19話 あなたはずっと私のヒーロー
コムギの家に着き、マスカはドアを開けて先に入る。
「マスカ! どう……」
ずっと座って待っていたのだろうか、コムギはちょっとよろめきながら立ち上がると振り向いてマスカと目を合わせる。
遅れて後ろからアズキが入ってくると、姉妹は一瞬どちらも固まる。それからアズキが気まずそうに口を開く。
「あ……お姉ちゃん……」
アズキは何を言うべきか逡巡しているのだろうか。コムギと目を合わせたかと思ったら、すぐに逸らして下を向きかける。
コムギは黙ってスタスタと歩いて行き――目いっぱいに広げた両手で、アズキを抱きしめた。
「よかった……っ」
誰が見ても、心から喜んでいるとわかる喜び方で、コムギはしばらくアズキを抱きしめ続けた。
アズキもアズキで、反省やら安心やらが混ざっているのだろうか、「お姉ちゃん」と「ごめんなさい」を行ったり来たりして何度も伝えて泣き続けていた。
抱きしめる半泣きのコムギと、アズキの肩越しに目が合ったマスカは、彼女の顔を見て、ふと幼き日の思い出に吸い込まれる。
◇◇
二人の少女と一人の少年は、親同士が古くからの友人であり、生まれた日も近いことから、世界を知るより先に、もしかしたら自己を知るよりも先にお互いを知っていた存在であった。
彼らはともに遊び、学び、育っていった。彼らにとって、これだけ仲の良い友人が同じ街にいることは、気づかないながらに最大の幸福であった。
ある時、そのうち一人の少女が行方不明になったことがある。少女は気付かぬうちに森の奥に迷い込んでしまっていた。
見る見るうちに日は暮れていき、少女の味方だった自然の木々は無機質で不気味な集団に早変わりした。さらに運の悪いことに、少女は足を滑らせて、ぬかるんだ岩の溝から抜け出せなくなってしまった。
足をぶつけて痛い。腕も擦りむいた。眠くなってきた。木々が擦れる音が動物、最悪の場合は魔獣の唸りに聞こえてくる。少女はしくしくと泣き続けた。
幼き日の少女には、その恐ろしい時間は何十日分にも感じられた。そんな時、少女の頭上がふわっとした明かりに包まれた。照明を持ったもう一人の少女が、「だいじょうぶ。わたしにまかせてー!」と力強く叫んだ。
そうして助けられた少女が、安心から声をあげて泣こうとした時、助けにきたほうの少女は笑いながら泣いて、泣きながら喜んでいるようだった。
助けられたほうの少女はそれを見て、幼いながらに、他人の無事にここまで力を尽くして、自分のことのように喜べる彼女を素敵だと思った。同時に、自己犠牲を厭わない彼女を心配するようになった。
◇◇
コムギに助けられたあの日から――マスカは何があっても彼女には幸せになってほしいと強く願うようになった。
――誰も助けに来てくれなかったあの日、一人で泣いていた私をたった一人で助けに来てくれたヒーローのためなら。
他人のために笑って、泣いて、落ち込むくせに、怒るのだけは下手くそな優しいあなたはきっと、自分の幸せも後回しにしてしまうから。もし幸せに総量があったとしても、誰にでも幸せをパンみたいに分け与えてしまうであろうあなたが、最後に不幸になってしまうなんてことがないように。――隣であなたの幸せを叶える助力をさせてほしい。
それが単に幼馴染や親友といった垣根を越えた、マスカの信念だった。
(懐かしいこと思い出しちゃったな……)
それから一度ゆっくり瞬きをして現実に戻ってきたマスカは、アズキを抱きしめ続けるコムギと尚も目が合ったままだった。
マスカは左の口角を上げて、ピースサインをしてみせる。
コムギは目に涙を溜めながら、しかしそれをこぼすことはせずに、はにかむように笑い返した。
◇
翌日、コムギは空模様と同じように晴々とした気持ちでパン生地をこねていた。
あの後、散々泣いて落ち着いたアズキと腹を割って話し合うことができた。
アズキがコムギのことをどう思っているか。それだけでなく、アズキがアズキ自身をどう思っているか、など、こんな機会でもなければたとえ姉妹であっても話さないようなことを打ち明けてくれた。
そんなふうに思われていたことには驚いたものの、話しづらいであろうことを覚悟を決めて話してくれたという事実が嬉しかったし、ぶつかり合うことで絆が深まったようにも感じた。
それから、道中でマスカとグレフが物理的にも精神的にも助けてくれたとかで、それを聞いたコムギは今度二人になにかお礼をしよう、と決意を固めていた。
コムギが一度厨房を出ようとドアを開けると、おもわぬ人物との遭遇に、二人とも「あ」と固まった。
「……おはようございます」
「お、おはようございます」
ドアの前には、エノが立っていた。丸一日会わないこと自体は何度かあったが、今回の場合は実状よりもかなり精神的な面で、久しぶりに会ったような感覚がした。
エノとコムギはそれから黙って目を逸らして、しばらくの沈黙に入るかと思われた。
けれどそれではいけないと思い、コムギが意を決して口を開くと、「あの」という二人の言葉がぴったり重なる。それからワンテンポ遅れて、また「ちょっとお話が……」が重なる。
二人は目を合わせたが、不思議と驚きはなかった。少なくともエノが、ああいう別れ方をした後に何の言葉もなしに自然に接してくれるとは思っていなかったからだ。彼は悪くないとしても、きっと謝ってくれてしまうのだと予想していた。
だからこういうとき、率先して自分から切り出すという気の遣い方を彼にしてほしくなかったコムギは、珍しく「じゃあ、私からいいですかっ」と、ドアをパタンと閉めて店の外に出ながら提案した。エノは「……ええ、では」と、少し驚いているように見えた。
「――おとといは本っっっ当にすみませんでした!!」
勢いよく腰を直角に折り曲げ、コムギは誠心誠意の謝罪をした。
それからあの日起こったトラブル――迷惑客、母の風邪、魔法窯の故障、妹との不和――諸々の説明をした。それと同時に、それらが彼とはまったく関係ないところで起こったトラブルであることも、きちんと加えて。
「……というわけなので、本当にエノさんは何も悪くないんです。当たってしまって、本当にごめんなさい」
エノは終始黙って聞いていたが、最後には笑って口を開いた。
「そんなことがあったら、誰でもイライラしてしまいますよ。……てっきり僕は、あなたに嫌われてしまったのかと思っていましたから、そうでなくて安心しました」
いやいやいや、とコムギは手を何度も振って全力で否定しつつ、同じ状況にあっても彼は動じないんじゃないか、と思うなどした。そうしてコムギからの言葉が一段落すると、今度はエノが話し始める。
「僕は……コムギさんにああ言われてから、自分の行動を今一度見つめ直してみました」
「っいえあれは――」
「本意でないかもしれないことはわかっていますよ。――ただ、僕がそうするべきだと思ったんです」
エノはそう言うと、なにやらカバンから紙を一枚取り出して、読み始めた。
「――眠気を我慢すること。面白い冗談を言うこと。先の尖ったもの。匂いの強い場所。尾を触られること。高度な魔法を使うこと。熱い、辛いものを食べること。寒さに耐えること」
一見無関係な事実を淡々と陳列していく彼に、コムギは呆気に取られてそれが耳から耳に通り抜けていくのを感じ取ることしかできなかった。
それから彼はその紙をひっくり返し、コムギに見せる。書道の達人が書いたように綺麗な文字列がびっしりと並んでいた。
「これらは全部――僕が苦手とすることです」
「――え」
なぜ急にそんなことを、というか苦手なことがあったのか、とか、色々いきなり情報量が増えたせいで混乱するコムギをよそ目に、エノは自分の額の傷を指し示す。
「この傷はどうしてできたと思いますか?」
「へっ? ……えっ、あ、やっぱりその、手強い敵と戦ってとか、激しい修行の末に、とかで負った傷なのかと思ってましたけど……」
未だ混乱しながら、コムギがそう答えると、エノはフッと笑った。
「そう思われる方は多いですね。――これは僕が幼いとき、前を見ずに歩いていて、階段から落ちた時に割ってしまったものです」
エノは満足そうにそう言うと、一度こほん、と咳払いをする。
「僕はあなたに完璧だと言われて、あの状況で不謹慎かもしれませんが――嬉しかったんです。あなたの前では完璧でいたいと、そう思っていましたから」
彼は真面目な顔で淡々と続ける。
「しかし同時に、自分の苦手なこと、不得意なこと、できないことを……あなたに見せるべきだと思ったんです。そのほうが誠実、だからでしょうか。自分の中でまだ整理はついていないのですが」
それを聞いたコムギはようやく思考がまとまってきて、ふと脳裏にある言葉がよぎる。
『――弱いところダメなところ苦手なところ見せ合いたい、認め合いたいって思えるほうが良い関係築けると思うんすよね』
その時はその言葉の意味を理解した気でいた。しかし今になってようやく、相手側の当事者になった今になってようやく、コムギはその真意を理解することができたように思う。
常日頃から悩みや弱みを出すことを厭わない人物じゃない。完璧でありたいと願っていた騎士エノ=ログサが、完璧でない一面を知らせてくれた、見せようと思ってくれたということは。マグワートの理論によれば、それは――コムギと良い関係を築きたい、ということの現れではないのか。
だとするのなら、コムギはこんなに嬉しいことは今までにないぐらい、嬉しいことなのだと、ようやく実感を伴って理解することができた。
「あの……お返事がこれで合ってるかわからないんですけど――ありがとうございます。私に、教えてくれて」
「……いえ。僕が、そうしたかったので。……それから、傷の話は誰にも話したことがないので……その」
エノはちょっと恥ずかしそうに、頬を指で掻くようなそぶりを見せた。
(意外だ……可愛いな……)と若干失礼なことを思いつつ、コムギはふふっと笑って人差し指を口元にあてる。
「言いませんよ。二人だけの秘密にしておきますね」
◇
それから厨房に入り、コムギは魔法窯の状態と、現在の状況をより詳細にエノに伝えた。
「なるほど……クラゲソウの調理に必要な魔法窯が壊れてしまい、その修理は厳しい。さらに代替品の交換はセンバ祭には間に合わない……と」
「はい。鑑定士の方にも色々と手を尽くしてもらってはいるんですけど、本命の魔法窯の交換はやっぱり間に合わなそうで……」
エノは顎に指を当て、八方塞がりなこの状況に同じく悩んでくれている。マントを脱いだ彼の背中のラインは綺麗な曲線で、尻尾もくるくるも回って独立して悩んでいるように見える。
横から見た姿はやっぱり絵になるなぁなどと思いつつ、コムギはひとつ用意していた案をエノに話すことにする。
「解決策は一応考えたんですけど……」
「……けど?」
「人手がかなり必要になるのであまり現実的じゃないっていうか……当日は街の人みんなそれぞれ役割があって、忙しいですから」
ということでコムギが言いかけたそれを却下すると、エノは「……いや」と待ったをかけた。
「逆に言えば、人さえ集められれば実行可能である、と」
「……そう、ですね。それ自体は、難しい手段でもないので……」
「であれば、なんとかなるかもしれません。――ただ」
それからエノはコムギに向かい合って、少し複雑な表情でその内容を話し始めた。
「コムギさんが少しでも嫌だと感じなければ、の話ですが――」




