踊れたらなぁ。
もちろんそんなことを言い出せるわけはなかった。もしこれを今ここで言うために前日から何度も予行練習をしていれば、結果は違ったかもしれないが、思いつきで、本当にこの瞬間に浮かんでしまったものを即座に声に出すほどの勇気はなかった。
それはなんだか気まずい沈黙となって表象してしまいそうな気がしたから、コムギは慌てて続ける。
「え、っと……騎士隊の皆さんは、当日参加されるんですか?」
違う。騎士隊の皆さん、じゃない。本当はエノの予定を聞きたいだけなのに、話の流れからダンスの誘いみたいに誤解されるかもしれなかったから。心の底では、誤解されてしまえばいいと思っているくせに。
しかし捨てきれない願いは、呆気なく打ち砕かれることとなる。
「……そういえば、夜はそれなりにちゃんとした見回りの業務をあてられていました。今内容を聞いた限りでは日中のほうが危なそうですが、夜は夜で危険なのでしょうね」
「そう、ですか……」
確かに祭りの後のほうがトラブルは起きやすいイメージがあるから、必然なのだろう。コムギはしっかり形にすらしなかったその願いが、ぽろぽろと順当に崩れていくのを感じた。
わずかの沈黙を、さわやかで涼しい潮風が吹き流す。
「あのっ!」
コムギの中に生じた微かな変化。僅かな勇気。マスカに散々背中を押されて、これだけ気を遣ってもらってて、こんな素敵な場所でエノと休日を過ごせて、まだ自分から動かないつもりか。内気だ奥手だと言われてもその通りだからどうすることもできないと勝手に諦めて、それでいいのか。エノといられるのは、あとたった一週間ちょっとしか無いのに。
夜、エノに予定があるのは仕方がない。だけどそれで諦めたら今までと何ら変わらない。結局都合のいい言い訳がそこに落ちてるから、拾うだけ。それを繰り返していて、先に進めるわけなんかないのだから。少しでいい。少しだけでいいから、もう一歩進んでみよう。
「――祭りの日の日中、二人で街を回りませんか」
――言った。言えた。理想の形じゃない。最良には及ばない。だけど、確かに、奥手な自分を黙らせて、打ち勝ったという自負があった。
とはいえ勇気のピークはそこで達していたようで、思わず立ち上がったコムギの口からはまた余計な言葉がつらつらと出てくる。
「いやっそのっ! 日中も暇じゃないとかはわかってるんですけど! もし、時間があったら、ちょっとでも、いいので……」
尻すぼみにどんどん自信がなくなってきていたところに、エノの声が聞こえる。すぐに顔を見るのは、まだ怖かった。
「……そうですね、日中も騎士の仕事があると思います」
続きを聞くのは怖いけど、耳を塞ぐわけにもいかないし、立ち尽くしていると言葉は受動的に耳に入ってくる。エノの唇同士が触れて言葉を発する時の喉の開く音さえ聞こえるぐらいには緊張、緊張、緊張の連続だった。
「ただ――時間は作ります。必ず」
だからその言葉を聞いた時、逆に心臓が爆発するぐらいの急な緩和で、思いが一気にあふれかえる気がした。
カナラズ。たった四文字が末尾に付くだけで、どうしてこんなにもときめいてしまうのだろう。彼は相変わらず、事務的な印象を与えないようにする言葉遣いが上手だ。意地汚い欲望を打ち明けるとすれば、それがコムギの時にだけ発揮される気遣いならいいのに、と思った。
たった四文字分でいいから、彼の好意を独占したい。
やがて遠くにいたマスカとノイバが帰ってくる。またしばらく和やかに話して、その日は解散となった。コムギは家に帰ってからも、今日の戦果を――大事に大事に噛み締めていた。
◇
それから数日経ち、祭りまであと一週間を切った頃。
とある青年がエノに斬りかかっているところである。こう書くと物騒だが、なんということはない。コムギのもう一人の幼馴染グレフは街の自警団に所属しており、朝からエノに直談判して剣の稽古を付けてもらっていた。
「おらっ!」
グレフの荒々しい一振りを、エノは半歩未満の動きで体をわずかに斜めに揺らして避ける。そんな動きが二度、三度、繰り返される。時折エノは思い出したように木刀で彼の剣を弾き返す。
何度目だろうか、グレフの息が切れて動きが止まったところで、グレフは剣を置いて座り込む。
「っはー! やっぱ王都の騎士ってレベルが全然違うんだな」
「……休憩にしましょうか」
グレフとしてもそんなことはわかっているつもりだったが、いざ実際に相手をしてもらうとまるで赤子になったかのように扱われる始末であった。グレフは街じゃそこそこ頭角を現すぐらいには剣に自信があったのだが、こうも力量差がはっきりしているとそれもめっきり折れてしまいそうだ。
「悪いっすね、こんな時間から付き合ってもらっちゃって」
「いえ、構いませんよ。僕もたまには剣を振らないと、なまってしまいますから」
街から少し外れた、だだっ広い野原はグレフが小さい頃から、それこそマスカやコムギとともに駆け回ってきた場所だ。今でもこうして鍛錬のために頻繁に利用している。
遮るものなく水平線を見渡しながら、二人は潮風に吹かれる。
「時に、グレフさん。自己研鑽のためとおっしゃっていましたが、どうして今になって個人的な申し出を?」
個人的、というのは、実は自警団の訓練にエノはしばしば招かれていた。そこでグレフはエノと親しく――悪い言い方をすれば馴れ馴れしく――していたため、改まって個人的に、というのがエノは引っかかったのだろう。
「あー……。まあ、なんていうか」
グレフは一旦言葉を濁すが、ここで誤魔化しても仕方がないと割り切って答える。
「惚れた女の子が、最近強い男と良い感じ……一緒に出かけたりしてるみたいだから、みたいなね」
「……それで自分も強くなろう、と?」
「そんな感じっす」
――エノは自分がそれに深く関わっていると気づいているのだろうか。薄々勘付いていて、あえて触れてこない、そんな空気感を感じる。
「……例えばなんすけど」
だからグレフはあえて、エノを試すつもりで質問をしてみる。
「好きな相手のことを好きな別の誰かがいたら、エノさんならどうする? ……恋バナとか嫌いだったらすんません」
エノは立ったまま遠くを見つめる。頬から飛び出たひげをくるくると回す。風が、彼の毛を逆立てる。彼が誰のことを思い浮かべているのかは想像に難くない。
「……その人が幸せになる道を、選びます」
「自分が結ばれないとしても?」
「それを……相手が望むのなら」
確かエノは自分と同い年だった。だけどもこういう意見を聞くと、ああ、大人だなと感じてしまう。グレフはハッと高笑いする。
「エノさんらしいすね。他人を尊重する気遣いとか、俺はマジでそういうのすげぇと思う」
グレフはそこであぐらの両膝を叩いて立ち上がる。
「でも」
それからエノのほうを向く。エノもまた、こちらの目を見てくる。背はグレフより低いが吸い込まれそうな瞳に魅入られる。やっぱりこの人は精神的にオトナだ。だから、いつまでも大人になれない、自分優先のコドモ代表として一発かましてやろうではないか。
「そんな半端な気持ちなら――コムギにこれ以上関わるなよ」
まさかそんなことを言われるとは思ってもなかったのだろう、流石にそれが驚きの表情であると視認できるぐらいには、驚いていた。
「どういう……」
「エノさんが慎重になる理由は正直わかるよ」
わかる、といっても部外者以上友達未満の存在になにが、というのはグレフ自身自覚しているつもりだ。ただ、一人の人間に恋する同じ人間として、わかっているつもりのことをぶちまける。
「センバから離れた王都で重要な仕事してるんだ、たとえ両想いになったところで――その先コムギが幸せに暮らせるとは限らない。そう思ってんじゃないのか?」
「……」
エノは顎を引いて、押し黙る。単に図星を突かれて言い返せないとかそういうのではなく、他人からはっきり言葉にされて自分の中で整理の時間が必要、そんな感じの沈黙だ。だけどもそんなことはお構いなしに、グレフは続ける。
「だからどこか一歩引いてる。もっと言うなら怖がってるんだよ、コムギにこれ以上近づくのが」
「……」
「別にエノさんのその優しいところがダメだって言ってるんじゃない。コムギのこと考えてくれてるのもわかるよ。ただな」
グレフは目の前の黒猫の騎士と目を合わせたまま、しわのないマントの胸元をガッと掴み引き寄せる。
「なってくれますようにじゃなくて――『俺がコムギを幸せにする』ぐらい言ってみろよ!!」
ふだんの適当な態度からは想像もできないぐらい真剣な、腹の底から湧き上がるような本音の吐露。眼前でそれを浴びたエノは、言葉を失ったように、あるいは言葉を探すように、呆然としていた。グレフもグレフで、絞り出すように畳み掛ける。
「別にエノさんが適当な気持ちで好きなんだろとか思っちゃいねぇよ。ただもっと良い人がいて、コムギがもしその人のほうが好きって言ったらサッと譲っちまいそうなその態度は! マジで気に食わねぇ! ……確かにコムギは誰よりもこの街に必要だよ、どこぞの騎士にだろうが連れていかれてほしいと思ってるやつなんて一人もいねぇ。だけど、そういうの全部取っ払って『俺が幸せにする』って攫っていけるぐらいの覚悟もない臆病モンが、中途半端にコムギの気持ちもてあそぶのはもっと許せねぇんだよ! んなことしたら俺もマスカも、街の誰も許さないからな!!」
長い長い叫びの後、風が草花を撫でる音だけが聞こえるような、穏やかな静寂。嵐の後の静けさとはよく言ったもので、次第に熱が冷めてきたグレフは襟元から手を離すと、気まずそうにエノから目を逸らし、長いこと話して乾いた口の中に舌を一周させて潤す。それから唐突に反対側を向いて座り込み――右手だけエノのほうに向けて釈明を始めた。
「恥っず!! 今のナシ! ナシ! いやナシじゃないんだけど、とにかくナシで!」
顔をブンブン振って恥ずかしがったかと思えば、
「てか俺勢いでめっちゃ失礼なこと言ったっすよねぇ!? マジで申し訳ないっす」
ひっくり返るように土下座で謝罪をする始末。その変わりように、エノは思わず笑いだす。
「ふ……」
「……なんで笑うんすか」
「とても忙しい人だな、と」
その言葉にグレフがむくれていると、エノは言葉の整理がついたのか、自ずから話しだす。
「君の言うとおり、僕は怖いのかもしれません。彼女の一生を変えてしまうことが……というのは驕りすぎではありますけどね」
耳をすませばかすかに波の音が聞こえる、そのぐらいの静かさを保ったまま、エノもまた静かに、そう言った。
「勘違いしてほしくないから念押ししとくけど、俺はエノさんのこと応援してるんで」
「それはどうも。……しかし、よろしいのですか?」
エノの頭に疑問符が浮かんでいるのが見え、グレフの頭の上にも同じように疑問符が浮かぶ。よろしい、とはいったい何のことか。
「その……君はコムギさんのことを……」
とても言いづらそうなことのようにエノはそんな話を始めるものだから、グレフは一度自分とエノの会話を振り返る。
――ああ、なるほど。何やら壮絶な勘違いが起きているらしい。
「いや違います違います! 俺が好きなのは……いやそれはどうでもいいんだけど、とにかく俺がコムギのことを恋愛的に好きとかはないです! まったくもって!」
「そう……なんですか? すみません、早合点でしたか」
「だいたいもしそうなら、わざわざ恋敵の後押ししたりしないっすよ。いくら俺が善人とはいえね?」
グレフはいつもの軽口のつもりでそう言ったのだが、エノはなにか真剣に受け止めたようで、深く考え込んでからグレフの目をまじまじと見つめてからこう言った。
「しかし、いち友人のために騎士相手に啖呵を切れる君は、依然として優しい人間でしょう」
「いやいやそんなそんな……」
「――友を思い真剣になれる君は、とても格好いいですよ」
また風が吹き、エノの毛がぶわっと逆立つ。海の歓声を手で受け止めながら、目を細めてそんなことを伝えてくる彼の立ち姿はとても幻想的だった。
今自分が褒められているはずなのに、際立つのは彼のかっこよさのほうである。
――なるほど、この人がいつもこんな調子なら、コムギの心臓が思いやられるな。とグレフは、不覚にも一瞬ぽっと見惚れてしまったことを悟られないように表情を取り繕いつつ、コムギとエノのやり取りに思いを馳せた。
「まあとにかく、あれだ、幼馴染として俺から一つアドバイスしておくとだな」
気恥ずかしさを誤魔化すようにわざとらしく咳払いをした後、本題に話を戻す。
「――あいつは度を越した奥手だ。こっちから攻めないと絶対進展しないぞ」
先ほどグレフが掴んだしわがまだわずかに残るマントに片手を当て、エノはうやうやしく、軽く頭を下げる。
「肝に銘じておきます」
二人の稽古はまだまだ続くようである。