二話 ノイバは頼れる騎士隊長
黒猫の男は、隣の長髪の男と何やら話しながらゆったりと歩いてくる。コムギは人の顔を覚えるのは接客の経験値からして得意であったが、たとえそうでなくともさすがに昨日今日で見慣れない種族の男を忘れるわけもない。
男もコムギに気づいたのか、隣にいるもう一人の男との会話を止めて軽く会釈をする。コムギもぺこりと頭を下げながら、彼らの人数を確認する。男性三人と女性二人の合わせて五人で、サイズ的に考えて二つのテーブルに「どうぞ」と手を斜め下に広げて誘導する。前を歩いていた二人と、後ろを歩いていた三人が別々のテーブルにそれぞれ腰かける。
「昨日はどうも。まさか騎士様だとは思わず」
メニュー表を三人卓に置いたあと、同じように二人卓で渡しながら黒猫の男に話しかける。
「いえ……隊服を着ていませんし僕一人でしたから」
「センバの街にはどうしていらっしゃったのですか?」
二人に問いかける形でそれぞれと目を合わせながらそう聞くと、再び黒猫の男が口を開く。
「その説明も含めて、今日はご挨拶に伺おうと街を回っている最中でして」
「なるほど」
「簡潔に言えば、センバ祭までの一ヶ月間、街の見回りをさせていただくことになりました」
黒猫の男はそこで一度立ち上がると、すでに伸びている背筋をさらに伸ばし、右手を前、左手を後ろに当てる。
「改めて、王国騎士団二番隊のエノ=ログサと申します。よろしくお願いします」
エノはそう言うと、体を前に傾ける。非常にかしこまって言われることにまったく慣れていなかったコムギは、彼の自己紹介が終わるとすぐに腰を直角に曲げて自分も名乗る。
「えっとっ! あの……コムギです。よろしくお願いします」
エノがそれを聞いてから腰を下ろすと、もう一人の男はフン、と面白がるように口を開き、ゆるんだ手を軽く上げて側面を見せる。
「同じく二番隊隊長のノイバだ。よろしく。……エノはかたいからあれだけど、まあ、もっと楽にしてくれていいよ」
ノイバは長い金髪を肩の後ろに回す動作をしながら、そう笑った。顔立ちは骨がはっきりしていて凛々しく、言われてみれば確かに隊長らしい威厳のようなものもある気がしてくるが、言動からして見た目よりも接しやすそうな人物だと感じた。
「でも……見回りってなにかあったんですか? こんなこと聞いていいのかわからないんですけど……例年はいらっしゃらないので」
雑談の一環として、二人に問いかけてみる。センバはほどほどに治安が良く、毎年大きなトラブルもなく開催されてきたから今年だけの特別対応となると、比較的開催側の立ち位置にいるコムギにも気がかりとなる。すると、ノイバが優しく笑ってこう答える。
「ああ。ま、見回りはオマケだな」
「オマケ……ですか?」
「そう。俺たち普段は魔獣の討伐に駆り出されててさ。最近大きな案件をこなしたからって、名目上は見回りで療養して来いって団長から言われてね」
腕を頭の後ろで組んでハッと笑いながら喋るノイバに、エノは声の混じった咳払いをしてから話し出す。
「とはいえ割り振られた仕事もありますし、祭りが終わるまでの一ヶ月間はしっかり見回りのほうもさせていただきますので……」
丁寧な口調で説明するエノと目が合ったコムギは、その丁寧さにつられるような柔らかさの笑顔で返す。
「そうなんですね。目一杯楽しんで、センバを好きになっていただけると嬉しいです」
「尽力します。……水と街並みが美しくて、良い街ですから、そう時間はかからないでしょうね」
住宅街の方に目を向けて話すエノに、コムギはなんだか自分が褒められたように嬉しくて、黙って自分のベレー帽を何というわけでもなく触ってみる。
二、三秒置いてノイバが口を挟む。
「それと美味いパン屋がある」
「あ……ありがとうございます。やっぱり皆さんで召し上がっていらっしゃったんですね。今日も数あるお店の中から昼食に当店をお選びいただきありがとうございます」
「どの街に行ってもエノは店のチョイスが完璧でな。俺もあいつらも皆昨日は一瞬で食べ終わっちゃったから、今日は改めて、な」
ノイバは軽い語り口で、時々豪快に笑いながら話す。するとエノは思い出したように口を開く。
「すみませんコムギさん、今大量に頼むと困りますよね。お昼時ですから」
「えぇ……? まあでも今日は多めに焼いてますし、遠慮なさらず注文していただいて大丈夫だと思いますよ」
エノは少し言いにくそうに、肉球付きの手でコムギに顔を近づけるよう手招きする。コムギは左耳のほうを寄せながら彼の言葉を拾いにいく。
「その……向こう側の彼女……はい、そうです、緑色の髪の。がかなりの大食いでして。多分、今店頭に出てるパンなら食べ尽くしてしまうぐらいには」
至近距離で聞く声になんだかドギマギしつつ、コムギは三人卓のほうを見る。緑色のふわふわした長い髪で、座っているから判別しにくいが背の小さい女の子だ。
「僕のほうから食べすぎないように言っておきましょうか」
エノが冗談を言っているようには見えなかったから、あんな小さい子が……? と思いつつも、コムギは再度「大丈夫ですよ」と言う。
「いっぱい食べる人は結構来ますし、対応も慣れてますから」
エノとノイバは顔を見合わせる。コムギは「それに」と前置きしつつ、どんと胸を叩いてみせる。
「せっかくセンバに来て、うちを選んでくれたお客様ですから……お腹いっぱいになって帰ってくれたほうが嬉しいです。もちろんエノさんもノイバさんも」
その姿に、エノとノイバは脱力するような笑顔を見せた。
そこに、「コムギー!」と声が響いてくる。厨房から彼女を呼ぶ、母の声だ。コムギは少し恥ずかしそうに二人にお辞儀をする。
「呼ばれたのでちょっと行ってきますね。ご注文お決まりになりましたらまた呼んでください。ごゆっくりどうぞ」
首を軽く下げる二人を後に、コムギは慌てて厨房のほうへ駆けていった。
◇
「いや〜良い子だなあ、そりゃ街の有名人なだけあるわ」
「……そうですね」
コムギを見送った後、メニュー表の飲み物ページに目を通しながら二人は談笑する。
「でも珍しいよな」
「珍しい?」
「お前が最善を選ばないのが」
エノは顔を上げ、視線をメニュー表から目の前の美丈夫に移す。
「どういう意味ですか」
「そのまんまだよ。普段ならアレがこんな時間に『昨日のパン食べたーい!』とか言い出したら、お前は『いや……大量に注文する場合はそう知らせた上で日を改めるべきですよ』とか言うだろう。名誉のためにコムギには一応ああ言っておいたが」
ノイバは三人卓のほうをちらりと見つつ、大食いの彼女とエノの雑なモノマネを挟んでそう茶化す。それから口元に人差し指のはらを当ててニヤニヤしながら、エノに名推理と言わんばかりの推測をぶつける。
「俺の見立てではなにか目的があってそうしてるんじゃないかと思ったんだが?」
「……? まあ強いて言うなら、本来行く予定だったお店まで彼女の空腹が耐えられるかどうか怪しいと思ったからそうしただけですよ。先に知らせるべきだとは確かに思っていますし」
エノは再びメニュー表に視線を移し、パンを選ぶ片手間にノイバの変な勘繰りへの応答をする。
「それと僕も昨日のパンはまた食べたいと思っていましたから」
「いつも完璧なお前が絶品のパンに狂わされただけって?」
「そうなりますね」
ノイバは「ハッ」と両手を小さく曲げ上げて、大げさな反応をしてみせる。
「ま……応援してるよ」
「はい?」
言葉の意味がわからず、エノはそう聞き返すが、ノイバはただ「なんでも」ととぼけるばかりだった。
◇
思わぬ来客により、お昼はいつも以上の激務となったものの、その後はむしろ反動なのか客足は緩やかとなり、何事もなく店を閉じた。
夜、コムギはいつものようにベーカリー近くの家で夕飯を作って家族で食べていた。
「じゃあ今日も来てくれたんだ、そのネコビト族の……」
妹のアズキが、きのこのクリームシチューをスプーンでひとくち、口に運ぶ。
「エノさんね」
「そうそう」
普段から表情変化はやや少なめなアズキが料理を口に入れた時、優しい味に安心したような微笑を浮かべるのを確認しつつ、会話を続ける。
「すごく礼儀正しくて、紳士的な方だった。うちを贔屓にしてもらえたらいいな」
「好きになっちゃった?」
アズキの直接的な質問に、コムギは食べる手を止めて両手を伸ばして恥ずかしそうにぱたぱたと振る。
「まさかまさか! 相手は騎士様よ」
母が売れ残ったパンを食べながら、やや疲れ気味に話に入る。
「でも律儀よねぇ、センバも結構広い街なのにわざわざ挨拶に回ってるなんて」
「ほんとにね……」
そう返しつつ、弟のダイズが一生懸命シチューをかき込むのを見守る。そんなに急いで食べなくても逃げないのに、と思いつつ、六歳の頃の自分もいつも急いで食べていたような気がして笑みがこぼれる。すると、いつのまにかアズキもシチューを食べ終えていた。
「ごちそうさまでした」
「あ、器は水に浸しておいてね」
「うん」
アズキは言われた通り流し台で水を張ると、すたすたとコムギのもとへ歩いてくる。
「美味しかった。また食べたい」
コムギはフフッと優しく笑う。料理をする者として、これ以上は必要ないぐらいの褒め言葉だ。
「うん。また作るね」
アズキは毎回忘れずに料理を褒めてくれる。夕食だけでなく、パンも、紅茶も、なにか作るたびにアズキが美味しそうに食べてくれるから、一緒に食べる時間がコムギにとって大事な時間だった。彼女を喜ばせるために、日々献立に工夫を凝らしていることが伝わっているかどうかは定かではないが、ともかく、それぐらい大切に思っているのであった。
◇
翌日、この日も営業日であり、コムギは朝から仕込みに取り掛かっていた。
時間のかかる作業ではあるが、コムギはパンと直接触れ合えるこの時間が思いのほか、いやむしろ一番といえるほどに好きである。パン屋の家系の生まれとして必然なのかわからないが、パン生地に触れている時ほど心が落ち着く時間はないとさえ思う。陶芸家がろくろを回す際に精神を統一させるというのも頷けるものだ。
荷物の運搬をしている最中、コムギは通りにエノとノイバの姿を発見した。
「おはようございまーす!」
朝からよくもまあこんなに大きな声が出るな、と自分でも思いつつ、片手を振りながら元気に挨拶をする。二人はコムギに気づくと、すぐに近づいてきた。
「見回りですか? 朝からお疲れ様です」
「まあ、ほとんど散歩ですよ。そちらこそ、朝から大変ですね。手伝いますよ」
「あっいえいえ! 全然大したことないので……」
コムギは断ろうとするが、エノが「見ての通り僕たち結構暇なので」とにこりとすると、断る気にもなれない。申し訳なさを減らすのが上手いなと思いつつ「じゃあ、お言葉に甘えて……」と一部を渡そうとすると、非常に自然な流れですべてを持たれてしまった。紳士的な気遣いに非常に慣れているのがわかって、少しドキッとしてしまう。
すると、そこでノイバがやや不自然に言葉を発した。
「あ〜。俺はエノほど暇じゃないんだった。悪いけどちょっと行くとこあるから」
「はい? 今日は特になにも……」
エノが何か反論しようとするが、それを途中で遮るような形でノイバは話し続ける。
「まそういうわけだから、そいつ好きに使ってくれ。器用だからなんでもできるぞ」
コムギが困惑して立ち尽くしていると、エノが代わりに「ちょっと……」となにか言おうとする。しかし、これもまた遮ってノイバは「エノ」と急に真剣な顔で、それからニヤっと嫌な顔で笑う。
「隊長命令」
「……」
エノはわずかにまんまるの目をやや横長の楕円に変えて少しため息を漏らし、ノイバを見つめる。ノイバは満足したように、手をひらひらと振って、もともと歩いてきたのと同じ方向に帰っていった。
取り残された二人の間に妙な沈黙が流れ、やや気まずい雰囲気になりかけたところをエノが口を開く。
「すみません、ノイバ隊長は普段しっかりしてるんですけどたまにおかしい時がありまして」
「そう……なんですね」
コムギもちょっと緊張しているのか、荷物を失って行き場をなくした手で前髪をちょいちょいと直す。
「とりあえず行きましょうか」
「そうですね」
そして二人はややぎこちないまま、ベーカリーに向かって歩き出した。
◇
道中で会話を続けるうちに気まずさは若干解消されつつ、厨房に到着する。
「ありがとうございました、手伝っていただいちゃって」
「いえ」
エノは荷物を下ろすと、厨房を珍しそうに見渡す。
「綺麗ですね。これだけ広いともう少し汚れているのが一般的な気がしていましたが。床も掃除が行き届いています」
「夕方には汚くなっちゃうし、多分ここまでする必要ないんですけど……ちょっと綺麗好きなので、自己満足です」
「……そうですか。わかる気がします」
「エノさんも綺麗好きですか」
「自覚はあまりありませんが、周りからはよく言われますね。掃除も苦ではないので」
パン屋の珍しい機械とかよりも先に、掃除の管理に目がいくということはやはり綺麗好きなのだろうと思いながら、さらに質問してみる。
「掃除……っていうか家事もするんですね、騎士の方って。料理とかもされるんですか?」
「隊の食事の管理はもう一人、女性の隊員がいるんですが、その方と交代でおこなっているので、一応心得はありますね」
へぇ、と騎士隊の制度に驚く。コムギはそもそも王国の騎士にあまり詳しくないが、イメージで言うと専属の料理人のようなものがいるのだとばかり思っていた。
「パン作りとか、やったことありますか?」
「いえ、それは無いですね。普段は料理用の手袋を使うのですが、生地をこねるにはなかなか難しいかなと」
そういうと彼は自分の手を顔の前に持ってきて、手のひらと甲を交互に見せる。確かに革製の手袋だとくっついてやりにくいし、かといって素手だと体毛が入ってしまうから生地から作る機会はないのだろうと、コムギは納得する。
「……」
「……」
話が一区切りついたタイミングで、彼はぺこりとお辞儀をする。
「では、厨房に立っていてはお邪魔になりそうなので……僕はこれで」
エノは入ってきたドアのほうに歩いて行く。
ノイバがエノに命令を出した時もあまり良い顔はしていなかったから、あまり入れ込みすぎないようにしているのかというような想像もしてみるが、コムギはなんとなく、彼ともう少し話がしてみたくて、柄にもなく「あの」と袖を掴んで引き留めてみる。
「その……もしエノさんがよければ、なんですけど……」
自分で声をかけた手前、ちゃんと話さなくてはならないが、やはり少し緊張して目を逸らす。視線を機械のほうに向けながら、指をそり立たせて両手を胸の前で合わせる。
「せっかくですし……パン作り、やっていきませんか」
ここでようやくエノのほうを見る。10センチぐらい目線を上げて彼と目を合わせる。意外と近づきすぎていたことに気づきほんの少し気恥ずかしさがありつつ彼の返答を待つ。
自分でもなぜこんな提案を、と思うが、その正体ははっきりとはしなかった。誰かとパンを作るのは好きだけど、それだけが理由ではない気がする。そもそも一緒にパンを作るのが心地いいのは誰とでも、というわけでもない。ただなんとなく、エノの温和な口調が話しやすくて、もう少しだけ一緒にいる口実が欲しかっただけなのかもしれない。
エノはしばし驚いた顔をしていたが、やがて糸目になって微笑む。
「では、僭越ながら」
もしかしたら丁重にお断りされるかもしれない、と身構えていたから、それを聞いて一度胸を撫で下ろした。
エノは騎士隊のマントを脱ぎ、エプロンに着替える。さて、いよいよパン作りに取り掛かろうというところで、エノが申し訳なさそうに口を開く。
「しかしやはり、先ほども申しました通り、生地作りは私の手だと……」
すると、コムギは自信満々で口角をぐいっと引き上げると、「ちょっと待っててください」と道具入れのような棚を漁る。少し経って戻ってきたコムギは両手を後ろに回して何かを隠している。それから「じゃーん!」と掴んだまま吊るすようにエノに見せつける。
「これは?」
「パンをこねる専用の魔道具です」
コムギが取り出したのは、半透明の手袋のような形の道具だった。素材はわからないがかなり薄く、さらに軽い。
「ヒトの手とほぼ同じ肌触りで、しかも早く生地がこねられる優れものなんです。私がパン作りを始めたての時に使ってたもので申し訳ないんですけど、よかったら使ってください」
「こんな魔道具があるんですね。普段ふれるのは戦闘に関するものばかりなので……浅学でした」
エノは手袋を受け取ると、早速手にはめてみる。
「じゃあやってみましょうか」
小麦粉やら砂糖やらの粉類をボウルに入れ、ついで液状の材料を混ぜていく。エノがコムギの慣れた手つきに感心していると、コムギはまだ大部分が粉状のそれをボウルごとエノの前に移す。
「どうぞ。好きなようにこねてみてください」
「大丈夫ですか? 本当に初めてなので、流石に不安ですが」
そう言いつつ、言われた通りエノはボウルの上で粉をまとめ始める。
形のないものをまとめる、というのもおかしな話だが、とにかく液体が粉をまとった中心部分に粉を集めてくっつける感じで、エノは丁寧に粉をこねていく。
「本当に生地になりますかね、これ……」
いくら待っても粉のままのそれに不安を覚え、エノは一度手を止める。横で見ていたコムギは「初めてと思えないぐらい上手ですよ」と激励し、エノはまたこねるのを再開する。
しばらくすると、粉はひとつにまとまった。そのタイミングで台の上に移し、さらにこね続ける。なんとなくパン作りっぽくなってきたからなのか、エノは無言で集中する。
さらに時間が経つと粘り気が出てきて、ようやく生地が完成したところで集中するエノにコムギが声をかけた。
「お疲れ様です。どうですか、生地作り」
コムギはぱっちり目を開いて、少しわくわくしながら返事を待つ。
「そうですね……最初は粉のまますぎて、正直生地になる想像ができなかったんですが」
うんうん、とコムギはエノの感想を嬉しそうに聴き続ける。
「だんだん粉が吸収されていく? 集まってくる? みたいな感覚が面白くて……楽しいですね。もっと機械的なものだとばかり」
「そうですよねっ! ちょっとずつ成長していくからなんか愛着湧いちゃって可愛く見えてくるんです」
少々興奮気味に語るコムギに気押されて、エノは台の上の生地を改めて見る。薄灰色のその未完成の物体をエノが可愛いと感じたかどうかは定かではないが、少なくとも自分と似たような感想を持ってくれたことが嬉しくて、コムギは満足げに大きく頷く。それだけでは飽き足らず、さらに饒舌に語る。
「私、パン作りは万人の権利だと思っているんです。老若男女、種族問わず、皆に楽しく作って、食べてほしいなと思ってるんです……あ」
ただでさえ丸い目をさらに丸くして呆気に取られるエノを前に、コムギは熱が入りすぎたとようやく自覚して、しぼむ。
「だから、その……ちょっとでも楽しんでもらえて嬉しいです、みたいな……すみません」
「いえ、好きなものを共有して、多く語れるのはそれだけ愛が深いのだなと感じます」
あはは、と笑いつつ、冷静に解説されるのが恥ずかしくて赤くなる顔をパタパタと手で仰ぐ。
「僕の知人に魔法の専門家がいるのですが、彼も魔法を語る時あなたと同じような目をしていました。コムギさんがそれだけパンに対する思いが強いからこそ、このお店がセンバで愛されているのではないでしょうか」
「……褒め上手ですよね。私にはもったいないぐらいのお言葉です」
「本当のことだと思って言っていますよ。実際、街の人と軽く話してみても、皆あなたの話をしていますから」
それについては流石に思い当たる節があり、なんとも言えずに笑って誤魔化す他なかった。
「続けましょう。パン作りはこの後もちゃんと面白いですよ」
「それは楽しみです」
二人は目を合わせて笑い、次の段階に取り掛かる。
◇
その後コムギとエノの二人は、パンの成形から焼くに至るまで、とはいっても仕込みの時間の邪魔にならない程度の時間内において、存分にパン作りを楽しんだ。
窯から取り出したパンが放つ上品な香気が鼻を抜ける。
「焼きたてのパンを朝一番に食べられるのは、パン屋の特権ですね」
エノはあつあつのパンに息を吹きかけながらそう言った。コムギは朝は一人で仕込みをすることが多かったから、誰かとパンを食べながら準備をするのがなんだか新鮮に感じられた。
その途中でコムギが「ついでにこれも」と言って、別の魔法の窯で焼き上げたパンの完成品を見て、エノは興味を示す。
「そちらは?」
「これはですねぇ〜、なんとセンバ祭に向けた新商品の試作品です」
作業を通してだいぶ空気も砕けて、おどけた口調でパンを紹介する。
焼き上がったそれは、一見ジャムの乗った普通のパンに見えるが、よく見るとジャムは水色っぽく半透明でぷるぷるしている。
「近くの山でクラゲソウっていう不思議な草が群生してて……調べてみたら食用に向いてるらしかったので、これを使ったパンを祭りに出したいなと」
「クラゲソウ、ですか。聞いたことがないですね」
「味は美味しいんですけど、加熱しないと硬くて食べられない上に、普通に焼いたら数十分で急に蒸発しちゃうので、出回らないらしいです。うちの魔法窯なら大丈夫なんですけどね」
コムギは魔法の窯を大事そうにぽんぽんとはたく。
なるほど、とエノは興味深そうにパンに顔を近づけて覗き込む。
「少なくとも見た目は良さそうですね。透き通る青さがセンバの美しい水を想起させますし、ぴったりなのでは」
「そう言っていただけて嬉しいです。……あ、そうだ。せっかくなので試食していただけませんか? クラゲパン」
「クラゲパン……」
エノはインパクトある名前に少し思うところもありそうな表情をしつつ、パンを持つ。そして口に運ぶ前に、コムギはこう注意をする。
「試行錯誤の段階なので、正直な感想……できればダメ出しが欲しいです」
「わかりました」
ざく、と外側を破る音を立てながら、エノは一口パンを食べる。一口の大きさは控えめで、咀嚼中は口元を手で覆う。上品な食べ方だなあとコムギは感心しつつ、彼が飲み込むのを待つ。エノは頬のあたりから飛び出たひげをくるくるしてから、少し考えて、口を開く。
「クラゲソウのジャムは、癖が強くなくて良いですね。万人受けすると思います。ただ逆に主役にしては味が弱い気がします」
「あ、それちょうど悩んでたところなんですよね」
「ジャムとは別の部分で塩味を増やしてみるといいかもしれません。バターを多くするか、あるいは生地にもう少し塩を足してみるとか……」
エノが言葉を並べていると、コムギが目を輝かせているのに気づき、困惑して喋るのを止める。
「あの、コムギさん、なにか……」
「え、すごいです! すごくて感動してました。アドバイスがとっても的確……なのもそうなんですけど、味の評価とかいまいち言い表せなかったこと上手く言語化してて……参考になります」
コムギが尊敬の眼差しを送り続けて熱弁すると、エノは困ったように目を細めて笑う。
「お褒めに預かり光栄です」
「これも、もしよかったら、なんですけどっ」
熱が冷めやらぬまま、コムギはエノにぐいっと顔を寄せて、祈るように手を組んでこうお願いする。
「一緒にクラゲパンの開発、していただけませんか」
エノはまた、パン作りを提案された時と同じように一瞬ものすごく驚いたように目を丸くする。コムギはハッとしてからもじもじと、「その……朝、来ていただくことになっちゃうんですけど」とか「たまに! たまにでもいいので……」とか、後付けでフォローしていく。
これに関しては、エノに対する恋愛対象としての魅力とか、一緒にいる心地よさがどうのこうのとかというよりも、エノの料理人としてあるいは単に味覚の優れた人間としての腕前、もとい舌前を見込んでのことだった。彼の的確な助言が新商品開発に大いに貢献してくれるであろうという確信めいた予感がコムギにはあり、それすなわち運命とまで思えるほどなのであった。
とはいえ、さきの提案とは違って、今日明日でどうにかなるものではない。これは彼にとって時間的肉体的拘束を要求するものであって、断られても仕方がないものとわかりきった上でのお願いである。
エノはパン作りの提案の時よりも深く考え込んで、それから口を開く。
「――僕でよければ、ぜひ手伝わせてください」
コムギがパッと表情を明るくすると、そのあからさまな変わり様が面白かったのか、エノはくすっと無邪気に笑った。
かくして、朝のささやかな――新商品、クラゲパンの開発という妙な関係の――逢瀬が始まった。