最終話 エノは黒猫の騎士さま
「――ダイズ!!」
「あっ、お姉ちゃん!」
気がつけば花畑の近くの荒地まで走って、コムギはようやくダイズを引き止めることができた。
呼吸も荒いまま、コムギはダイズの目線までかがみ込んで彼の肩を持つ。
「何やってるの!! こんな時間に……」
「マメが逃げてっちゃって……」
ダイズもアズキもある程度歳を重ねてからは面倒ごとを起こすこともなく、コムギも怒り慣れていないからとりあえず大声を出してみるが、ダイズはそれどころじゃないというぐらい顔面蒼白だった。
そういえば、広場でダイズを見かけた時から、彼は下を向いて走っていた。足跡かなにかを追ってきたのだろうが、今はそんなことを聞いている暇はなく、ただダイズを家に帰すことと、マメの行方を。
するとダイズが「あっあれ!」と言って、ぬかるんだ泥沼のほうに指をさした。昨日の大雨でぐちゃぐちゃになっているのだろう。見れば、マメはその小さな体を泥に埋めて、もがいている。
コムギは躊躇うことなく、袖をまくって沼地に腕を突っ込んで深さを確認し、ずぶずぶと音を立てながら、太ももの半分より下を泥に沈めながらマメのほうへ突き進んでいった。
それからマメを拾いあげて抱き抱えると、無事沼地から脱出した。マメは少し弱っているように思ったが、ダイズの周りをくるくる回り始めて、元気を出してきたようだ。
「あのね、ダイズ。こういうことがあっても絶対一人で動いちゃダメよ。ちゃんとお姉ちゃんとか、大人の人探して助けてもらって」
「はい……」
マメを抱きかかえ、べそべそ泣いて頷くダイズにそう伝えながらも、コムギはあんまり人のこと言えないなと内心苦笑する。そういう向こう見ずなところは、ちゃんと血の通った姉弟の証なのかもしれない。
それからは、たまたま近くにいた自警団の人に声をかけて、ダイズを家まで送り届けてもらうことになった。自警団の人は、全身泥だらけのコムギを見て心配したが、コムギは怪我は無いので大丈夫です、と言って去ってもらった。
「はー……――ひっどいなぁこれ」
コムギは木がまばらに生えた荒地で自分の姿を確認して、思わず笑いさえあふれてくる。
靴は中までぐちゃぐちゃ、純白だったドレスは、月に照らされても光ることはなく泥まみれ。沼地以外の草地も昨日の雨でぬかるんでいたが、もうこうなってしまっては仕方がないと、コムギは膝を抱えて地面に座り込んだ。
コムギが街の中心部まで戻るのを拒んだ理由は、こんな姿を万が一でも想い人に見られたら、という心配からだった。弱いところ見せられる関係って言ったって、限度がある。これはない。おめでたい日に泥まみれで歩く馬鹿な女として記憶されたくない。
(ごめん、マスカ……ダメだった。アズキも……せっかく作ってくれた服、台無しにして……)
空を見上げると、こんな時でも美しく輝いている月が羨ましくなりそうだったから、コムギは下を向く。そうしたらそうしたで、今度は涙が転げ落ちそうで。
気持ち的にも泣きたいところだったが、一日街の有名店の看板娘として張り詰めて糸がここにきて切れたらしく、泣く気力さえ湧かなくなっていた。
◇
◇
◇
どれぐらいそうしていただろうか。
気づいていないだけで、疲れから寝ていたのかもしれない。月の位置はさっきより結構動いているような気がするけれど、気のせいかもしれない。早く夜が明けてしまえと願うほど、長く感じているだけな可能性もある。
ぐちゃっ、と左の後ろから泥葉を踏む音が聞こえて、コムギは顔を上げて振り返る。
――ああ、最悪だ。
最初に思った感想はそれだけだった。どうして彼は辿り着いてしまうのだろうか。どうしていつも一番辛いタイミングで、会ってしまうのだろうか。
それから、徐々に湧き上がってくる、嬉しさ。どうして彼はどこにいても、辿り着いてくれるのだろうか。――どうしていつも一番辛い時、来てくれるのだろうか。
コムギは目が合う前にサッと逸らし、月を見ながら独り言のように呟く。
「――どうしてここがわかったんですか」
「あなたを探していたからです」
「……答えになってないですよ」
またこんなタイミングに話しかけられたせいで、嫌味ったらしくなってしまう。むすっとしたままのコムギに、エノは話し続ける。
「……街の人たちに聞いてまわりました。そうしたら、ダイズくんを追いかけて行ったのを見た、と」
「……そうですか」
エノが一歩近づいたところで、コムギは「来ないでください」と悲しく制止した。
「……私、エノさんが苦手なことたくさん教えてくれて、嬉しかったのに……自分は情けない姿見られるのは怖いままなんです。ダメなところ見せるのってこんなに怖いんですね」
コムギは力無く笑った。
こんな姿、誰に見られたって恥ずかしいのに、彼に見られたいわけがない。向き合えるはずがなかった。
「……コムギさん」
コムギは振り返ることも返事をすることもできずに、黙ってうずくまっていた。
「……コムギさん」
彼に名を呼ばれて嬉しい。彼が心配してくれて、本当は嬉しい。
だから、反応しないのも、深層心理ではもっとそうしてほしいのだと思う。さっきまで子供に説教しておいて、自分もまだまだ子供みたいな精神性をしていることに気づいて、恥ずかしい。
彼はばちゃばちゃと足音を立てて、近づいて、近づいて――。
――ふと、コムギの体が軽くなる。
「――は」
「失礼します」
気づけばエノの腕の中にいた。コムギが座っていた姿勢のまま、背中と膝の裏側を両手で軽々と持ち上げられてしまったようだ。
来ないでください、どころではない、こんなにくっつくこと、今まで一度も――いや、それよりも今は。
「――え、エノさんっ私今本当に汚くてっ!」
「落ちたら危ないので、暴れないでください」
乾いていない泥だらけのまま抱えられて、彼のマントや隊服まで汚れてしまっている。だけども彼は柔らかな表情のまま――こっちの気も知らないで、とまでは思わないけれども――コムギを抱えてそう言うから、素直に従うしかなくて。コムギは彼の腕の中でおとなしく、借りてきた猫のように静かになる。
ぴたりとくっついた彼の胸の中から、心臓の鼓動が心地よく聞こえてくるせいで、コムギはうとうとしながら運ばれつつ、ふと彼は私をどこに運んでいるのだろうと思った。
だけどコムギは、彼が群衆の中に晒すような行為はしないだろうと確信していたから、身を任せることにした。
階段のようなところを上がるたびに、コムギのからだがぐわんと揺れる。おそらく、エノが向かっているのは――
「降ろしますね。足元がぬかるんでいるので、気をつけて」
まるで高級な壺でも置くかのように、丁寧に足から降ろされたコムギは、周りを見渡す。そういえばさっきの場所はここに近かったなと、月明かりに照らされる満開の花畑を眺めながら思う。――ここはいつしかコムギがエノ、マスカ、ノイバと一緒に来た思い出の場所だ。
「さて、コムギさん。早速ですが、僕はあなたの発言をひとつ訂正しなければなりません」
エノはコムギに向かい合うと、そう言った。彼に抱きかかえられて心理的にも肉体的にも距離を縮められてしまったせいで、気づけば向かい合って目を合わせることもできるようになっていた。
「先ほど、コムギさんは――今のご自分の姿を情けない、弱い、と仰っていましたね」
「それは……そうですよ、こんな泥まみれで、消えちゃいたいぐらい恥ずかしいです」
せっかく合わせた目をそっぽにやって、ぶー垂れるコムギに苦笑しながら、エノは一度咳払いをする。
「コムギさんは、僕と初めて会った日のことを覚えていますか」
「当たり前じゃないですかっ、お店に一人で来てくれたときですよね」
エノはそこでくすっと笑ったが、コムギはなぜ笑われているのかわからず首を傾げる。
「でも僕のほうは――あれが初めてではないんですよ」
「……? どういう……」
「……あの日の午前のことです。センバにやってきて市長に出迎えられた翌日でしたから、僕は一人で散歩をしていました。そこで僕は――全身を泥まみれにした女性が、喜びながらなにかを見つけて、老婦人に渡しているところを見てしまったんです」
その事件を思い出すまでに時間はそうかからなかった。なにせ今、ちょうどその時のお婆さんが譲ってくれたとかいう布で作られたドレスを身にまとっているのだから。
だからこそ――コムギは開いた口が塞がらなかった。自分が初対面だと思っていたものが一方的だなんて、想像できるわけがない。
「あっ、だ、だからあの時……」
今一度あの時のエノの言葉をよく思い出してみる。
『……パン屋さんだったのですね』
『いえ、そういうわけではないんです……。ただ、ちょっと意外だっただけで』
パン屋という飲食に関わる仕事に従事している人間が、朝から泥まみれになっていたらそうであると予想できるわけがない。そもそもあの時はエプロンもほとんどダメになっていたから――ちょうど、今と同じように。
「な……なっ、なんで……」
「すみません、言い出す機会を伺っていたらこんな時宜に……」
驚きのあまり未だ口をぱくぱくするコムギに、エノは申し訳なさそうに笑っていた。それから気を取り直して、彼はまた口を開く。
「何が言いたいかというと――誰かのために泥だらけになっている今のあなたは、僕が最初に見た時と何ら変わらない姿なんです。そしてそんなあなたの姿は、弱いところでもダメなところでもなく――強くて美しく、誰よりもかっこいい」
彼は真剣な表情のまま、こう続けた。
「パン屋のコムギさんではなく、誰かのために力を尽くし、他人の幸福を自分のことのように喜べる、泥だらけのコムギさんに、僕は――」
――それは、コムギがずっと聞きたくて、聞けなかった言葉。
「――僕は、恋に落ちているのだと思います。あの時から、ずっと」
大きく見開いたコムギの瞳に、きらきらと、月明かりが反射する。
喜びに浸る間もなく、エノは泥草の中に膝をついて頭を下げる。
「僕は一人の人間として、それから騎士として――そんなあなたを心から尊敬しています」
それからエノはおもむろに立ち上がると、片手を差し伸べて、微笑んだ。
「コムギさん。――今夜、僕と踊っていただけますか?」
コムギは静かに目の端から涙を流しながら、上ずる気持ちを抑えて、震えた声でこう答える。
「――喜んで、お受けいたします」
コムギが彼の手を取ると、彼は一気にコムギを抱き寄せる。その行動にびっくりしつつ、コムギは彼の服装を気にする。
「……あの、エノさん。やっぱり汚れちゃうので……」
すると彼は至近距離でにこりと笑って、こう返す。
「あなたと泥にまみれるのなら、きっと名誉に違いありません。……では、踊りましょうか」
泥だらけの二人は、一歩、また一歩とステップを踏み始める。たくさんの人に支えられて、短くも長かった二人の道のりを、噛みしめるように。
遠巻きに見える、街のぼんやりとした照明たちと、うっすらと聞こえる落ち着いた楽器の音。
友人や知り合いがそれぞれの想い人と踊っているであろう、街の中央からは外れた、二人きりには広すぎる花畑。
暗闇の水平線から吹き、二人を後押しする潮風。鮮やかに咲いて祝福の拍手を送る、色とりどりの花。二人を優しく見守るように照らす、淡い色の月。
泥にまみれても、雨にうたれても。二人を隔てるものはもう何もない。
――さあ、今宵は満足のいくまで、踊り続けよう。
これはパン屋の看板娘と、黒猫の騎士の恋物語。
『エノは黒猫の騎士さま』




