四話 ユリグルは知的なお姉さん
「――山には、私も同行させてください」
三人は一瞬呆気に取られたような顔をするが、エノだけは多少予想していたかのように、目の開き具合は本気で驚いた時よりもやや緩やかだった。
もちろん、山賊がいるかもしれない山に、非力なただのパン屋のコムギが同行しようというのには理由がある。少なくとも、ただ自分の店のことを人に任せっきりになるのが嫌だからという無謀な責任感だけでそんな提案をするほど、彼女は愚かではなかった。
「あの山は慣れてないと、地元民でもたまに迷うぐらい険しいです。私から隣町に行ったりすることもありますから、すぐに向かえる人員の中では私が一番慣れている、と思います」
「案内役、というわけだな」
「はい。高さ自体は大したことないんですけど、森が深くて険しいので、何度も通ったことがある場合でないと迷ってしまうと思います」
ユリグルは納得したように思えたのだが、そのあとすぐにこうも言った。
「私は反対だ。店に責任感を持つのはいい心がけだと思うが、戦闘が起こる可能性のある場に、そうであるとわかっていてコムギを連れて行きたくはない」
理論的にユリグルの言っていることもわかるし、何より自分の安全を思ってそう言っているのも伝わってくるから、コムギは「そう、なんですけど……」と言葉を詰まらせる。すると、次にエノが切り込む。
「僕は賛成です。もし想定している通りの状況である場合、できるだけ急ぐ必要がありますが、土地勘のある人間がいるほうが効率的だからです。何より居ても立っても居られない気持ちは理解できますから」
前半の論理的な思考は、冷静沈着で実にエノらしいと思ったが、後半でコムギに対して共感も見せる。いや、逆にそうする気遣いもエノらしいといえばエノらしい、とコムギは冷静に分析する。エノの賛成が意外だったのか、ユリグルは興味深そうにエノの発言を聞いている。彼はさらに続ける。
「それに……彼女の同行に賛成する以上、コムギさんは僕が命に替えても守ります」
それはおそらくエノにとっては自分の決定の責任は自分で持てる、という単なる誠意の表れなのだろうが、コムギは不覚にも一瞬胸の奥で熱いときめきを感じてしまった。
こんな状況で何を馬鹿なことを、と心の中で精一杯ふーふーしてそれを冷まそうとすると、エノとユリグルは、呑気にまだパンを食べ続けていたリザンテラのほうを見る。すると彼女は、一応会話の流れは汲んでいるのだろう、パンを掴んでいないほうの手を挙げてこう言った。
「いいと思う! 迷子、絶対、死ぬ」
間違いなく、偶然にもこの場に居合わせた全員が過不足なく目撃者となった先日のあれを脳裏に思い浮かべたのは、三人とも言葉にするまでもない共通認識であった。あまりに説得力のありすぎる経験談を語るでもなく思い起こされてユリグルも諭されたのか、全会一致のていを取って、コムギを案内人として山に向かうこととなった。
◇
コムギの案内のもと、四人は山に入ると道なき道を進んだ。とはいってもコムギにとっては歩き慣れた通路であるから、しっかりと整備されてはいなくても、いつも歩いている場所はきちんと把握している。
「とりあえず、隣町までの道をたどってみましょう」というコムギの提案で、その道を中心にまとまって捜索を続ける。
「しかし本当に深い森だな、迷いやすいというのも納得だ」
ユリグルは歩きながら、まだ日は落ちていないというのに木々が密集して薄暗くなっている森の中を見渡してそうこぼす。さらに森を進んでいると、コムギはふいに思い出して尋ねてみる。
「そういえば何の疑問も持たずにここまで来ちゃったんですけど……今日ノイバさんはどちらへ?」
てっきり途中で合流するものかと思っていたのだが、三人とも何も言わずに森の中に入っていく流れになっていたから聞く機会を失っていた。その時間すら惜しんで森に行こうというのか、あるいは街の見回りに一人は置いておこうというものなのか。いずれにせよ、隊長がいない状況にコムギは今更疑問を持った。
するとユリグルは諦めたように、鼻で笑いながらこう言う。
「アイツは二日酔いで死んでる」
「……なるほど」
ノイバの残念な習性に驚きつつ、一行は歩みを止めない。
途中、コムギが倒木で段差ができているところを越えようとすると、エノが手を差し伸べる。「ありがとうございます」とその手を取り、こんなところでも気遣いにいちいちドキドキするという邪念を振り払って進む。
「止まって」
先頭を歩いていたリザンテラが突然立ち止まり、静かに、しかし真剣な声色でそう告げる。これが彼女の任務モードなのだろうか、いつもあれだけほわほわしているのが信じられないぐらい真面目な顔つきで、くんくんとなにかを嗅ぎ取るような仕草を見せる。
「――魔獣の匂い。あっちのほう」
いきなり、リザンテラは睨んだ先に走り出す。ユリグルは慣れた対応で「念のため私もこっちについていく。離れすぎないようにエノはそこで待機」と、隊長の代わりなのだろうか、指揮をとって後を追いかける。
突然のことに呆気に取られていたコムギは、不安からエノに距離を詰めて問いかける。
「魔獣、ですか?」
「彼女の嗅覚……探知能力は非常に正確ですから、それなりに近くにいるのでしょう」
仲間をそう評しつつ、エノもコムギに一歩近寄る。
「この辺りは魔獣が出るとは聞いていませんでしたが」
「私も、実際でくわしたことはなかったんですが……一年に一度ぐらいの頻度で出没する時があって、基本的に自警団の方と一緒だったりして一人で入ることは私も、取引相手の方々もないんです」
そんなことを話しつつ、未知なる脅威への存在によって増幅された、彼との近さからくる大袈裟な心音がどうか伝わっていませんようにとコムギは気が気でなかった。不謹慎だとはわかっているが、バクバクとうるさい鼓動が否が応でもその問題を知らせてくるから、気にしないわけにはいかないのである。五感の一つに直接語りかけてくる心音が、思っていた以上にコムギの脳内を恋色に染めてしまう。
その心音に紛れて――パキッ、と枝葉が折れる軽い音がした。
「コムギさん、僕の後ろに」
「えっ」
言われるがまま、コムギはエノの後ろに……というよりもむしろ、エノがコムギを庇うように、近い距離を保ったまま前に立つ。
その視線が向かう先から、ザッザッと土を踏む音と共に数人が現れた。男女入り混じり、薄汚れて古びれた衣服を身にまとう彼らは如何にも賊に見えた。
うちの一人、2メートルはゆうに越えているであろうどっしりとした体格の大男は、それに見合うだけの巨大な褐色のこん棒を構えて口を開く。
「黙って持ち物全部置いて消えてくれれば命まではとらねぇよ」
大男を中心にして、山賊たちがそれぞれ刃物やら彼と同じく鈍重な棒やらを手にしてにじり寄る。
エノの服の裾を掴むコムギの手がわずかに震えていることに気づいたのか――彼は「大丈夫です、守りますから」と、コムギにだけ聞こえるような声量で囁く。その溶けるような上品な優しさの声を聞いて、コムギの震えは止まる。
「――命に替えても」
先ほどの息を吐くような声とわずかに違い、囁きながらもどこか芯のある声で、エノはそう告げる。
胸の奥で明確になにかが弾ける音がした。
そのなにかとやらを確認する間もなく、「おい聞こえてるか? お前らに言ったんだよお前らに」という品性のかけらもない野太い声で一気に現実に引き戻される。
「失礼。それから手荷物についてですが、あいにく急いでいたもので……手ぶらで来てしまいましたが、帰していただけますか?」
エノは淡々とそう返す。冷静とか、そういうレベルではなかった。驚いたことに、普段コムギや隊の人、街の人と話すのとまったく同じ口調、声色で、明確な敵に対しても対応している。その表情もいつもと変わらず、どこかにこやかにすら感じられるほどの余裕をまとっている。
大柄な男、リーダーであろうか、はこん棒をエノに突きつける。こん棒が振られてコムギでさえ微かに風を感じたのだから、エノはそれよりも感じているはずなのだが、一切動じずぴくりとも動かなかった。コムギは岩の後ろに身を隠しているのかと錯覚するほどだった。
「ネコビト族の男のほうは気絶させろ。殺すなよ」
リーダーの男が顎で残りの賊に命令を出すと、彼らは総じてにじり寄ってくる。
あまり連携が取れていないのか、一斉にかかってくればいいものを、最初の一人が短剣を片手に切りかかってくる。それと同時、あるいはそれを見てから動いたのか判別はつかないが――エノは視認できない速さで腰からサーベルを一本抜くと、相手が振り下ろす前にそれらの動作を完了させ、そのまま相手の手元を打つ。サーベルの側面による鋭い打撃に男が短剣を手放すのとほぼ同時に、その反動の勢いをそのままに反対側の側面で相手の側頭部を打つ。
リーダーの男ほどではないものの、エノよりは遥かに大きく体格の良い相手だったが、頭部の衝撃が決定打となり膝からかっくりと崩れ落ちた。
あまりに一瞬のことすぎたためなのか、逆に現実味が湧かないのだろう、残りの賊たちも次々に押し寄せてくる。
エノの力量ならば普通に一人一人捌いていくことも可能であるだろうが、コムギを守りながらでは難しいと判断したのか、彼は肉弾戦の体勢を一旦取りやめる。そして軽やかな動作で腕を後ろに引いて折り曲げ、突きのような構えをとる。すると、彼の剣に吸い込まれるようにどこからともなく水流が渦を巻く。水の魔法である。彼がそれを斜めに一回、真横に一回ずつ振ると、水流がまるでムチのように賊たちの胴を打ちつけて、彼らはまとめて吹き飛ばされる。
「この……ッ!」
水に呑まれることから唯一逃れたリーダーの大男は、駆け足でこちらまで距離を詰めてその巨大なこん棒を振り下ろす。
ふいに、コムギは浮遊感に襲われる。見れば、エノがコムギをひょいと抱き抱えて左側に跳び、軽くその一撃を避けているのだった。いつのまにかサーベルをしまっていたエノの両手が優しく、だけどどこか力強く、コムギの体を掴んで離さない。
エノは攻撃をかわした直後、コムギの足が地面につくのと同じぐらいの時に、鮮やかな流れで男の手元を蹴り上げる。エノの左足が美しく空を切り、男のこん棒が曲線を描いて飛ばされる。そのままエノはできるだけ長く男に背を向けてコムギを守る体勢を継続しながら一回転し、再び男と対峙する。そしてまたサーベルを引き抜くと男の鼻先に触れるか触れないかぐらいのところに突きつける。
「――待ってください!!」
森に声が響く。それは賊の誰かでもコムギでもなく――ただコムギには顔馴染みの――気弱そうな青年だった。
リーダーの男が戦意を失っているのは明らかだったし、青年が止めなかったところでエノがこのまま首を切り落とすとかそんなふうには思えなかったが、とにかくその場で意識がある三人は動きを止めて青年のほうを向く。
「無事だったんですね……!」
コムギは思わず大声で青年に呼びかける。彼の衣服は汚れているが、特に傷もなく生存しているようだ。
「では、彼が?」
「そうです、相手方の農家さんのお一人です」
エノとコムギが確認し合っていると、青年のほうが状況――エノが山賊の長に剣を突きつけている――を今一度把握して、口を開く。
「名は存じませんが、戦士の方と見受けられます。どうか――その人たちを許してもらえませんか?」
どういうことなのかと、エノはおもむろに剣を持つ手を垂れ下げた。
◇
「ではつまり――彼らがあなた方を魔獣から守ってくれていた、と」
農家の青年たち一行の事情を聞いたエノは、口元に手を当てて深く考えながら、自身が先刻ぶちのめした山賊たちを見回す。
青年によると、いつもと同じように警護を付け、森を渡ってセンバへと向かう道中、木々と同じほどに大きい虎の魔獣に遭遇した。警護についた傭兵たちの奮戦虚しく、彼らは命を落とした。彼らも同じく死を覚悟したところに、たまたま通りがかった山賊たちが命をかけて魔獣を追い払うことに成功した。しかし魔獣は複数頭が森に潜んでいることが判明し、身動きが取れなくなっていた。そんな状況の中で、盗賊たちは非力な青年たちを見捨てず守ろうとしてくれていた、という内容だった。
「でもだったら……そうと知らせてくれれば、戦う必要なんて」
滅多に人に怒らないコムギが、ほんの少しだけ声を荒げてそう問いかける。大男は座り込んだまま、うなだれて答える。
「俺たちが武器を奪って戦うほうがいいと思ってたんだ。……まさかこんな強ぇとは、思ってなかったから」
それに追随するように、盗賊の一人の女が話す。
「うちら全員……こんな感じで馬鹿だからさ、盗賊なんかやってんだよ。……やるしか、なくなっちまったんだ」
さらに青年が語るには、彼らは青年と同じ隣町の出身であるそう。隣町はセンバに比べてかなり治安が悪く、この迷い森はある意味で二つの街を隔てる――悪く言えば、防護壁のような――役割を担っていた。彼らはそこで搾取された挙句に強く迫害を受け――山に入り盗賊となった。
「汲むべき事情があるのはわかりました。……しかし、人を襲い、物品を略奪していたことを正当化することはできません」
盗賊たちは皆下を向いたままの中、リーダーだけは顔を上げて、だけどエノと目は合わせずに、諦めたような声を出す。
「わかってらぁ。どっちみちもう長くは続かねえって思ってたところだったからよ。死罪でもなんでも好きにしてくれ。あんたに殺されなかったのが奇跡みてぇなもんなんだから」
すると、農家の青年は拳をぎゅっと握りしめて声を絞り、エノの前に割って入る。コムギも付き合いは長いから、青年が簡単にこんな行動をとるような人ではないことを理解していた。もしかすると、命を救われた経験が、彼と盗賊たちの間に絆――ある種の不健全さを伴って――を生んだのかもしれないなと思った。
「彼らは人を殺していません。暴行や略奪はしていましたが、生きるための食料を求めてのことです。……どうにか、なりませんか」
エノは一瞬険しい顔をして、それから短く鼻から息をはく。彼が騎士であることは伝えていたから、この後の処分についてもエノが決めるのだと思っているらしい。
「……それを決めるのは僕ではありません。一度彼らはセンバまで連れ帰り、隊長の判断を仰ぎます」
青年もまた、やるせない気持ちを表情に出してエノから目を逸らす。自分が無理なことを言っているというのは、百も承知だからなのだろう。すると、盗賊の大男のほうも「もういいよ」と立ち上がる。
「同情してくれてありがとよ、兄ちゃん。でも……事情がどうあれ、しっかりやってきたことの罰は受けるさ」
思えば戦闘中もやけに切羽詰まった声を出していて、とても贅沢や快楽のために戦っているようには見えなかった。コムギは、もしそれに巻き込まれたのが自分だけなら許してしまうかもしれないと思ったが、同時に、青年や他の人々、それに強いから無事でいたけれどもエノだって、無関係な人が傷つけられるのは嫌だなとも強く思った。
それから男はエノのほうを見て、縋るような声を出す。
「俺たちは抵抗しないで着いていくつもりだが――この森はまだ魔獣がいる。 あんたが強いのは十分にわかったけど――」
「それなら」
エノは珍しく話を遮り、なにか心当たりがありそうな顔で、頬のひげをくるくると回しだす。
「多分、もうじきに――ああ、ほら」
いち早く足音と、なにかを引きずる音に気づいたエノは、音の鳴ったほうを向いて、青年や盗賊たちにも同じことをするように示唆する。
「――あーっ! いたいた」
そこには。
彼女の五、六倍はあろうかという高さの虎を四ひき、木のつるのようなものでぐるぐる巻きにして引っ張っているおてんばな少女――リザンテラの姿があった。それから、手ぶらで隣を歩くユリグルも加えて。
その異様な光景に盗賊たちは大口を開けて絶句する。コムギもほとんど似たようなものだったが、一応彼女たちの逸話はエノづてに聞いていたから、衝撃はやや少なめであった。
「お疲れ様です、お二人とも」
ただ一人エノだけは平然として、いつもの光景を見るような感じで声をかける。
「私は縛るのを手伝ったぐらいだがな」
「エッヘン! わたしがやりました」
冬でもないのに鼻息が可視化されるぐらい大袈裟に威張って、リザンテラは右手でピースサインを作る。
確かにユリグルの剣が抜かれた痕跡はなく、リザンテラに至ってはそもそも剣を持ってきていない。ついでに虎の体はいろんなところがべこべこに凹んでいる。極め付けにリザンテラの拳は若干傷ついている。そこから連想される光景をわざわざ口に出す者は誰もいなかった。
◇
さて、センバに戻った後、山賊たちは騎士隊管轄の住居で一旦様子を見ることとなった。
夕焼けがセンバの街をよりいっそう美しく照らし出す中、ぞろぞろと進んでいく山賊たちの列を横目にエノとコムギは二人きりになっていた。リザンテラは森に一人で残って魔獣の残党を一掃すると意気込んでおり、ユリグルはまだ頭痛に悩まされていそうなノイバを引っ張り出しに行ったからだ。騎士隊にはもう一人同行者がいるが彼は隊員ではない、とエノから聞いていた。
「今日は大変な日になりましたね」
夕日に照らされたエノの黒毛が、かすかにオレンジ味を帯びて風になびく。凛として気高く、立っているだけなのにまるで絵画のような美しさを感じさせる。
コムギのほうにも風が吹いてきて、茶色の髪がふわりとたなびく。そういえば森を通過して髪がぐちゃぐちゃになっていたかも、と両手で軽く整えつつ、気持ちのいい風を肌で感じる。
「あれは高位の魔獣でしたから、あのまま放っておいたら被害は大きかったかもしれません。コムギさんが協力を申し出てくれて助かりました。改めて感謝を」
「いえいえそんな、私なんてエノさんに守ってもらってただけなん、で……」
エノがぺこりとお辞儀をするから、いつもみたいに謙遜の応酬をすることになる、と思った。しかし言いながらコムギは、森の中での出来事をよくよく思い出して――顔がだんだん熱くなってくるのを感じた。
「そういえばお店を途中で抜け出してこられましたが、今からでもなにかお手伝いさせていただきましょうか?」
「あっ、えっと、あーっ、そう、ですね……あ、いや、大丈夫です。母が店を閉めている頃だと思いますし。今日はもう本当に、はい」
しどろもどろになるうちにエノがコムギの顔を直視するから、コムギは自分の顔を赤黄色く染めてくれた夕焼けに心底感謝した。例えば今が昼間でその上塗りがなければ、多分エノはコムギの体調を心配してしまうぐらいには、顔が熱を持っている気がする。
エノは戦闘の後だというのに、疲れなど一切感じさせない――彼の熟練度からして、あれでは疲れを感じるまでもなかったのかもしれないが――リラックスした笑みを作る。
「そうですか。では、僕は隊長とユリグルと話し合いに行きますので、今日のところはこれで失礼します」
再度片手を前にして深々と紳士的なお辞儀を披露し、エノはスタスタと騎士隊の住居のほうへと歩いていった。
それまで抑えていた鼓動が、思い出したかのように一気に鳴り響く。
エノのことが好きだと自覚しているつもりではあった。ちゃんとこういうところが好きだとか言えと言われたら言える状態ではあったと思う。いつから好きかと言われると、これが実に曖昧で、例えば出会った最初から彼の紳士的な立ち居振る舞いや口調には惹かれていた。だけどその後の交流を通して好意はゆっくり方向と大きさを変えてきてすっかり別のものになったと思うし、その意味で最初のそれは恋愛対象としての好意かどうかは非常に線引きが難しい。
恋愛において一つの大きな出来事がきっかけとなることは、二人が結ばれる上で必ずしも必要というわけではなく、小さな積み重ねを経て徐々に価値観をすり合わせていった結果結ばれる、というのも素敵な在り方だとコムギは常々考えてきた。実際ここ十数日でのエノへの惹かれ方はそれに近しいものであったし、それが無駄だったとは一切考えていないのは言うまでもない。
ただ、実際自分が経験してみると――なるほど、これは思っている何十倍も効果てき面なのだなと理解させられてしまった。
『――命に替えても』
遠ざかる彼の背中を自然と目で追いかけるうち、山での言葉が心臓を強く握りしめてくる。このまま弾けてしまいそうなぐらい、強く。
『――命に替えても』
きっかけがなくてもコムギはエノのことをぼんやりと好きだった。だけどそれはどこか叶わないものとわかってて、人に聞かれたら身分不相応だからと否定してしまうような、言い訳がましくて情けない恋のまま、祭りとともに終わりを迎えてしまう運命のはずだった。そうして淡い初恋は、コムギにどこか棘を残して波にさらわれてしまうはずだったのだ。
『――命に替えても』
正直森から帰る最中、その言葉がずっと、彼の姿とともに何度も何度も反響した。これは彼にとって何気ない言葉なのだろうか。彼にとって誰にでも言う言葉なのだろうか。彼が騎士だから、私が庇護対象だから、言う言葉なのだろうか。特別な意味なんてないのだろうか。
頭痛の時つい頭を叩いてしまうように、コムギは破裂しそうな心臓に上書きするように、胸の位置の服をぎゅっと握りしめる。もはや鼓動が二人の挙式で鳴るファンファーレのように聞こえてくるぐらい、コムギの頭の中はメルヘン色でいっぱいいっぱいだった。
コムギは今日、明確に――黒猫の騎士エノ=ログサにちゃんと恋に落ちた。あるいはちゃんと、自分の恋心と向かい合う決心がついた。
◇
恋心を自覚した、とはいっても、生来奥手なコムギに今までとは異なるアプローチができたかというとそうでもなかった。それから二日は何事もなく過ぎて――コムギなりに、積極的な質問をしてみたりだとか、些細なものから取り組んだりはしてみたのだが――とにかく、これまでと何ら変わらないような、朝の仕込みの時間を繰り返した。
この日は珍しく、エノが朝に現れることはなかった。思えば最近、ちょっとずつ来る時間が遅くなってきていた。気のせいだと思いたかったが、祭りが近づくにつれ彼も騎士として色々と忙しくなるのだろうと、先日の決定的出来事による決心の効力虚しく諦めかけていた。
仕込みと朝イチの客への対応の時間が終わり、コムギは仕入れのため街中を歩く。街全体が劇的に変化したわけではないが一部で装飾品が飾られ始めたりなど、確かに、祭りへと近づいている雰囲気が感じられた。
「あっ! おーいコムギーっ!」
コムギから少し離れた場所にあるベンチで座っていた男女のうち、少女のほうが手を振りながら叫ぶ。男のほうもさっと手を振る。
「マスカ! グレフ! おはよ〜」
彼女らの名を呼び、コムギはタタタと駆け寄る。
マスカは酒場で働く勝気な性格の少女であり、グレフは農家で働きつつ自警団に所属する青年である。そしてコムギを含めた三人は仲の良い幼馴染としてこの街で生まれ育ってきた。
「センバ祭ももうすぐだね」
「新商品上手くいきそうなんだって? コムギママから聞いたよ」
マスカは街を見渡しながら、特に興味はなさそうに――これが彼女の幼馴染としての距離感なのだろうが――そう問いかける。
「なんとかね。そっちはどう?」
「特に変わらずって感じ。名物酒場ってわけじゃないからね、コムギんちと違って」
「……そっか」
「冗談よ冗談。本気にしないで」
彼女は常日頃から悪態づきをしているわけではないし、さすがに付き合いの長さからコムギも多少慣れているのだが、最近はエノのことで思考のスペースが小さくなっているのもあってかほんの少し暗い顔をしてしまうと、マスカはバツが悪そうに笑った。そこにグレフが割って入る。
「まああながち冗談でもないだろ」
「誰がオンボロ酒場の娘よ」
「言ってない言ってない」
その掛け合いに、相変わらずマスカとグレフは仲が良いなあと思って笑っていると、グレフがコムギのほうを見る。
「実際コムギ最近忙しそうだしな。ちゃんと寝れてるか?」
へらへら笑いながらもコムギを気にかけているのが伝わってきて、コムギも別に体調に支障をきたすほどの無理はしていなかったから「大丈夫、寝れてるよ」と言ってから、笑いながら冗談で返す。
「グレフ、お母さんみたい」
「お父さんでいいだろ」
さきのコムギのように、マスカもくすくすと笑い出す。コムギはこの三人での時間もこれからも大切にしていきたいもののひとつだとつくづく思っている。
ひとしきりそんな薄味の会話で盛り上がったあと、マスカがふと水路を挟んで反対側のほうを指差して「アレも大変そうだよね」と呟いた。グレフと一緒にコムギはその方向を見るが、目に飛び込んできた光景に対し脳が一瞬理解を拒んだ感覚があった。
――エノが、ひしめく若者たちに囲まれて困り顔で立っていた。
「うわっすげぇな」
「玉の輿ってヤツ? 騎士がそんな良いもんなのかなぁ、この間うちに来た騎士なんてベロッベロに酔っ払って騒いでてマジで無いわって思ったけど」
グレフとマスカがそんな会話を繰り広げているけれども、コムギにはまったく頭に入ってこなかった。
(エノさんが、モテている……!!)
考えてみれば当たり前のことだ。立っていても座っていても絵になる見た目の上品さ、相手に負い目を感じさせない気遣いある言葉選びと柔らかな口調、それでいて卓越した剣術を兼ね備えた野生味溢れる、何をとっても完璧な彼が――モテないはずがないじゃないか。
そんな当たり前の事実をいまさら突きつけられて、焦りやらおごりやらでコムギはただ見つめるしかできなかった。自分はあの群衆の中で、同じように黄色い声をあげているだけの一人に過ぎないのだと。ささやかなトクベツにもなれていないのに、一瞬でも彼のたったひとつのトクベツになりたいだなんて思った自分が途端に恥ずかしくなってきた。
「ね、コムギもそう思わない? ……コムギ?」
「……えっ? あ、うん、そう、だね?」
マスカがけらけら笑いながら話しかけるも、コムギは心ここにあらずといった具合で空返事になる。だがそれで多少現実に引き戻されたから、次のグレフの言葉はやけにはっきりと聞こえてしまった。
「てか騎士さんたちが来たのって二週間ぐらい前だよな? しっかしなんでまた急に……あ、最近話題になってるアレか、盗賊団を倒したとか、魔獣騒動を解決したとかっていう。その効果なのかね」
コムギはそれらの話題には非常に心当たりがあった。ということは、彼の人気の火付け役、というのは憚られるが、少なくともきっかけの一つになったのは自分自身ということになるではないか。図らずもであるとはいえ、今更自分で自分の首を絞めることになってしまった事実に、さらに苦しさが増す。好きという感情は副次的効果ですらこれほど影響があるものなのかと、コムギは改めて驚く。
続いて湧いてきたのは焦り、焦り、焦り。このままでは他の子がエノに猛アプローチを仕掛けて一気に距離を縮めてしまうのではないかと、我ながら遅すぎる焦りに辟易する。
ならばこちらも負けてはいられない、と気合は十分なのだが、かといって正直自分が猛アプローチ、というのも想像に難かった。とはいえ、なにかしらのアクションは起こさねば、という気持ちにはなって、群衆に押しつぶされそうなエノのほうを熱心に見つめるのだった。
「……ふーん」
そういうわけでコムギはエノのほうを見るのに夢中になっていて、気づかなかった。
隣にいるマスカが、悪い企みをするような目で――コムギとエノのほうを見比べていることに。