五話 マスカは勝気な幼馴染
エノがモテているという事実にようやく気づいたコムギは、翌朝は焦りからかやけに早く目が覚めてしまって、時間を潰すあてもないので早く仕込みに取りかかっていた。
すると、今日はむしろ以前よりも早く、エノが厨房に訪れたのだった。
「すみません、昨日はちょっと……色々ありまして」
「あ、いえ全然……」
色々、とお茶を濁しつつ、彼がなぜ来なかったのかの見当はついている。街中を歩いていた彼に人だかりができて、そのままコムギベーカリーにやってきたら色々と不都合が……とそこまで考えて、コムギはあれ? と違和感を覚える。
別にエノと朝を二人きりで過ごすこの関係はやましいものではない。コムギが一方的にお願いしているとはいえ、やっていることはただのパン作りだ。それがバレたところで、例えばエノと過ごしたいがために他にも手伝いたいという人が出てきて、それでちょっとモヤっとするのはコムギのほうなはず。そういえば以前、エノはここでのことをリザンテラやユリグルに話していないと思われるようなやり取りをしていた。もしかすると彼もコムギと二人きりの時間が……などと推理が妄想じみていることに気づき、途中で取りやめる。
違う違う、彼はただ、自分を取り巻く群勢が店に押し寄せることを懸念しているだけだ。自分の思考とエノの思考の自他境界がごっちゃになった、都合の良い妄想はこの辺でやめよう。
「たまにでも来てくれるだけでも、あり……」
ありがたいから、と言おうとして一度止まる。さきの妄想のせいだろうか、この言葉は違う気がした。もっと彼の気を引けるような、もっと自分の気持ちに正直になれるような、正しい言葉を使おう。
「……嬉しいですから」
このぐらいさらっと言えるつもりでいたのだが、意識しすぎて逆にぎこちなくなっているような気がして、エノと目を合わせることができない。ぶっきらぼうに見えていないといいな、と思いつつ、小麦粉の入ったボウルの両端を持ってカタカタ揺らす。なんだこの動きは、気を紛らわすことに手一杯でまるで意味のない行動だ。
「それはよかったです。僕も嬉しいですよ。……では、始めましょうか」
逆にエノはさらっとつっかえることなくそんなことを言う。嬉しいっていったい何が? 単に、私の前向きな言葉が? 一緒にパンを作れることが? それとも、まさか、私と同じで、たまにでも会えることが? そんなハテナで頭が埋め尽くされないうちに、コムギは手を動かし始めて発散しようとした。
「――やっぱりね」
その時、厨房裏口のドアが開かれて、コムギにとっては見知った顔の少女――幼馴染のマスカが入ってきた。
「えっ、おはようマスカ。どうしたのこんな時間に」
「おはよ。コムギママから聞いたよ〜、二人で毎朝パン作りしてるんだって?」
マスカは持ち前の綺麗な白い髪を束ねながら、コムギのほうに近寄ってくる。
母には別に口止めはしていなかったが、母はコムギのことをよく理解してくれていたし、なんとなくコムギとエノの関係――主にコムギの片想いについて――察しているところはありそうだったが、二人のことを街の人に話したりとかはなかった。それも、幼少期から顔見知りであり、アズキやダイズよりも長く見てきた幼馴染のマスカともなれば話は別のようであるが。
エノは街で大勢に言い寄られていた時よりも困惑した顔をしていた。そんな彼をコムギは珍しいなと思いつつ、説明する。
「あっ、幼馴染のマスカです。エノさんにもたまに話してたと思うんですけど」
「……ああ、彼女が……。お初にお目にかかります。騎士のエノ=ログサと申します」
エノとマスカはお互いにぺこりとお辞儀をする。起き上がったマスカの浮かべる笑顔がなんとなく作り笑いに見えたが、コムギがそれに違和感を持つよりも先に、マスカがそっと耳打ちしてくる。
「――やるじゃん、抜け駆けなんて」
「ぬ……!?」
日頃から軽口を叩き合う仲ではあったが、まさかそんなことを言われるだなんて思ってもみなかったコムギは、思わずマスカの顔を見返す。さすがにその言葉の意味するところがわからないほど鈍感とは思っていないはずだ。彼女は、目を細めてにやりとしていた。彼女の意図がわからず、コムギは困惑しつつも質問する。
「で、どうしたの? こんな時間に珍しいけど……」
その質問に答える前に、マスカは軽く咳払いをしてから口を開く。
「あっそのこと……なんですけどぉーっ」
一瞬、コムギは耳を疑った。マスカの話し声は普段特に高くも低くも感じなかったが、この時彼女はやけな甲高い――まるで別人のような声と、テンションの高さで――話し出した。
「――私もパン作り、手伝わせてほしいなって思ってぇ」
やはりコムギの耳が壊れているわけではなかった。いつものマスカではない、こういう言い方はあれだが、非常に耳障りの悪い、媚びるような声で、彼女は両手を合わせて傾けると、頭を反対方向に少し倒して「お願い」のポーズをしてみせた。
その視線の先はまずエノに向いた。エノは渋るような顔を見せたが、やがて「……コムギさんが、よろしければ」とコムギに指示を仰ぐ。
すると続いてコムギに視線を移した彼女は一気に詰め寄る。
「よかったぁ! もちろん、いいよね」
近くで見ればよりわかることだが、彼女の笑顔はぎこちなかった。コムギは正直エノと二人きりになれる時間が崩れることにはなんとなくモヤっとする部分があったが――エノと話せなくなるわけでもないし、マスカは大事な幼馴染だし、断るほどのモヤモヤではない、と自分に言い聞かせた。
「……うん、まあ、そうだね。子供の頃から手伝ってもらうことあったし、慣れてると思うから」
「うんうん!」
マスカは心底嬉しそうな表情でコムギの手を握ってブンブンと上下に振り、続いてエノの手をしっとりと握る。彼女はコムギとエノのちょうど中間ぐらいの身長なのだが、顎を引いて上目遣いで、目をぱちぱちする。
「じゃあエノさん、よろしくおねがしまぁーす」
エノは動じていないようだったが、コムギの胸の奥はほんの少しだけ、ちくりと痛んだ気がした。
◇
「あっ、エノさんそっちに粉入ってるボウルありませんかー?」
コムギが窯の火を見ながら離れた場所にいるエノに呼びかけると、彼は少し見回してから「中サイズのですか? ありました」と言う。コムギは「あっ、じゃあすみません今手が離せないのでこっちに……」と返し、エノは言われた通り持って行こうとする。
「エノさぁーん、私が持って行きますよ」
すると惣菜パン用の食材を切っていたマスカがエノが持っていたボウルを掴む。マスカは「あっ、指触れちゃいましたね……」と言いながらそれを受け取ると、コムギのもとへ持っていく。
「ありがとう、そこ置いといて」
「……」
コムギが胸のモヤモヤを抑えながら、窯の中を見つつそう言うと、マスカはつまらなそうな顔をしてまた自分の作業に戻る。
◇
力を使う作業のあとだからか、コムギはいつも簡単に開けられるイチゴジャムのビンが開けられず困っていると、マスカが「貸して」と普段の声でビンをコムギから取る。彼女は意外と力が強いから、こういう時昔から助けてくれるんだよなぁと思いつつ見守っていると、フタを回す動作をぴたりとやめ、窯のほうで火加減を見ていたエノのほうに歩いて行く。力を込めたようには、見えなかった。
「すみませーん、これ開かなくってぇ」
エノはビンを受け取ると、火のほうを見ながら軽々と回し開け、マスカと目を合わせて「どうぞ」と微笑んだ。言われなくてもわかっていることだが、やはりエノは誰にでも隔てなく真摯に対応して、そういうところが素敵だとつくづく思う。
「エノさん力強いんですねっ。さすが騎士様って感じでぇ〜」
やけに間延びした喋り方をしながら、マスカはビンを受け取る。
◇
今日は早くから始まり、仕込みの時間が拡大されたので、エノも普段あまり厨房でやらない作業をすることになった。
特にそのフライパン捌きは圧巻で、細かくカットされた野菜や肉がフライパンの上で宙を舞いながらころころと上下するさまはまるで道化師のやる芸能のように見えた。
「エノさん、やっぱりじょ」
「きゃーっ、エノさんの料理姿めっちゃかっこいいですね、素敵です〜!」
コムギが褒めようとしたのが、火を使う音と、それからマスカが割り込んで褒める声にかき消される。マスカがエノにぐっと物理的に距離を詰めて――酒場で料理を作る彼女がそんなことをするはずもないのだが――エノの手元を覗き込む。エノは「危ないですよ」と言って左手で軽く、優しくマスカを押しのける。「ごめんなさーい。優しいんですね」とニコニコ顔のマスカ。胸がまたちくりと痛む、コムギ。
◇
流石にここまでやられればいくらコムギでも気づく。いつも優しくて世話焼きなマスカがここまで徹底的にコムギを押しのける理由はきっとひとつしかないのだろう。恋というものがここまで一人の人間を変えてしまうとは到底、信じがたかったが。
(マスカは……エノのことが好きなんだ)
どうということはない。ツケが回ってきただけだ。あれだけ時間があって、あれだけ機会があって、もっと積極的なアプローチをしなかったツケが。なにが抜け駆けだ、本当にエノと結ばれたいと思うのなら、マスカが今やってるぐらい、最初から全力でアピールするべきだったのだ。
「では、僕は今日はこれで」
「そう……ですか。今日は長々とお付き合いいただいて、ありがとうございました」
終わり際、エノとコムギはそう定例的な会話を交わす。
結局今日はエノとほとんど話せなかった。マスカのせいにするつもりはない。話そうと思えば強引にでも会話に入っていくことはできたんだから、それをしなかった自分の責任だ。そうはわかりつつも、どこか名残惜しいような気持ちが強く出てくる。
「仕込みが早く終わったので……途中まで一緒に歩いてもいいですか」
だから、コムギにしては珍しく――そう、幼馴染のマスカが少し驚くぐらいには珍しく――積極的にそう申し出た。それはエノにしても同じことだったようで、彼は嬉しそうに微笑む。嬉しそう、というのがコムギの勘違いでなければいいな、と思った。
「……もちろんです」
すると、マスカがエノの横に立ち、巻き付くように彼と腕をぎゅっと組む。
「私も途中までついていっていいですかぁ?」
そんなことを言われる気はしていた。だが、コムギもここで折れてはいけない、と反論しようとする。
「でも、道反対だから……」
「え、ダメ?」
マスカは姿勢を低くして、うつむきかけのコムギの顔を覗き込むように目をうるうるさせて聞いてくる。確かに今の言い方だとマスカに対して失礼だったかもしれない、まるで邪魔者扱いのような印象を与えるかもと内省する。
「ううん、全然ダメじゃない、よ……」
「やったぁー、じゃあ一緒に行こっ」
その調子で家を出て数歩あるく。マスカは時々ちらちらとコムギのほうを見ながら、エノと楽しそうに話している。
多分このままじゃさっきまでと同じだ。二人が話して、楽しそうで、その隣で自分はどこかモヤモヤした気分でいて。なんだろうこれは、知らないこの感情が嫌で、ますます話に入るのが億劫になって。
そもそもマスカがエノのことが好きで、積極的にアプローチを仕掛けている以上、自分がこのまま一緒にいることはマスカにとって迷惑なのではないか? これだけの猶予を与えられてなにもしなかったと同然の自分より、最初から好意を全開に接するマスカのほうがエノにより相応しいのではないか?
そんな考えが一度よぎると、隣の二人の会話など聞こえなくなるぐらいそれで頭は埋め尽くされる。今日のマスカはなんだかいつもと違って、ほんの少し怖ささえ感じるけれども、普段はすごく優しい子で、コムギのこともよく気にかけてくれていた。このままエノが名も知らぬ誰かと結ばれるより、信頼できる幼馴染である彼女の恋路を応援するほうが得策なのではないか。譲る、という言い方は傲慢極まりないが、マスカならエノを――。
それ以上は考えたくなくて、しかしその案は採用し、コムギは突然「あっ!」と大袈裟に声を出した。今日はあまり会話に参加していなかったから、発声がいつもよりくぐもっている気がする。
「まだ作業が残ってるんでした、私戻りますね」
なるべくそうした思考回路を悟られないように、できる限りの自然な表情・声・演技でそう言うと、エノがすぐに反応する。
「……でしたら、僕たちも一度戻って」
「あっ、大丈夫ですホント大したことないので! じゃあ、お疲れ様でした」
失礼にならないよう、朝に相応しい爽やかな笑顔を浮かべて――内心では逃げるように――お辞儀をする。
これでマスカも遠慮なくエノと話せるはず、とベーカリーのほうに振り返る。直接彼女の顔を見るのはなんとなく憚られたが、振り向きざま、マスカの顔がわずかに視界の端に映る。予想に反して彼女は、つまらなそうな、複雑そうな、そんな顔をしていた。
「コムギもああ言ってますし、大丈夫ですよっ! 行きましょぉ〜エノさん」
「…………はい」
それがどういった気持ちの現れなのかは、コムギには幼馴染としての長い付き合いを持ってしても推し量れなかったが、後ろからそんな会話が聞こえてきたということは、どうであれ早く切り替えられたのだろう。
エノはどれぐらいコムギの後ろ姿を見つめてくれていただろうか。そんなことを気にしているのにも関わらず、コムギはこのモヤモヤした気持ちを安心という単語に押し込める形で処理して、厨房へ戻っていった。
◇
もちろん残っている作業などあるわけもなく、開店までの時間をただぼんやりと座って無駄に消費していた。普段なら、なにもやっていないように見える時間もコムギはパンのことを考えたり、外を眺めたりして、少なくとも自分の中では満足して過ごすことができていた。だから本当にただぼんやりしているだけのこの時間は、無駄そのものであった。
そして三分ほど経った時――体感時間としてはもっと長かったのだが――厨房の戸が開けられる。いつもより少し早いが、母が起きてきたのかもしれないと思って特に気に留めず、見る気力すらわかずにただ何もない一点を見続けていた。
「どーこ見てんのよ」
だからそんなコムギの目の前に、ゆらりと白い髪を垂らして真横からマスカがひょいと覗き込んできた時は、心臓が飛び出るかと思うぐらい驚いた。人間びっくりしすぎると意外と声が出ないもので、喉の奥でキュウと変な音が鳴って体が縮む上がるばかりだった。
単に母だと思っていたものが違う人間で、いきなり目の前に現れたから驚いただけではない。それだけだったら「わっ」とか「きゃっ」とか実に可愛らしい音を立てていた可能性さえある。そうでなかったのは、コムギが無意識のうちに考えていた――ぼんやりとしていた間は何も考えていないと思っていたのだから、さらに無意識のうちに考えているということを考えないようにしていた――マスカ張本人だったからだ。より正確には、マスカとエノの二人のこと、であるのだが。
「えっ、なんでエノさんと……嘘、もう戻ってきたの?」
「そうよ、悪い?」
彼女の行動原理がわからず、コムギはますます混乱する。しかしそのことを追求する前に、マスカが腕を組んでコムギの前に仁王立ちする。
「あんたさ、エノさんのこと好きでしょ?」
「すっ……」
自分の中で整理はついていたつもりだったが、いざ包み隠さず口に出して他人に伝えるとなると、すらすらとはいかないもので。しかし今彼女に隠し通すことはできないだろうと諦め、一呼吸おいて正直に話す。
「好きだよ。でも……」
「じゃあ今日私のことどう思ってたの?」
好意以上の話をした途端、マスカによってそれは遮られる。会話の主導権は完全に握られている、と観念しておとなしくそれに答える。
「どうって……全然ふだんと違う。あんな喋り方したことないじゃん」
「うんそうだね。じゃあ聞き方変えるけど私がエノさんにアプローチしてるの見てどう思ったの?」
「……それは……なんか、モヤモヤしたけど」
マスカは呆れたようにため息をつきながら、首を横に軽く振る。
「じゃあなんで途中で諦めたの?」
「別に諦めてない……けど……。マスカもエノさんのことす、好きなんでしょ。マスカのことは、応援したいし……」
その答えに、今度はマスカのほうが観念したように目元に親指と人差し指を当ててうつむく。それから大変申し訳なさそうな顔で、両手を合わせた。
「ごめん。エノさんに対するさっきのアレは……コムギのこと――応援しようと思ってやったの」
決まりの悪そうな顔で謝罪する彼女を前に、コムギの思考は完全に停止していた。
「えっ、どういう……え、なんで? なにが?」
困惑しきっているコムギに対し、マスカはどこから話すべきか、という悩み方でうーんと唸る。しばし悩んだ後、彼女の中では話す順序の整理がついたのか、話しだす。
「エノさんとのことはコムギママからなんとなく聞いてたの。でもどうせあんたのことだから、大したアプローチもできずにうじうじしてるんじゃないかと思って」
ほぼその通りなので、返す言葉もなくただ頷いて聞くしかできなかった。彼女の言うように、コムギは一歩踏み出せず、エノとの関係も停滞したままであった。今以上の関係になりたいと望んだ瞬間は確かにあったのにも関わらず、だ。
「だから私が一肌脱いで、背中押してあげようと思って」
そこまで聞いて、コムギの中でなにかが繋がらず、質問を挟む。
「ちょっと待って。じゃあなんでその……エノさんを好きに見せる? みたいなことしたの?」
マスカは平時つり目で、それこそ猫のような――身近にネコビト族がいるから比喩に齟齬が生じかねないが、もちろん猫に似た顔つきという意味で――可愛らしさのある顔をしているが、この時は目をぱっちり開いて、頭の上に疑問符を浮かべていた。
「え、だって……――そしたら嫉妬するでしょ?」
なにか凄まじい衝撃がコムギの背中を縦方向に突き走ったような気がして、壊れたようにその単語を繰り返し呟く。
「……しっと……シット……しっと……」
コムギの辞書になかったその言葉が、だんだん実例とともに現像されてくる。胸の奥の、心の奥の、モヤモヤ。そういう経験が無さすぎて、多分初めてそういう気持ちになったのだと思う。コムギは、片手で口を含む顔の下半分を全部隠すぐらいに覆って、目をぱちぱちとする。
「私、嫉妬してたんだ……」
まるで冗談のようなその文言を真剣に恥ずかしそうに口にするコムギに、しかしコムギが本気と冗談を言うときの違いぐらいはマスカも理解しているから、マスカは頬を引きつらせながら「ピュアすぎるわね……」と想定外の事態に嘆いていた。
「まあそれは一旦置いておくとして、ともかく私がわかりやすくライバル役をやればコムギも踏み出せるかなと思ったわけ。……だったのに」
マスカは少し怒ったように口をつんと尖らせる。
「またあんたは譲った」
コムギはその単語の意味するところに無自覚であったため、聞き返す。
「譲った?」
「……コムギは下に二人きょうだいがいて、欲しいものとか、したいこととか、我慢することが多かったでしょ。それだけじゃない、普段から人がやりたがらないこととか、汚れ仕事って言う言い方はあれかもしれないけど……そういうのやること多いじゃん」
言われてみても、コムギは自然な行為の一環としてそういったことをして生きてきたから、具体例が特に思い浮かばなかった。ただ、幼少期のマスカに同じことを言われた記憶がある。
ちょうどアズキがやんちゃ盛りだった頃――今のおとなしいアズキから逆算すると本当に信じられないぐらいに元気だったのだが――アズキが、コムギの大事なぬいぐるみを原型がとどまらないぐらいに引き裂いたことがあった。その時、ちょうど母はパン屋の仕事で大忙しの時期だった。今新品を願えば、ただでさえ忙しい母の手をわずらわせて不幸にしてしまう、と思ったコムギは、自分のことを後回しにする、自分の優先順位を下げるという形の我慢を覚えてしまった。
それから多くの自己犠牲を経たコムギだったが、それを決定的なものにしたのはコムギが八歳の時だった。当時すでに街の看板娘としての才覚をあらわし始めていたコムギは、旅人から人助けのお礼として美しい宝石を貰った。報告すると母は喜び、装飾を施してペンダントにしてくれた。コムギが鼻の高い気持ちでそれを付けていると、アズキはそれを欲しがった。コムギは流石に少しだけ抵抗したが、ぐずって泣きそうな気配を感じて、それをアズキに渡してしまった。アズキは今でもそのペンダントを大事に身につけているから今となってはいい思い出だ、と当のコムギ自身は納得しているものの、その顛末を幼馴染として間近で見ていたマスカは、そんなコムギを見ていられない、と今回みたいに世話を焼いてくれることが多くなった。
「私コムギの優しいところ大好きだけど……優しすぎるところはちょっとだけ嫌いよ」
それからマスカは人差し指を突きつける。
「好きな人譲るなんてありえないの! わかる?」
「……だって、マスカには幸せになってほしいし」
「いやそれはありがとうなんだけど、違くて」
マスカは調子を崩されるものの、一旦咳払いをしてコムギのおでこに指を突きつけ、目と目を合わせて真剣に言う。
「――初恋は譲っちゃダメだよ、絶対」
彼女の瞳から、声から、表情から、本気でコムギのことを思ってくれているのが伝わる。だから彼女が突きつけた指に触れて、そっと下ろし、両手で包むように握る。さらさらの肌に料理でできたたこや傷跡が時々あって、コムギが譲ってくるたびにいつも握ってくれていた、ひんやりしていて温かい手だ。
「……うん、わかった」
「ほんとに?」
「本当に」
「よし」
短く確かめ合った後、マスカはコムギの髪を両手でわしゃわしゃと優しく撫でる。コムギはケラケラ笑って、それから悩みを打ち明ける。
「でもやっぱり、これ以上どうすればいいのかわからなくて……ううん、わからないっていうか、勇気がないだけかもしれないんだけど……」
ぽつぽつと話す彼女に、マスカはしばし口元に手を当てて考え込んで、それからなにかを閃いて、腰に手を当てる。
「私に任せて。――いい考えがあるわ」
そう言ってマスカは、不敵な――コムギにしてみれば、とっても頼り甲斐のある――笑みを浮かべた。
◇
翌日の朝は何事もなく――エノは時間通りかそれよりやや早く来て、マスカもわざわざ回りくどいやり方はやめるとのことで――落ち着いた二人だけの時間を過ごしていた。
「……こんな質問、おかしいかもしれないんですけど」
「……?」
パン生地をこね、折る回数が露骨に増えながら、コムギはエノに問いかける。
「ここで朝を過ごすことは、エノさんの生活の邪魔になっていませんか」
「そんなこと」
「でも」
この聞き方では即座に否定する、否定してくれるだろうと予想がついてたから、コムギはそれを遮って言う。
「でもエノさん、ここでのことユリグルさんやリザンテラちゃんにも話してなかったので……その、後ろめたいのかな、とか」
エノのほうを見ずにこんなことを聞くのは無粋かもしれない。だがここでエノの気持ちを今一度はっきりさせておきたいという気持ちと、しかし踏み込んだ質問をする勇気が足りないのとがせめぎ合った結果としての、投げやりな質問である。
彼はしばらく黙る。どんな顔で考えているのだろう。彼はいつも私を傷つけない、いや、誰も傷つかないような言葉選びに終始する。だから言葉選びに長考するし、その優しい間を待つのは嫌いじゃなかった。
「……非常に言いにくいのですが、コムギさんが僕といることを噂されることを好ましく思わなかった場合を考えて、ですね」
「……なるほど。お気遣いありがとうございます」
やはり、配慮の結果の行動であるのか、と思いつつ、コムギは答えを明示せずにそう返す。
正直、エノとの関係をそう見られること自体は嬉しい。彼の隣に立って見劣りしない、彼と釣り合っているというのなら嬉しいに決まっている。ただ、必要以上に噂されるのは確かに嫌だ。自分で思うのもあれだが、コムギは街ではちょっとした有名人、という自覚はあったし、最近では彼の話題も絶えない。とすると余計な騒ぎを起こしたくないというのはコムギの中にもあった。だから好ましくも好ましくない、というのが現状だ。
「……それと」
もうひとつ、先ほどよりは彼の言葉はスムーズだが、少し声が緊張しているように感じたのは、コムギのほうが緊張していたからだろうか。
「できれば――あなたと二人のこの時間は、崩したくないと思っていますから」
コムギは固まる。生地を折り返す手がピタッと停止する。生地も手に支えられたまま、空中に静止する。
以前似たような質問をして似たような答えが返ってきた時はお世辞的なものかと思っていた。エノと二人だけの時間を他人に邪魔されたくない、この時間を二人だけのトクベツにしたいと、そう思っているのは自分だけかと思っていた。だけど、今彼の言葉を聞いて浮かぶ、ひとつの可能性。彼も同じように、本音で心の底から、二人きりでいたいと思ってくれているなら?
「……すみません、お気を悪くされたでしょうか」
そんな考えを、しかし以前のように都合の良い妄想と割り切ることはできないでいる間に、エノは黙り込むコムギに声をかける。
「いえっ! まったくそんなことは。私も……私もなので」
「そう……ですか」
思考の整理もつかないまま、彼に曖昧な表現で自分もあなたとの時間を大切にしたい、と伝える。多分、二割も伝わっていない。ああ、どうしよう。ますます彼の顔が見れない。
「……続けましょうか」
「そう、ですね……」
ただ、ここで明確にもう一度都合の良い妄想をしておくならば。
彼の毛むくじゃらの顔が、見てわかるぐらい、赤くなっていればいいのにと思った。
◇
その日の昼下がり、マスカはコムギベーカリーの近くから店を監視していた。もちろんそんな怪しい行動をするのには明確な理由がある。
(きたきたきた……!)
二人の男が談笑しながら並んで歩き、店のほうへ曲がるのを見計らって後ろをついていく。やがて彼らが店の中へ入ると、ごく自然に、偶然を装うために三十秒ほど待ってから、マスカも揺れかけのドアを開いて中へ入る。
「いらっしゃ……あ!」
すると二人――黒猫の騎士エノと隊長ノイバに接客中のコムギがこちらに気づいて、笑顔で手をぶんぶん振ってくる。誰にでもこんなに愛想振り撒いてたら勘違いする人も出てくるだろう、と思う反面、こういうところが健気な犬みたいで本当に可愛いな、とも思う。
手を軽く振って気を取り直し、三人の中へずんずん入っていく。「こんにちは〜」と挨拶をすると、マスカを見たノイバの金色の長髪の凛々しい顔つきにピシッとヒビが入る。
「あ、ノイバさんは多分初めましてですよね。私の幼馴染のマスカです」
するとノイバはわかりやすく瞳孔が黒目がハエみたいにぶんぶん飛び回りながら動揺する。
「ああ……まあ、そうだな」
「初めまして。マスカですよろしくお願いします〜」
マスカはそんな取り繕った言葉でにっこりと彼に微笑む。
お察しの通りマスカはノイバと知り合いである。具体的には、マスカが家業の酒場で働いていること、ノイバがこっちに来てから飲んだくれと化していることから、だいたい、そんな関係だ。
「マスカ、どうしたの? 普通に買っていく?」
「あ、そうそう今日はちょっとお誘いがあって」
コムギには具体的なことは話していなかった。とりあえず「任せて」とだけ言っておいたから、よくわかっていないのか、首を傾げている。
「明日定休日でしょ? 久しぶりに出かけようよ、ピクニックでもどう?」
それから返事を待たずに、ごく自然な流れで、隣で放置されている男二人も会話に参加させる。
とびきりの優しい子で、他人の困りごとにはすぐ首突っ込むくせに自分のことは後回し。自分の好意を伝えるのも他人の好意を感じ取るのも苦手。奥手どころじゃない奥手で、見ているほうがイライラするぐらいの。一番の親友で大好きな彼女の初恋を、どうにか成就させてあげたい。さあ、そのためにいざ作戦を遂行するときだ。
「あ、よかったら――エノさんとノイバさんもご一緒にどうですか?」