三話 リザンテラは無邪気な食いしん坊
二つ返事だったものの、当初、エノは隊に確認を取った上で毎日来ることは叶わないかもしれないと言った。コムギはもちろんそこまでの高望みはしていなかったのだが、予想に反して――某隊長の影を感じながら――エノは毎朝仕込みの時間に来てくれるようになった。以下は、作業を通しての、数日間で起こった二人の会話の抜粋である。
「エノさんはいつから騎士をされているんですか?」
「初陣は十二の頃ですから、六年前になりますかね。コムギさんのほうはどうですか?」
「私は……うーん、手伝い自体は子供の頃からやってたから結構曖昧なんですよね。……ていうかエノさん、今十八歳なんですか。そしたらたぶん、同い年ですね。なんだか嬉しいです」
「嬉しい……ですか」
「あ、すみません変なこと言っちゃって」
「いえ……その、少し驚いてしまっただけです。あまり言われたことが無いようなことですから」
「エノさんって好きな食べ物とかありますか?」
「そうですね……鮭と紅茶、ぐらいでしょうか」
「なるほど。パンはどうですか」
「ふ……最近は毎朝食べさせていただいてますから、好きになってきましたよ」
「やった、嬉しいです」
「コムギさんは何か好物はありますか?」
「パン以外だと、ブドウとかピーマンが好きですね。あと、私幼馴染がいるんですけど、その子の料理は全部好きです」
「コムギさんは王都へいらっしゃったことはありますか?」
「食材の吟味や調達に何度か伺ったことがあります。確かエノさん達が住んでらっしゃるのは二番地区でしたよね」
「そうですね。あそこは……貴族が多く住んでいて観光にはやや不向きですが、近くには自然豊かな場所もあるのでぜひ見物してみてください」
「覚えておきますね」
「ノイバ隊長から聞いた話ですが、センバには時々海から魔獣が出るそうですね」
「本当にごく稀に、ですけどね。だいたい自警団の人たちがやっつけてくれるので大きな損害に繋がったことは無いですし」
「そうでしたか」
「でも、エノさんたちがいる間は安心ですね。なんといっても、本国の王都でも指折りの騎士様たちですから」
「身に余る肩書きな気もしますが……そうですね、センバの街もしっかりと守れるよう尽力します」
「頼りにしてます」
「エノさんって魔法も使えるんですか?」
「簡単なものであれば。僕の適性は水魔法ですから、センバの街にはなんとなくシンパシーを感じています」
「あはは、それはなによりです」
「コムギさんは?」
「一応氷属性なんですけど、本当にちょっと凍らせるぐらいしかできないですよ」
◇
ある日の朝、コムギはいつものようにエノを待ちつつ、自分でできる作業を進めていた。知り合いの農家の家から卵を受け取りに行く最中、見覚えのある立ち姿の少女が細い通りの真ん中で仁王立ちしているのが見えた。
(あれって確か……うん、やっぱり)
初めてエノたち騎士隊がまとめて来店した時に、とんでもない量を食べていった、あの少女である。エノから色々とエピソードトークが出てきたが、確か名前はリザンテラとかいった。時たま見かけることはあったが、こんな朝早くに遭遇するのは初めてのことである。見回りにしては様子がどこかぎこちない、というか見回してはいるがどっちかといえばきょろきょろしていて、なんだか心配になったコムギは近づいて声をかけてみる。
「あの……なにかお困りだったりしますか?」
するとリザンテラはまるで母を見つけた雛鳥のような純粋無垢な表情でコムギの手をとる。長くふわふわした緑色の髪が野生味を感じさせていたおかげでわかりにくかったが、こうしてみるとずいぶんと幼く可愛らしい顔をしている。
「パン屋のお姉さん! よかったー、ちょっと迷子になってて」
「ああ……王都ほどじゃないですけど、結構入り組んでますから、初めてだと迷っちゃいますよね」
コムギの手を掴んだままブンブン振る。人のことを言えたタチでは無いが、朝からずいぶん元気が有り余っているなあと思っていると、少女の腹から重低音が鳴り響く。すると、彼女はスイッチが切れたようにピタッと静止する。
「あ……私お腹空くと動けなくなっちゃうんだよねー。もう結構ヤバいかも」
自分の身のことなのにかなり能天気にそう話す少女に、逆にコムギは焦らざるをえない。エノから話を聞く限りは、彼女のエネルギー消費の早さは並大抵で無いことはわかっていたから、動けなくなる、というのも全然冗談では無いとわかっていたからだ。
この時間から空いている店はほとんど無いし、というか放っておいたらきっとまた迷ってしまうだろうし、とりあえず店にいればそのうちエノも来るだろうから、コムギはとりあえず彼女を連れて行くことにした。
「ちょっ……と、とりあえず店まで歩けますか?」
「うーん……」
よほど空腹が回ってきたのか、極端に口数が減っている。以前来店した時は夢中で食べたあと楽しそうにはしゃいでいたから、差が激しいことが目に見えてわかる。
眠たい目を擦る赤子のような仕草を見せる少女の手を引っ張って、コムギは一心不乱に店まで逆戻りしていった。
◇
「いやー、ほんと〜に助かりました! ありがとうコムギちゃん」
「いえいえ、これぐらい大丈夫ですよ」
店内の席に座り、厨房に置いてあった昨日のパンをひょいひょいと口の中に放り入れていくリザンテラをカウンター越しに見ながら、なんとなく自分の口調に某黒猫の騎士の影響を感じつつコムギはそう返す。コムギも職業柄敬語で話すことが多いが、エノと関わることが増えてからはあの丁寧な敬語が多少移ってしまっている気がして少し気恥ずかしい。
「やっぱりここのパン本当に美味しい! めっちゃいっぱい食べられる!」
「ごめんなさい、まだ仕込みに入ってないから焼きたてのパン出せなくて……昨日の売れ残りなんだけど」
敬語を砕いてみようとすると、リザンテラのペースに乗せられてかなり軽い口調になってしまう。彼女はかなり子供っぽい振る舞いをするから、下のきょうだいであるアズキやダイズを思い出すためだろうか。
「いや全然! パンのなかの料理もコムギちゃんが作ってるんでしょ、お料理上手ですてき!」
そんなそんな、と謙遜していると、厨房のドアを開けてエノが入ってきた。
「ずいぶん元気な声が聞こえてくるのでまさか、とは思いましたが……なぜリザンテラさんがここに……」
エノは隊のマントを腕で折りたたみつつ、困惑の表情を見せる。すると、驚いたのはリザンテラも同じだったようで、口にパンを詰め込んだまま目を丸くしてエノを指さす。彼女もまんまるの目をしているから、驚いた時の表情が少しだけエノと重なる。
「えっエノ! なっでエノがほほひ!?」
「食べこぼしがひどいですよ、リザンテラさん」
吹き出しながら喋るリザンテラの口元を、エノは取り出した白いハンカチで拭う。その姿が明らかに慣れている対応なのが面白くて、コムギは思わず笑ってしまう。
「なんかお父さんみたいですね、エノさん」
「……僕が、というよりも、だと思いますけどね」
褒め言葉にしては微妙な言葉選びに、エノは苦笑してそう返した。リザンテラが一度口の中のものを飲み込んだタイミングで、コムギのほうから説明する。
「道端で偶然会って、迷子になってたのとお腹空いてるみたいだったので」
やや困ったような、呆れたような、申し訳ないようなそんな顔でエノは肩をすくめる。それからリザンテラのほうを向く。
「ああ、いつものですね。すみません。……ユリグルさんはどうしましたか?」
「うーん、気づいたらいなくなってたー」
「了解です」
おそらく向こうも同じ感想だろうな、とでも言わんばかりにエノは頷いてみせる。それから、リスみたいに口いっぱいに詰め込んだままのリザンテラが再度問う。
「エノは何でここにいるのー?」
すると、答えるのはエノのはずなのに、彼はちらりとコムギのほうを見る。なんとなく言い渋っているようなので、コムギのほうからもあえて疑問を口に出してみる。
「あれ、言ってなかったんですか?」
「ええ、まあ……」
エノはそれから、今度はちゃんとリザンテラのほうに説明しだした。
「色々ありまして、仕込みなどを手伝わせていただいています」
「へぇ! すごいねぇ。……あっ、だからか」
リザンテラは一瞬ものすごく他人事に聞こえるような素っ頓狂な声を出して、それからなにか閃いたようにコムギとエノを交互に見る。
「だから仲良しさんなんだ! 納得納得」
それだけ言うと満足したように、また残りのパンをペースを落とさず食べ始めた。
仲良しさん、が彼女の中でどれぐらいに見えているのかはわからないが、数日の交流を通してエノのことを恋愛対象として意識し始めていたコムギはその言葉に少しだけ心が揺れる。言動の幼いリザンテラからの評価の信ぴょう性は薄いかもしれないが、第三者視点で見て仲良く見えているのだとしたら、正直嬉しい気持ちがあった。
無言のままちらっと横にいるエノの顔を見てみるが、あまりわかりやすい表情はしておらず、普段何気なく歩いているような顔のままに見えた。強いて言うなら少し困った顔のようにも見えるが、コムギは自分の主観的評価だとして却下した。
――もっとわかりやすく照れたりしてくれていればよかったのに。――彼は自分と仲良さげに見られることを嫌がっていないだろうか。
そんな願望やら疑問やらばかりふわふわと浮かんできて、おそれ多いこと、とそれらを手でぐしゃぐしゃっとかき消してみるけど、一度現れたそれは簡単には消えてくれなくて。
そんな思いに浸る間もなく、ドアのノック音に三人とも反応する。誰だろう、と思いつつコムギがドアを開けると、これまた見覚えのある背の高い女性が立っていた。
「あーっ! ユリグルいたーっ!」
「まったく……」
隊の一員である女性騎士のユリグルが呆れた顔で店内を見ると、リザンテラは一目散に駆け寄ってユリグルのズボンに飛びついた。
コムギが近づいてみて気がついたが、ユリグルはかなり背が高い。エノより五センチは大きいだろう。逆にリザンテラは背が低いから、二人が並ぶとまるで親子のように見える。これを言うと失礼になるかも、とわきまえていたから声には出さなかった。ユリグルもかなり若いヒトであると推定される、というのももちろんではあったのだが。
「よくここがわかりましたね」
「リザンテラが行きそうな飲食店を片っ端から当たってたんだけど、ここ通ったらちょうど声が聞こえてきたからね」
「そうでしたか。……彼女が空腹状態のリザンテラさんを引っ張ってきて食べさせてくれたそうです」
熟年の親友のような空気感で会話する二人の間に入る隙もなくコムギが萎縮していると、エノが簡単に事情を説明してくれた。ユリグルがエノがここにいることについて聞くそぶりは無いのだが、ひょっとして彼女には話しているのだろうか、などと思いつつ、コムギはユリグルと目を合わせる。情熱的な赤い髪とは対照的に、凛々しく知的な顔立ちの女性だ。
「その辺に放っておかないでくれてありがとう。感謝するよ。……まあ、そうしておいても簡単に野垂れ死んだりするようなタマじゃないけどね」
「えっへん!」
リザンテラは両手を腰に当てて大きく胸を張る。褒められているのかどうかは微妙なラインだが、本人は嬉しそうなのでエノとコムギは苦笑する。
それから一言、二言交わした後、ユリグルは改まってコムギのほうを見る。その威風堂々たる様は隊長ノイバの時よりもどっしりと感じられて、コムギはやけに萎縮してしまう。それを察してかどうかはわからないが、ユリグルはふっと表情筋を緩ませてから口を開く。
「邪魔したな、開店前で忙しいだろうに」
「いえ、私もお二人とお話できて楽しかったです」
コムギの社交辞令にはそれらしいわざとらしさが無いからか、ユリグルはその言葉を聞いてさらに柔らかい表情を作る。凛とした立ち振る舞いの彼女のこういう笑顔にはやられる人が多いだろうなと思いつつ、会話を続ける。
「今手持ちが少なくてね、リザンテラが食べた分の料金は後日払わせてもらうよ」
「あっ全然気にしなくても……」
「そういうわけにはいかないよ。……なに、これからも通わせてほしいからな。こういうのは適切に、ね」
どうしても支払う気なのか、ゆっくりと回れ右をして立ち去ろうとするユリグルと、呑気に口を開けたままニコニコしているリザンテラ。そんな二人は手を繋いで仲良く――再掲、親子のように――店を出て行った。
去り際、ユリグルは思い出したかのように一度振り向いてコムギをちらりと時々見つつ、悪い笑いを浮かべながらエノにこんな言葉を投げかけていた。
「じゃあエノ――あとでちゃんと、聞かせろよな」
それがなにを意味しているのかはコムギにはピンときていなかったが、とうのエノには思い当たる節があるようで、めんどくさいことになったというような脱力の仕方で肩を落とした。
◇
それからも、朝の平和なひとときは幾度も繰り返され、緩やかに、和やかに、しかし確実に、流れていった。
「エノさんはご趣味とかは?」
「生まれてからひたすら剣術に身を注いでまいりましたから、それがなかなか。……ああでも、紅茶は多少嗜んでいますね。趣味、というほどではないかもしれませんが」
「立派な趣味じゃないですか。上品な感じがしてエノさんらしいと思います」
「そう言っていただけると光栄ですね。コムギさんはパン作り以外になにか?」
「私も実はあんまりなくて。でも、散歩は好きです。定休日とか街を歩いてると、ついつい遠回りしちゃったりとか」
「ああ、確かに、僕も散歩は好きなほうかもしれません」
「じゃあ今度……あ、いえ、やっぱりなんでもありません」
「……そう、ですか」
「コムギさんのご自宅では犬を飼っていらっしゃいますよね」
「はいっ! まだ一歳にもなってないんですよー」
「お世話はコムギさんが?」
「ダイズが拾ってきたんですけど、そうですね、私がやることが多いかもしれないです。まあでもうちみんな犬派なので、飼うことになったのは全会一致だし不満は無いですよ」
「……コムギさんもですか?」
「はい? ああ、そうです。私も犬派ですよ」
「……」
「よいしょっ……と。あ、エノさんそこのボウル取っていただいても大丈夫ですか?」
「……」
「エノさーん?」
「エノさんたちの隊って、すごく仲良しですよね」
「そうですね。僕と隊長は付き合いが長いですし、ユリグルさんとリザンテラさんも色々あって絆は深いですから」
「そうなんですね。……ノイバさんとは普段どんなこと話すんですか?」
「仕事上の話は多いですが、それ以外だとたわいもないことも話しますよ。最近だと……そうですね、隊長は光魔法の名家の生まれですから、お見合いや結婚について日々悩んでいらっしゃるそうです。無論、こちらに来てからはそういった俗世の喧騒を忘れてのびのびとされているようですが」
「なるほど。……エノさんは、そういうの、あるんですか。結婚とか、お見合いとか……あ、あんまり言っちゃ失礼ですよね、こういう話題とか」
「いえ……その類いのお話をいただいていないわけではありません」
「そう……ですか」
「……」
「……」
「……仕込みに戻りましょうか」
◇
そうしてエノたちがセンバの街にやってきてから二週間が経った頃、新商品の開発もついに佳境を迎えた。
「どうですか」
「良いですね。甘さと塩味のバランスがちょうどよくて、かなり食べやすくなったと思います」
コムギは椅子に座りながらぐっと手を上に向かって伸ばし、ふーっと息をついた。
「じゃあとりあえずクラゲパン、ひとまず完成ですね」
「無事コムギさんの理想とする形になったようで、なによりです」
目の前に置かれた、青いジャム――に加え、白い液体にこんがりと焦げ目のついたパンを安心した目つきで見守る二人。
「試行錯誤にすごい時間かかっちゃいましたけど、エノさんがいて本当に助かりました。マヨネーズを合わせるアイディアは、絶対一人じゃ出てこなかったですから」
「いえ、僕はほとんど見るか食べるかしていただけですから……コムギさんの腕前があってこそですよ」
コムギはクラゲパンを自分でも一口食べてみて、そのまろやかな味わいに舌鼓を打つ。
「あとは味の微調整をしたら、完成ですね」
「ええ。僕も開発の一助となることができたのであれば、幸いです」
エノはにこりと微笑むが、コムギはどこか浮かない顔をしていた。もちろんセンバ祭で配る新商品がもう後少し、おそらく一日か二日ぐらいで完成するのは喜ばしいことで、コムギ自身ギリギリまでの試行錯誤を覚悟していたのだから、仕事が順調に進んでこれ以上望むことはないはずである。しかし、それを踏まえてもやはり、彼との朝の習慣が終わってしまうというのは残念だと感じていた。
「あの……本当に、ありがとうございました。冗談とかじゃなくて、私は本当に、エノさんとじゃなきゃこの味は、このパンは作れなかったと思ってます」
一歩エノに改めて近づいて、深く頭を下げる。顔を上げると、エノは優しく笑っていた。ああダメだ。いつもの笑顔とは微妙に違って、とか、なんだか物悲しく見えて、とかは絶対都合のいい幻想だ、とコムギは自分に言い聞かせる。
「いえ、こちらこそ貴重な経験をさせていただきました。あと少しの間にはなりますが、尽力させていただきますね」
「……」
はい、と言いかけた口をきゅっと閉じて、コムギは下を向いてしまう。
自分はなにを期待していたのだろうか。もうひとつぐらい代案を立てておきましょう、とか。もう少しだけ手伝ってもいいですか、とか。あるいはもっとどストレートに、コムギさんともっと関わりたいです、とか。自分から言う勇気なんてないくせに、求められたいばかりでなんて浅ましいのだろう、とつくづく自分が嫌になる。ああ、そうだ。自分のこういうところは、ちゃんと嫌いだ。
「コムギさん?」
エノは急に黙ったコムギを心配して、少し腰を屈めて顔色を確認するように覗き込む。
コムギは要するに、踏み込むのが怖かった。エノに直接確認するのが、示し合わせをするのが、かなり怖かった。本当は初めて「もっと話したい」と思った時から今に至るまで、ずっと口実を作っていた。パン作り体験やら、新商品の開発やらにこじつけて。名前のない関係をつくるのが怖かったから、これまではずっとそうしたものに自分の好意を乗っけていた。名前のない関係でいても、いたくても、いいのかと彼に確認するほどの勇気はなかったのだ。
もうこんなチャンスは二度とないかもしれない。このまま毎日会う口実を失うのは嫌だ。だけどもし、そう思っているのが自分だけだったら? エノが本当は可哀想なコムギに同情して付き合ってくれているだけだったら? 本当はこの日々を愛しいと思っているのが自分だけだったら?
当たり前だが、エノがそんな態度を出したことはない。思い上がりかもしれないが、彼が自分に対して少なくとも正の感情を抱いているとは思う。だけど、だからこそ怖いのだ。性格行動すべてが完璧な彼だからこそ、自分を傷つけないために、表面上好意的に振る舞ってくれているのではないかという一抹の不安が、黒い絵の具のようにコムギの真っ白な恋情にしたたって、蝕む。
「あの……」
ようやく頭の中の絡まったぐちゃぐちゃの糸くずを、なんとか一本一本が独立するぐらいにまでほどいたところで、コムギは彼の目を見る。黄色くまんまるで、コムギの思考のひとつひとつまで見透かされてる気がしてしまう。そんな思いを振り払って、今こそ自分の気持ちを伝えよう。
「エノさん、私は……」
エノは待ってくれている。喉元まで出かかっているものを吐き出すだけ。
「――私は、もっとエノさんとパン作りがしたいですっ!」
私はもっとあなたと一緒にいたいです、のつもりだった。あと一歩届かなかった精一杯のアプローチは、エノの小さな口を半分ぐらい開けるぐらいには驚かせる効果があったようで。焦ってちょっとの沈黙も待てなくなってしまったコムギは慌てて追随の言葉を紡ぐ。
「あっほらえっと! エノさんって凄く素敵な味覚をお持ちですしパン作りもたった二週間とは思えないほど上手で器用でだからそのっ! いてくれると色々と、色々とっていうかはい、助かりますというかなんというかですねっ! もちろん毎日とは言わないですしなんならたまにでもっ!」
両手をあさっての方向にブンブン振り回して、告白じみた言葉の恥ずかしさから茹でるように熱くなった顔を隠しつつ、早口でまくしたてる。違う、本当はエノが有用だからいてほしいんじゃない。エノだからいてほしい、と言いたいだけなのに、慌ててでたらめに繋げた言葉は失礼になりかねない発言を形作ってしまう。こんなになるなら黙っていたほうがマシだと思い、恐る恐る指の隙間からエノの顔を確認する。
エノは子を見守る親のように、口元に手を当てつつくすくすと笑っていた。
「すみません、コムギさんの挙動がかわいらしくて、つい」
「っ……!」
それは多分恋愛対象にというよりも、小動物を見かけた時のような感想に思えたが、エノから「かわいい」に類する単語が出たのが珍しくて、コムギはさらに体温が上がるのを感じた。それからエノは本題を続ける。
「僕でよければぜひ、お手伝いを続けさせてください」
「……え、本当ですか」
「はい。実は僕もこれで終わってしまうのは残念だと思っていたので、ちょうどよかったです。もし気乗りしなかった場合、僕から言ってはコムギさんも断りづらいかなと思って言い渋っていたので、助かりました」
正直、エノに関しては気遣いも完璧な男性だから、コムギは彼が最も自分に気をつかわせないような言い方を選んでくれているのかもしれないと思った。だが同時に、これが本音ならこれ以上嬉しいことはないと思った。本音であってほしいと願った。だって、彼もコムギと過ごす時間を延ばしたいと思ってくれていたなんて、こんなに嬉しいことはそうそう無いのだから。
「よかったです。センバ祭まで、改めてよろしくお願いします」
コムギはこの日一番の――今は仕込みの時間だから、早朝ではあるが――とびきりの笑顔を見せた。大きな進展はなかったものの、とりあえず彼と二人きりで過ごせる時間を延長できたことに束の間の安心を覚えていた。
それが単なる引き伸ばしにしか過ぎないことなんて、わかっていたのに。
◇
「――材料が届かない?」
それから三日後の夕方、この日は客として訪れていたエノ、ユリグル、リザンテラの三人はカウンターに座りながらパンを食べていた。会話中、気になる話題が出てエノは思わず聞き返す。
「はい。……具体的にはハチミツとバターを時々、隣町から取り寄せているんですが、それが届かなくて」
コムギが不安そうな顔をしていると、ユリグルがコップの水を一口飲んでトン、と机に置いて質問する。
「それは珍しいことなのか?」
「うーん、もちろん天候不良などのトラブルがある際には遅れたり、早まったりすることもあるんですけど……。ここ数日はよく晴れてますし、それに最近は祭りの影響で客足も増えているから、何かある時は鳩を飛ばすよう伝えておいたんです。が……」
「……それも来ない、と」
「はい。そもそも二日以上遅れることが滅多に無い方なので」
ふむ、と事態が思ったより重大かもしれないことを悟ったユリグルとエノは口元に手を当てて考えるそぶりを見せる。
「材料のほうは正直どうとでもなるんですけど、向こうが心配で……。付き合いも長いですから」
エノが挙手して質問の体勢に入るのが視界に入って、コムギは顔を上げて反応する。
「隣町、というと近くの山を越える必要がありますよね?」
「はい。ですが私が生まれる前からの付き合いなので、遭難だとかは考えにくいはずです」
コムギがそう答えると、エノは頰から伸びたひげをくるくると回して考える。この場合はおそらく原因究明のために思考を回しているというより、言うべきか否かの束の間の逡巡、というように見えた。
「実は、センバの近くに山賊が住んでいる可能性がある、というのは小耳に挟んでいまして……。情報の不確かさ故に、優先度の高い任務として与えられることはなかったのですが」
相変わらず食欲が落ちずバクバクと食べ続けているリザンテラを挟んで、ユリグルとエノは一瞬ちらりと目を合わせて、示し合わせたようにエノが口を開く。
「念のため、僕たちで山を捜索してきましょう」
すると、黙って聞いていたコムギは「あの……っ」と言いづらそうに切り出す。
「……正直、凄く助かるん……ですけど、さすがにそこまで迷惑かけられないっていうか……」
彼らが協力してくれるのは確かにありがたいことだ。しかし、ただでさえ自分の恋路を優先して平時からエノに時間を割いてもらっている上に、隊全員を巻き込んでまで店の面倒を見てもらうのはどうしても気が引けるところがあった。そんなコムギの思いを察してか、エノは優しい表情で、しかし笑わずに真っ直ぐと、コムギに向き合う。
「コムギさん、僕たちは騎士です。普段は王都にいますが、本質は王国の平穏を祈る奉仕者ですから、迷惑だなんて思ってはいませんよ」
「でも……」
「それに」
未だ割り切れないコムギに対してエノはなおも続ける。
「僕はコムギさんのことをすでに個人的な友人だと思っています。困っていることがあったら助けたいと思うのは……特にあなたなら、理解できるはずです」
コムギはうつむきかけていた顔を上げ、エノ、それからユリグルとリザンテラを見る。するとユリグルも同調し、落ち着いて息を吐く。
「ここでも手に入る食材をわざわざ山越えて手に入れるぐらい、こだわりがあるんだろう? パンの味を落とさないためにも、手伝わせてくれ」
「美味しいパンが食べたーい!」
リザンテラも両手を高く上げ、いまいち緊張感がない、というか状況をちゃんと理解しているのかわからないような声をあげるものだから、四人の中で一瞬緊張がほどける。それからコムギは気を取り直したように三人に向けて話す。
「わかりました。この件は皆さんに頼みたいと思います。……ですが、一つだけお願いがあります」
コムギの提案に、ユリグルが「お願い、というと?」と首を傾げる。コムギは改めて一度ぎゅっと目をつむり、パチっと開いて息を吸う。
「――山には、私も同行させてください」