15話 不幸は一続きのすれ違い
この日、アズキは服飾の納品のために服屋に向かっていた。
服を作るのは好きだ。一着作るのに何日もかけて、それが一つの作品として完成する工程は何事にも替えがたい喜びがある。それを誰よりも間近で確認できるのは、特権である。
顔見知り、といっても長く住んでいればこの街の人は大抵知り合いに該当するから、道行く人には挨拶をする。アズキは姉よりもずっと控えめな性格だったから元気よく、とはいかないが、見えてしまう以上は無視するわけにもいかないので、静かな声で挨拶をする。
「おはようございます」
聞こえていないなら聞こえていないで別に良いのだが、この街の人は優しい人が多いからか、多くの場合は拾ってくれる。だけどもやっぱり、そのぐらいの距離感の人たちに声をかけるのは時々苦しい。
「……ああ、コムギちゃんの! おはよう!」
慣れたつもりではいても、言われるたびにちくりとどこかが痛む。悪い人たちではないことはわかっている。姉が人気者で有名人で、他方自分がそうでなく顔も狭いことも、わかっている。
それでも「コムギの妹」として扱われることは、アズキにとって――多感なこの時期には特に――モヤモヤすることが多くなっていた。
姉は祭りに向けた新商品の開発に熱中していたとかで、それもあってか最近は特に姉に縁のある人間から声をかけられることが増えた。
「あっアズキちゃん! ちょうどよかった、コムギちゃんに伝えておいてほしいんだけど……」例えば、パン屋の客からの伝言。
「コムギちゃんが助けてくれてねぇ、この間は本当に……」例えば、姉の人助けに対する感謝。
「コムギちゃん忙しそうだよね」例えば、単に姉の話題を。
アズキは姉のことは嫌いではなかった。むしろアズキのことをよく考えてくれていて、食の好みも覚えてくれているし、昔から相談事にも乗ってもらっていて、妹から見て素晴らしい人格者だと思っている。
だから、そんな姉を見て劣等感を覚える自分が嫌いだった。
慣れたつもりで振る舞っていても、それはしかし確実にアズキの心を弱らせていった。だから今日そういう声のかけられ方が多かったことは、単なるきっかけに過ぎなかったのだと思う。
「どうですか」
店長に家で完成させた服を見せる。祭りに際し、初めて自分でデザインから考え、数週間に渡って試行錯誤を繰り返したロングドレスだ。
正直かなりの自信があった。
店長は普段は温和な人間だが、服に関しての審美眼が鋭く、妥協しない。そんな彼を唸らせる自信が、今回に関してはあったのだ。
「……うん、いいんじゃない。全体としての色彩がバランス取れてるし、かつ踊ったりしても動きやすそうだから、祭りにぴったりだと思うよ」
ああ、よかった。頑張ってよかったと、心の底から思う。
彼は服のひとつひとつを丁寧に見てくれる。作り手の価値観や素材の使われ方まで、念入りにチェックしてレビューしてくれる。だからこそ作り甲斐があるし、この人に認められれば一人前だと胸を張って言えるのだ。一つ、自分の殻を破ることができた気がする。
長い期間を経て報われたんだと、そう思った時――それは打ち砕かれることになる。
「細部までこだわられてて――やっぱりコムギちゃんに似て器用だよね、君は」
店長が優しい人間であることはわかっていた。
人間として尊敬できるところもたくさんある。誰にでも柔らかい語り口で、かつ仕事には妥協せず時には厳しい。理想の大人、師匠のように思っていた。
その言葉に言外の意味なんかないこともわかっている。
わかっているつもりだった。いつもならよくあることだと、気にも留めず受け流せているはずだった。とにかく今日は、最近は、重なりすぎていたのだ。
「……はい」
アズキはとびきり下手くそな笑顔でそう答える。多分笑顔にすらなっていない、引き攣った不気味な表情。見られたくなくて、下を向く。
――ああ、私はお姉ちゃんの妹という形でしか評価されないのか。
――お姉ちゃんが何々だから、私も何々、なのか。
――いいな、お姉ちゃんは一人で評価してもらえて。
――私も私のままでいたいのに。
空が曇って、雨が降りそうだ。
あるいはずっと曇りだったことに――今になってようやく、気づいたのかもしれない。
◇
魔法の窯が壊れ、一時店を閉めざるを得なかったものの、コムギはなんとか昼から午後にかけての激動の時間を乗り切った。
ただし母がいないため、一人で店を回さねばならず、コムギの体力は途中で底を尽き、あとは気力を振り絞って夜を迎えた。
コムギの頭痛や倦怠感も、きっと安静にしていれば平気なものになるはずだったのだろうが、体を酷使したせいで途中からマグワートの魔法の効果も虚しく、意識朦朧とした状態でせざるを得なかった。
とはいえ、明日もこの調子ではどう足掻いても体に限界が来る。
そこで明日は臨時休業と客たちに伝えておいた。客たちの残念そうな顔を見て、またコムギも悲しくなったが、気持ちを優先して自己管理ができなくなっては本末転倒である。母のいない今、明確に自分一人が店を背負っているからこそ、無理はできない。
「……ふーっ。キツいな……」
またクラッとして、自宅の台所で両手をつく。
まだ握力が残っていてよかったと思う。しっかり支えられないほどの疲労が腕にも及んでいたら、このまま顔面からシチューに突っ込んでいるところだったからだ。
「……ただいま」
やがてシチューが出来上がり、アズキも帰ってきた。
アズキがなんだか浮かない顔をしていたから、二階にいるダイズを呼ぶ前に、二人で話そうと、向かい合って席に座る。
「……どうしたの?」
いつもなら勢いよく、とまではいかないが、座ったらすぐに食べ始めるぐらいには気持ちよく食べてくれるアズキが黙ったまま動かないから、心配になって声をかける。
「……ごめん、食欲あんまりない。もう寝るね」
そう言って席を立とうとするアズキを、コムギは慌てて引き止める。
「待って、食欲ないって、体調悪いの? お母さんの風邪が移ったのかも。いつから?」
すると、アズキはコムギの手を振り払う。
「……大丈夫だから。なんでもない」
帰ってきてからずっと、アズキに対してなにか違和感のような不安を覚えていたコムギは、さすがに気になって「でも……」と続けようとする。
「――なんでもないって言ってるでしょ!!」
ただでさえ痛む頭に、キーンと部屋中に鳴り響く甲高い声が突き刺さる。
コムギは混乱した。いったい彼女になにがあったのか。アズキが激昂することなんて、平時静かなことも相まって、一定年齢を超えてから一回も無かった。
衝突が無かったのは、コムギがつねにそれを避けるように譲ってきたからかもしれない。
ただ、その隙すら与えずに彼女が不機嫌にあたることなんて一回も無かった。そもそも彼女はおとなしい以前に温和な人間である、とコムギは認識していた。
気まずい沈黙の中に、彼女の声で目が覚めた愛犬のマメの、トトトトという歩行音とヘッヘッという呼吸音だけが響く。とにかく、コムギはこの空気を打開したくて、困った表情のまま口をゆるめて開く。
「……ごめんね」
これがよくなかったのか、アズキの顔はますます曇り、午後の雨空のようになった。それからアズキはきゅっと唇を結んでから、泣きそうな声で言い放つ。
「――いいよね、お姉ちゃんは。なにも我慢しなくても、そのままでいても、愛してもらえて」
「……っ!」
目の前にいる少女が最愛の妹であることも忘れて思わず反論を飛ばしてしまいそうになって、すんでのところで押さえ込む。
――どういう意味だろうか。
なにを伝えたいのだろう。
我慢していない? そのままでいる? そんなはずがない。慣れっこになってしまっただけで、あの時もあの時もあの時も、本当はどの譲った瞬間の胸の切なさも覚えている。はっきりと思い出せる。代わりのきかないぬいぐるみ、宝石の入ったペンダント、残り一足だったブーツ、泥だらけになったお気に入りの服、初恋。相手が誰であれ、コムギは常に譲る側であった。我慢する側であった。
しかしそれをアズキにぶつけられなかったのは、それらを選択したのは自分自身であるという自覚があったからだ。結局のところ、自分を後回しにして、後回しにして――幼馴染にいらぬ心配をかけさせてきたのは自分だから。
アズキに、私はどう映っていたのだろうか。彼女が言ったように映っているのだったら、それは違うと言ってやりたいのが本音だった。
ただ、それで彼女を傷つけてしまうかもしれないのなら――やはり、ここでも私は我慢しなければならない。爆発してはならない。ぶつけてはならない。アズキの、姉として。
「――ごめん」
コムギは精一杯感情を抑えて、困ったような声でぽつりとつぶやいた。
「なんで……ッ」
どう言えば正解だったのだろうか。いや、アズキが話そうとしていない以上、なにを言ってもダメだったのかもしれない。『なんで』の後を聞くことは叶わず、アズキは二階へと上がっていった。
◇
アズキを追いかける気にもなれず、一階に取り残されたコムギが座っていると、マメが寄り添うように足元で舌を出している。
「はぁーっ……」
そのまま眠りこけないように気をつけつつ、腕を枕にして机に突っ伏して大きくため息をつく。
厄日、というものが存在するのならそれは間違いなく今日であろう。頭痛と全身の倦怠感にさいなまれた朝、唾とともに汚言を吐き捨てた迷惑客、風邪で倒れてしまった母、祭りを目前にして壊れてしまった魔法の窯。――ああ、そうだ。
コムギは振り返っていて思い出したが、魔法の窯とクラゲパンの問題はまだなにも解決していないんだった。どの方向性でいくかの判断もまだ下していない。どうしよう、どうしよう、どうしよう。そんな時に起こった、妹との不和。
(最悪だ……)
そもそも、なんなんだ今日は。こんなにやたらめったら不幸なことばかりが起きて。不幸が不幸を呼んでいるのだとしたら、歯止めがきかないじゃないか。
『――いいよね、お姉ちゃんは。なにも我慢しなくても、そのままでいても、愛してもらえて』
『若くて愛想振り撒いてるから儲かってるだけだろ?』
『よかったな、困ってりゃ誰かが助けてくれるカタチしててよ』
ああ、ダメだ。本当にダメだ。全部がイライラする。誰の言葉のひとつも、何気ない音も、空気も、全部が癇に障ってしまう。一日にストレスが降りかかりすぎた。
コムギは机を指の骨でコンコンコンコン鳴らして気を紛らわせる。ものに当たる気力も残ってない。今日のところは早く寝よう。でも先にダイズにご飯を食べさせて、それから――
それは、また新しく苛立ちの種が増え始めた矢先だった。
ドアをコンコンとノックする音が聞こえた。ベーカリーを営んでいると、たまに差し入れで具材を持ってきてくれる人がいる。こんな夜だし、それかもしれない、とコムギは力なく立ち上がってふらふらしながらドアを開けにいく。
しかし雨が降っているのに、そんな律儀な人はいたかなぁ。普段だったら誰が来たのか確認の一つでもするのだが、とにかく疲労困憊だったコムギは特に気にすることなくドアを開けた。
この頃の街のことを思えば、もし荒くれ者でも出たら、ということを意識すべきなのだが、ドアを開けてすぐその憂慮は必要なかったことを知る。もっとも、コムギにとっては別の意味で、もう少し考えてから、ドアを開けるべきだったのだが。
「――わっ、エノさん!?」
「夜分にすみません。お店のほうが閉まっていたので……」
二人は軽くお辞儀をすると、コムギは玄関に彼を招き入れる。傘はさしていないようだが、雨に濡れた様子は無い。ぱらぱらと音が聞こえるが、雨足は強くないのかもしれない。それからコムギは、疲れすぎて途中から乱れていた髪を直してもいなかったことに気づいて、エノに背を向けて手櫛で軽く整える。
なぜだろう、好きな人と会えたはずなのに――素直に嬉しいと思えない。
多分、余裕がないんだ。恋にドキドキしてる暇がないぐらい今は疲れている。それから、今の状態――精神的にも肉体的にも――で彼と顔を合わせたくない。疲弊しきった自分を、見せたくない。
「お母様のこと、マグワートくんから聞きました」
「あっ……そうでしたか。ご心配おかけしました。今は結構よくなってて……あっ、そうだ。それで、明日は朝からお店を休みにします」
ということはつまり、朝二人で仕込みの作業をする時間もなくなるというわけだ。祭りまで残り数日しかないうちの貴重な一回を、と惜しい気持ちはあったが、今の状況では懸命な判断、とコムギは自分に言い聞かせる。
エノは「そうですか」と残念そうな顔をする。ああ、どうしてだろう。いつもなら嬉しいと思えるはずなのに、今日はまったくそんな気分になれない。
残念なのは私だって同じだ。残念に決まってる。私だってこんな決断したくてしたわけじゃない、と段々思考が感情に支配される感触が、コムギには生ぬるくて気持ち悪かった。
「わざわざ母の見舞いに来てくれたんですか」
そんな気を紛らわせようとなにか言葉を発する。だけど多分、精神状態が著しく悪いせいで、自分の言い方に棘があるように思い込んでしまう。
わざわざ、なんて言わなきゃよかった。エノさんが店のことを考えてくれるのは確かに嬉しいはずなのに、こんな言い方じゃ気を悪くしてしまうかも。と、出した言葉にも、それによる余計な思考にも、イライラする。
いつまでも後ろを向いているのも奇妙であるから、コムギは言葉の最中にエノのほうを向く。あんまり見ないでほしい。今、やつれてないかな。顔は青白くなってないかな。あなたに見られるならもっと元気な時がいい。そんなことばかり考えて、目が合わせられない。
「それも、あるんですが……」
エノはなにか言いかけてやめて、一度コムギをじっと見る。だから、今は見ないでほしいのに。
「それより……コムギさん、なにかありましたか。体調も優れていないように見受けられます」
ああ、やっぱりバレている。普段からよく人のことを気にかけてくれる彼のことだ、体調や感情の機微にも細やかな配慮ができるのだろう。それが今は苦しかった。弱い自分を、弱っている自分をこれ以上見ないでほしい。
「それとももしなにか、悩みごとがあるのであれば――僕でよければ聞かせてくれませんか」
エノはひどく優しい声で、心から心配するような声でそう言った。
優しいな。忙しいだろうに、わざわざ夜に家まで来てくれて、こんな自分を気にかけてくれて、気遣いもしてくれて、本当に彼は――
――ぷつっ。
コムギの中でなにかが弾ける音がする。恋に落ちるような軽快な音ではなく、肉が爆ぜるような断裂音。
多分、ただ本当に、今だっただけだ。運が悪かった。
今、運悪く、あふれてしまった。
「……エノさんに」
自分で自分が止められない。口は、言葉はときに簡単にすべてを破壊してしまう。誰にでも扱える、世界一無責任な殺傷道具である。
「――いつも完璧なエノさんに、私の悩みなんてわかるはずないじゃないですか」
――言ってしまった。
言ってしまってから慌てて口を塞ぐ。強く塞ぐ。私じゃなくてこの口が悪いのだと、痛みを通して訴えるように。
でも、不意にこぼれ落ちた以上は、いやむしろ不意に出たからこそ、口よりももっと奥底で眠っていた本心なんだろうと自覚するのが、怖かった。
「っ! すみません今のは――」
ワンテンポ遅れて、目線を恐る恐る上げてエノのほうを見る。わずかに角度を上げるだけの動作が無限に感じられる。
――彼は存外、ほとんどが驚きで満ちた顔をしていた。悲しみとか怒りとかではなく、本当に驚いていて。彼がたびたび何かに驚くことはあったが、大抵目を丸くするぐらいだった。今は、まんまるの目を開いて、口も下側に半分開いて立ち尽くしていた。
「今のは……っ」
「……すみません」
違う、エノが悪いわけじゃない。謝ってほしいわけでもない。でも言葉が上手く出てこない。感情的になりすぎて、これ以上喋ったら多分涙が出てしまう。悲しいからじゃない。気持ちが昂っただけで、多分泣いてしまう。
それだけは嫌だ。彼に嫌な言葉をぶつけておいて泣くなんて、そんな不恰好な人間になりたくない、と思ったコムギは一旦黙り込む。それからくるりと後ろを向いて、悟られないように冷静に話す。
「……今日、色々あって、余裕なくて、すみません。一人になりたいです。頭冷やします」
自分でも説明が下手すぎると思う。だけどたくさん喋るとまた変なこと言いかねないし、何より声がうわずってしまう。だからこれ以上の言葉を選べなかった。
「……わかりました。失礼します」
コムギの様子がおかしいことはエノも察しているのだろう。いやそうであると思わなければ、気が狂ってしまいそうなぐらい申し訳なさでいっぱいなのだが、とにかくエノはそれ以上深く追及したりはせずに、玄関を出る。
「……おやすみなさい」
「……おやすみ、なさい」
最後に最低限の挨拶だけ交わして、パタンと戸が閉じる。
途端に、コムギは床にうずくまる。
――やってしまった。
いくらでも不満を露わにするタイミングはあったのかもしれない。だけどもコムギはそれを見つけることができなかった。
迷惑客に酷いことをされた時、あれ以上のトラブルが起こるかもしれなくても強く怒鳴るべきだったのか? 母が倒れた時、自己管理の甘さでも彼女に指摘するべきだったのか? 魔法の窯が壊れた時、他の器材に八つ当たりでもするべきだったのか? アズキに理不尽に言葉をぶつけられた時、幼い彼女に本音を叩きつけることができたのか?
そのどれも、コムギには選択することができなかった。だから結果として――選択の猶予も与えられずに、そのどれよりも選びたくない結果を引き受けてしまった。溜めに溜めたストレスは袋いっぱいに満ち、たった一言、いつも完璧な彼の言葉への、ほんの少しの苛立ちをきっかけに、一気に崩壊した。
だから、ただのきっかけだった。
「最悪だ……」
コムギは髪と顔を同時に抑えながら、床に座り込んでただ下を向いた。
自分を後回しに後回しに生きた結果、もっとも傷つけたくない人を傷つけてしまった。傷つける姿を彼に見られてしまった。数ある「もしあの時こうしていれば」の中で最悪を引いたことは明らかだった。そしてその原因が明確に自分にあるとわかっているから、ますます最悪の気分だった。
涙が一粒になる前に、目尻から手のひら、手のひらから腕に伝って、膝から滴り落ちる。マメが近寄ってきてペロペロと腕を舐める。皿に盛り並べたシチューの湯気はすでに消えていた。
だからコムギは知り得なかった。
ドアの外で一人、カバンの中に大事にしまったまま渡せなかった白いハンカチのことを考えながら――雨雲を見上げるエノの姿を。
雨はざあざあと、夜通し降り続けた。
なにも洗い流してなんて、くれない。




