17話 ユリグルは頼れるお姉さん
――時は少し遡って、朝。
タニカル王国騎士団二番隊隊長、ノイバ=ティフローラの朝は早い。
昨晩、ノイバは街で知り合った少女マスカが働いている、行きつけの酒場で飲んでいた。雨も強くなってきたから夜通し飲み明かそうと意気込んでいたのだが、マスカが途中で店を閉めてしまい、ノイバは大雨の中放り捨てられてしまった。
そんなわけで今日は健康的な時間に目を覚ましたノイバは、騎士用の邸宅の階段をのそのそとくだる。
この日はエノがキッチンに立ち朝食を用意していた。エノとユリグルが朝食を作ってくれることが多いが、エノはこの街に来てからパン屋に入り浸っているからその調理姿はあまり見ていない。といっても、ノイバもそれを仕向けるような片棒を担いだことがあるのだが。
(……ん?)
立っているエノの横顔を見て、ノイバは違和感を覚える。そもそも毛に隠れていて顔の様子は見えにくいことが多いが、さすがに何年も付き合いがあれば昨日今日で変わったところぐらいは気づく。
ノイバにはエノの目元にくまができているように見えた。
(……いや、気のせいか)
あり得ない。エノが自己管理もできないような人間では無いことぐらい、ノイバは誰より理解している。そもそも極寒の地と灼熱の地下洞窟を一日で往復した時でさえ体調を崩さなかった男だ。たかが港町に数週間いたところで寝れないわけがない。
それからエノの手料理を一口運び入れて――思わずフォークを口に突っ込んだまま、ノイバは停止する。
何やってんだお前、とでも言わんばかりに、ちょうど夜の見回りから帰ってきたユリグルがノイバをつつく。
説明するより実際に食べさせたほうが早いと思い、ノイバはスプーンでスクランブルエッグを一口分救って、エノのほうを凝視したままユリグルのほうに差し出す。ユリグルは不思議そうな顔をしてから、ノイバが持つスプーンのほうに首を伸ばしてそれを食べる。
「……!?」
ユリグルは思いっきり顔をしかめて、ノイバと同じように、皿洗いをするエノのほうを見つめた。
――エノが塩の分量を間違えている?
信じられないことだが、どうにもそういうことらしい。とてもじゃないがしょっぱくて食べれたもんじゃ無い。酒のつまみじゃないんだから、朝からこんな濃い味付けの飯をエノがなんらかの意図をもって提供するとは考えにくいし、そうだとしても一言、二言確認は取るはずだ。
「……エノが料理でミスするの、見たことあるか?」
隣にいるユリグルは、硬直しながら首から上だけを横に振る。
あり得ない。かつて騎士としての戦いの中で、魔獣が大量発生して多量の血肉を見た翌日にケロッとして、それでいてかつグロッキーになっていた同僚たちに配慮してしばらく肉を抜いてから徐々に量を増やしたりしてくれていたような奴だ。なんでもない日に塩を多めに入れて気づかないわけがない。
ノイバもユリグルも驚きが大きすぎて、エノの動きを観察することしかできない。そうしていると、なんかいつもよりソワソワして落ち着きがないように見えてくる。
「あ」
――ガッ、パリン!
それは錯覚ではなかったようで、エノが皿の一枚を手から滑らせて割るところを目撃する。ノイバもユリグルも、そして当のエノも、割れて大きな三枚といくつかの欠片になった残骸を見つめる。
目の前の光景が非現実的すぎて、多分エノ本人が一番受け入れられていないのだろう、「皿が割れた? 何故?」とでも言いそうな、純粋な疑問の顔をしている。
それからエノは短く「……失礼」と言って、どこから取り出しのだろうか、小さなほうきとちりとりを使ってササッと皿の破片を掃除する。例えばリザンテラがなにかをこぼした時はこんな感じで、気付けば掃除が終わっているのであるから、この仕草はいつもと変わりない。
しかしだからこそ、そのイレギュラーをエノ自身で作ったというのがにわかに信じがたくて、片付け中のエノを横目に、ノイバはユリグルとまた目を合わせる。
そしてエノがそれを捨てに行く後ろ姿を二人で見ながら、また問いかける。
「……エノが皿を割ったの、見たことあるか?」
ユリグルは首を小さく横に振る。
すると、エノはドアを開けることなく――そう、開けることなく、廊下に出ようとした。
ゴニュッ、と妙な音を立てて、エノはドアに激突する。
「……エノが扉を開け忘れるなんてことは?」
ユリグルは首を横に振る。
エノは今のどう考えてもあり得ない失態について特に触れることなく、廊下に出て曲がって――つまずいて、転んだ足が真横に伸びるところがドアフレームに納まるのだけ、二人からは見えた。
「……エノが何もないところでコケるのは?」
またユリグルは首を横に振った。
ノイバはこれまでにエノを心配した記憶がない。
いかなる時も冷静沈着、すべての場面を完璧に切り抜けてきた彼にそんな感情を抱いている暇は無かった。だから今、自分がエノを心配している状況が理解できず、心配を心配と認識できていなかった。
やがてエノが帰ってくると、二人は事情を聞く体勢に入る。
「……お前、どうした? 今日ずっとおかしいけど」
「いえ……話すことのほどでも……」
さすがに本調子でない自覚があるのか、素直に発言を受け入れるが、心ここにあらずといった感じで下を向いている。思ったより、重症だ。
ノイバは音混じりの鼻息を漏らすと、おもむろにエノの肩に手を置く。
「一応これでも隊長なんだ。頼ってくれると――あれだ、俺のメンツ的にも助かる」
「……」
ノイバの軽口に笑ってくれる気分でもないらしく、閉ざした口は重そうかと思ったが、エノ本人も自分の異常を自覚しているのだろう、存外早く話してくれる気になったらしい。
「……実は……」
そこで、ユリグルが一度待ったをかけた。
「立ち話もなんだし、場所を変えよう。気分転換だ」
朝飯がとても食べれたものではなかったノイバも、口直しにちょうどいいと同意した。
◇
「……というわけなんですが」
こんな時間から空いていた酒場のカウンターに座ってしょぼくれていたエノは、淡々と、なるべく主観の入らない形になるようにコムギとのやり取りを語った。
「うーん……」
それを彼を挟むように両隣に座ったノイバとユリグルの二人が聞き終えると、二人とも難しそうにうなった。
それからしばらくして沈黙が続く。といっても祭りの準備期間で人通りが多く、こんな時間だというのに酒を飲んでいる人間が少なくないため、店内は少し騒々しいぐらいに保たれているが。
「じゃあまず……その、言われたことに対して凹んでるってことでいいんだな?」
話し合いの開始地点の設定、という意味でノイバが確認を取ってきたが、エノはそもそもその前提に違和感を持ち、自分の中で考え込む。それから、なんとか自分の気持ちを言語化してみる。
「……そうでもないんです」
「なに?」
「むしろ、完璧だと思われていたことは、多分――嬉しいんです」
二人はあまり理解していないようなふうにエノを見てくるが、エノ自身も完全には理解できていないまま、話を続ける。言葉に出そうとしなければ具体化できない感情もある、と思ったからだ。
「僕は、騎士として常に完璧でありたいと思っていますから……」
「じゃあ、嬉しすぎて様子がおかしかったって?」
「いえ、それは違います」
一人でグビグビ酒を飲んでいるノイバの半分冗談のような発言を、エノはきっぱりと訂正する。
「……完璧であること――いえ、これは彼女が僕を完璧な存在だと見なしてくれていたことを前提にするのですが――完璧であることで、彼女を傷つけてしまったのがショック……というより、わからないのだと思います」
形のない糸くずのように散らばっていた思考が、まとまってくる感じがする。ただ、話しているうちにまたひとつ「わからない」が増えて、散らばる。
「わからない、ねぇ……」
「……常に気を張り失敗しないこと。最善を選択し続けること。これらは僕の根源たる精神であって、理想です。……単純に、昨晩の彼女とのやり取りが失敗だったのでしょうか」
ずっと隣で考え込んでいたユリグルだが、その思考を中断するような勢いで、エノのその発言は強く否定する。
「いーや、間違ってない。コムギとの関係を踏まえても、何らおかしいことは言ってない」
「……なら」
なぜ、というのは難しいものだとわかっていたから、エノは一瞬だけユリグルのほうに目をやって、それからまたコップの水面に視線を戻す。
「ただ、その場に置いてエノが完璧だったから、逆にダメだったんだと思う」
「……? どういう……」
その質問はユリグルにとってもまだ思案中の糸くずなのか、それからユリグルはしばらく考え込んだ。それから意を決したように彼女は話し出す。
「なんて言うのかな。自分に持ってないもの全部持ってて、自分にできないこと全部できる。それでいて性格もよくて自分を気にかけてくれる。そんな奴がいたとする。そんで自分が自分の不出来で落ち込んでる時に、ソイツが『話聞くよ』とか言ってきたら、どう思うかな」
「……」
「まあエノは自分より優れた人間に会ったことはないだろうけどさ」
「それは――」
「いや、言い過ぎじゃないね。だって私がそもそもエノより完成された人間に会ったことないから。……とにかく私は、自分にもっと力があれば、ってときにそういう状況になったら多少なりともイラッときちゃうかもしれないな。だから多分、コムギも似たようなことで悩んでたんじゃないかなって思う」
そこまで話して、ユリグルは一度口に含むように水を飲んだ。
「誤解してほしくないんだが、エノの騎士道は否定していないよ。むしろ、エノが完璧でありたいっていうのは、私は凄いと思う。実際なんでもそつなくこなすしな」
ユリグルは赤い髪を垂らしながら、横にいるエノの顔を覗き込むように念押しする。それに気づいたエノは顔をあげ、彼女と目を合わせる。
「ただ、――完璧じゃない時間を少しでも共有できれば、相手ももっと理解してくれるだろうよ」
その顔がどことなく寂しげで、エノははっとして目を丸くする。その言葉を追うように、すでに赤くなり始めているノイバも、酒を飲む口を拭いながら笑ってこう言う。
「その相手ってのは、例えば――何度も一緒に戦ってきた同僚の騎士でも良いしな」
「同感だ」
これまで、一切のミスを自分に許さずにやってきたエノにとって、それは一種の気づきだった。
彼らに心を許していなかったわけではない。いやむしろ、エノは彼らを、騎士隊のメンバーという枠組みを超えた戦友のように思っていた。だからこそ、大切な彼らの前では常に完璧でありたいと思っていた。自分の中の理想を追い求めると同時に、その理想を具現化し、彼らに提示することがリスペクトなのだと思っていた。
だけど、彼らはどうだっただろう。一切の隙を見せない自分のことを、果たして同じように友として感じてくれていたのだろうか。いや、そうだからわざわざ自分の相談に乗ってくれているということはわかっている。長年の付き合いで、それはそういうものなのだと半分諦めのように受け入れてくれていた部分もあったのだろう。
でも、あの人はそうじゃない。長い人生の中で見れば、まだ会って間もない彼女にとって、自分はどう映っていただろうか。軽薄な人間に、見えていなかっただろうか。
エノの中の糸は再びぐちゃぐちゃになった。だけども不思議と悪い心地はしなかった。端と端を、両隣の二人がしっかり持って待っていてくれるのが伝わってきたからだ。
「――そうですね。そうすることにします」
エノは少しだけ目を細めて、自然と笑みをこぼした。
それから両隣の二人もつられてフッと笑う。今までにこういう会話がなかったわけじゃない。ただ、これまでとは明確になにかが違う、核心が動いた雰囲気は三者三様に感じ取ったのだろう。
そんな雰囲気に包まれていると、ノイバが両手を大きく広げて背もたれに思いっきりのけぞって伸びをした。
「しっかしアレだなぁ、なんか負けたって感じがするなぁ〜!」
「……?」
急にそんなことを言い出したノイバに、エノはその真意を問うように見つめる。だが、その無言の問いに答えたのは左隣のユリグルのほうであった。
「十数年来の仲でも相談ごとなんか一つもしなかったエノが、惚れた女に調子崩されて悔しいんだろうよ」
「ほっとけ」
ノイバは不貞腐れたように、でもどこか嬉しそうな表情で、また酒を音を立てて喉に通した。
「しかし凄いな、あの子は。エノを骨抜きにしてしまうなんて」
「エノに負けず劣らずしっかり者だもんなぁ。そりゃこの街でこんだけ愛されてるわけだ」
もはや名家のエリートとしての品格など微塵も感じられないぐらいの、酒焼けしてしゃがれた声でノイバはユリグルにそう返す。すると、そこで。
「惚れ……僕は彼女に惚れている、のでしょうか」
エノがぽつりとそう呟くと、二人は飲み物を飲む手を止めてエノのほうを見つめる。何を言っているんだコイツは、と考えているのが丸わかりな表情で、しかし茶化すでもなく、ただ黙って言葉の続きを待った。
「正直、まだよくわかっていません。なにぶん、今まで剣に打ち込んでいて人並みの交際経験がありませんから……」
ユリグルとノイバは二人、横目で視線を合わせる。二人は声に出さずとも、なんとなく、考えていること、エノについてどう感じているかが一致している感じがした。
「確かに、完璧でありたいと思う気持ちが彼女の前で特に強まっていたことは否めません」
「ああ、さっきも言ってたなそんなこと」
「ですから、これが恋なのかどうか自分では、恥ずかしながらわかりません」
それからエノは「ただ」と前置きして、まっすぐな瞳で、どこかここにはないなにかを見つめてこう言った。
「ただこれが――恋というものであってほしいと、そう思います」
その言葉を聞いて、ノイバは自然と――本当に自覚が遅れるぐらいに自然と、エノの頭をわしゃわしゃと撫でていた。
父性や母性というものなのだろうか、いや歳もそこまで大きくは離れていないのだが、ノイバはこの瞬間確かにエノを愛しい、いじらしいと感じた。多分それはユリグルも同じだったらしく、ほぼ同タイミングでエノの頭に手をやっていた。
「???」
精神的に成熟している分、普段は保護者のような立ち回りをすることが多いエノにとってそれはまさに未知の経験なのだろう、撫でられるまま可愛がられるまま、視線が両隣を行ったり来たりして困惑していた。
れっきとした人間である彼にこんなことを思うのは失礼だと思いながらも、その光景が人慣れしていないおとなしい猫が撫でられる様にそっくりで――多分彼がヒトであってもまったく同じ感想を抱いていたと思う――二人は思わず口元を押さえて笑い出した。
やがてノイバが手を挙げて、店主に「もう一杯!」と要求する。それにユリグルが「飲みすぎないように、な」と睨みをきかせる。エノはその横で、くすりと静かに笑う。
なんらいつもと変わらない、ありふれた日常の一場面に戻っていく。ただそれでも、これまでの関係とは少しだけ違うのを、変わったのを感じていた。ただ一人の少女をきっかけに、隊の古株三人の間で見えない、しかし確実に存在していた壁が瓦解するのを、穏やかな気持ちで実感していた。




