13話 今日は災いの多い日
――時を戻すこと、エノとグレフが個人的な特訓に励む日の朝。
それまでの数日はマスカも家業で忙しく、コムギは特に大きなイベントもなく過ごした。朝エノと会話をする時もコムギの脳内では、取り付けた約束がリズミカルに跳ね回っているのだった。
気づけばセンバ祭までちょうど残り一週間となっていた。とはいえコムギベーカリーはすでに割り当てられたタスクをこなしているから、残りは当日の段取りを日々確認するぐらいであり、特に変わりのない毎日を送っていた。
「っ! ……ふーっ」
コムギはずきんと痛む頭を押さえて、壁に一度寄りかかる。
今日は朝から体調がすぐれない。かといってまったく動けないわけでもない。全身の動きが一段階引き下げられるような、でも頑張れば動けるような、こういう倦怠感が一番めんどくさいのであると思いつつ、着々と開店の準備をする。
接客が始まってからも漠然とした体調の悪さは続く。だけども決して笑みを絶やさず、店で食べる人にも持ち帰ってくれる人にも、良い気持ちで食べてもらえるよう全力で接客を続ける。
途中、見慣れない二人の男性客が話しながら来店した。コムギが見慣れないということは、おそらく旅人か行商人であろう。
「いらっしゃいませ〜!」
体調の悪さからくる嫌な冷や汗をぬぐいつつ、いつもとまったく変わらない声の調子で挨拶する。
すると、二人はコムギを一切見ることもなく、店内の椅子に座ると大声で話の続きを始める。大きなほうは酔っているのだろうか? 顔が見てわかるぐらい赤くなっている。
とはいえ、こういう客を相手するのは慣れている……というほどではないが、経験はある。コムギは口角を上げて自然な笑みを今一度作り直し、メニュー表を持って話しかける。
「ごゆっくりどうぞ〜」
そのままコムギがカウンターに戻ろうとすると――メニュー表を置いた手をがっちり掴まれる。
こういうのはたいてい一瞬なにが起こったのかわからないものだが、コムギの肌に男の大きな手の感触がはっきり伝わってしまって、否が応でも理解してしまう。
「……ってことで俺ら今暇しててさぁ!」
普段なら客の細かな会話も聞き逃さないように気を張っているのだが、今日はいかんせん体調が優れないことと、態度の悪い客の声を無意識のうちにシャットアウトしていたから、なにが『ってことで』なのかわからないままコムギは振り向く。振り向く以外の選択肢が、無いようだったから。
「はい……?」
「若い女の子探してたんだけどよォ〜、この街爺さん婆さんばっかりで困ってたんだわ。ちょっとでいいから遊ぼうよ」
コムギはそれを聞きながらゆっくり距離を取ろうとしていたが、男は言い終わるあたりで腕を強く引っ張ってきて、コムギは思わず「いた……」と声を漏らす。
「え? これで? さすがに痛くなくね? なあ」
男はケラケラ笑いながらもう一人の小柄な男に同意を求めると、そっちも同調するように笑い始める。
――ああ、この忙しくなる時間に、いったいなんなんだ。決して表出しないようにはするが、さすがのコムギもイライラしていた。男たちというよりかは、このめんどくさい状況に対して。
店内では、子連れの母親が子と一緒に心配そうにコムギを見ている。どうか彼女たちが巻き込まれませんように、と思っていると、男はさらに強い力でコムギを引っ張る。
男の手の脂と、男のだか自分のだかわからないじっとりとした汗、それから男の手に対してコムギの腕が細いことも相まって、コムギが反射的に腕を引っ込めるとするりと抜ける。
「あの、他のお客様もいるので……」
良い機会だと思ってコムギがそう告げると、男は笑いながら立ち上がって――一番近いところにあった商品テーブルのパンに向かって、唾を吐いた。
「は……」
「んだテメェ、した手に出てやってりゃつけ上がりやがって」
自分がぶん殴られるとかよりもよっぽどショックな出来事を前にしてコムギが固まっていると、男はだんだ逆上してきたのか、メニュー表をはたき落とす。
「お前みたいな奴は若さと従順さぐらいしか可愛いとこねぇんだから、素直に言うこと聞けよ。若くて愛想振り撒いてるから儲かってるだけだろ? この店もよォ」
――この街で生まれて、生まれた時からずっと愛されてきて、神聖なこの店の中でそんなことを言われたことがなかったコムギは上手く言葉を返せなかった。
なんなんだ、この人たちは。機嫌が悪いのか? 酔っているからか? どうして会ったばかりの他人に対してそんな言葉を言えるのか。私の何を知っているというんだ。
色々言ってやりたいことがあるはずなのに、言葉が出てこない。コムギは悪意にまみれるのに慣れていないのと同時に、向けられた悪意に怒るという作業に慣れていなかった。
「ほら来いって」
男に肩を掴まれる。コムギから見ればずいぶんな大男に見えたが、不思議と恐怖はやってこない。ありえない光景と罵詈雑言に放心状態であったことと、午前中だというのに、体調不良のせいか疲労が一日が終わった時ぐらい溜まっていること。言い返したり抵抗したりする気力が無い。
どこか夢見心地で――いや、もしかしたらこれは夢なんじゃないか? だとしたらなんて目覚めの悪い夢なんだ。
そんなふうにぐちゃぐちゃの思考の中、コムギの肩を掴む手が緩まる。緩んで初めて、痛かったことに気づく。
「……なんだお前」
「――いや、彼女嫌がってますよね」
見れば、とある少年が男の大きな手を、その強靭そうとは言えない手で掴んでいるのだった。
コムギが彼を見るのは初めてではなかった。エノが話す内容にたまに登場していたり、リザンテラと一緒に歩いているところを街で見たり。
ただ、逆に言えばそれぐらいの関係――関係といえるかどうかも怪しいが――であり、店に姿を現したのは、初日にエノたちと一緒に食べにきた時以来である。
「かっこつけんなって」
ますます怒りに支配された男は、少年の手を強く振り払う。おかげでコムギは解放されたのだが、状況は依然として悪いままだ。
すると、少年は胸襟を開くような仕草で、葉の模様が書かれたバッジあるいは勲章のようなものを、男に見せつける。男はぽかんとするが、小柄な男のほうはそれにピンときたのか、苦虫を噛み潰したような顔をして男にささやく。
「――あれ騎士団員のバッジですよ!」
「あァッ?」
「流石にやばいですって」
小柄な男は、今にも殴りかからんとする男を決死の表情で止めながらまだごにょごにょなにかを男に伝えている。
「……チッ」
男は諭されたのかあるいは酔いが覚めてきたのか、あけすけに舌打ちしてドアを蹴り飛ばして出ていった。去り際に「潰れちまえこんなボロ小屋」と、なおも機嫌が悪そうに吐き捨てていった。
小柄な男のほうも、「よかったな、困ってりゃ誰かが助けてくれるカタチしててよ」と好き放題言っていた。それは単に美醜や立場に対する悪態というよりも、生き様に対する不満のように思えた。
「……ったく」
少年は心底不快そうに彼らの後ろ姿を睨みつけて、ため息を吐く。
「人増えるとああいうのも出てきて大変っすね」
「あっあの、ありがとうございます。助けていただいて……えっと、マグワートさん」
正直まだ放心していたが、助けてくれた彼に対する礼は早いうちに行いたくて、コムギは記憶から名前を引っ張り出しつつ、深々とお辞儀をする。
すると彼は片手を顔の前でひらひらと振って、むしろ申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「あ、俺のことわかるんですね。じゃあもしかしたら知ってるかもすけど……俺べつに騎士じゃないんで、そんな畏まらなくて大丈夫ですよ」
「そういうわけには……」
「いやむしろ、俺が戦えないせいで……あんなやり方しかできなくてすみません」
しかしあの対応は、この場においては最適解だったような気もする。確かに商品はいくつかダメにされてしまったが、厄介者は追い払えたし、暴力が発生したわけでもない。
マグワートは目にかかるぐらいの焦茶の髪をかきながら平謝りし、その謙虚さにあてられてコムギももう一度お辞儀をしておいた。
切り替えて、コムギが袋に先ほど被害にあったパンたちを詰めていく。するとマグワートはそれを見て、ぽつりとつぶやく。
「やっぱ廃棄すか」
「そう、ですね……流石に。気持ちのいいものでも無いですから……」
コムギの悲しそうな顔――実際、自分が傷つけられるよりも真心込めて作ったパンが台無しにされるほうが精神的に苦しいのだが――をしているのを見かねてか、マグワートは硬貨の入った袋をカウンターに置いた。金属の擦れる音が、かちゃり。
「俺その分払いますよ」
「へっ? いやいや、それはいくらなんでも……」
「あー、まあ、知り合いがお世話になってるみたいなので」
どきりとする。妙な濁し方だが、エノのことだろうか? そもそも彼はエノとコムギのことをどれぐらい知っているのだろう。おそらくノイバやユリグルほどエノと親しい間柄ではないはずだが。
「とにかく、俺がこうしたいだけなんで受け取ってください」
いやいや、と今度は二人の間と押し問答が生じそうになっている時だった。
――カラン。ガッ、ドン。ゴロゴロ。
なにかが転げ落ちる音と、ずっしりとなにかが倒れる重い音。それからまたなにかが落ちる音。
厨房のほうから聞こえたそれは、店内にいても聞こえてくるぐらい痛々しい音に思えて、二人は同時に手を止める。
「すみません、ちょっと」
なんだか嫌な予感がして、コムギはマグワートにその場で待つようにお願いした後、駆け足で厨房の様子を見にいく。
――そこには苦しそうな表情で床に倒れ込む母の姿があるのだった。
「え、お母さん!? お母さん大丈夫!?」
体を揺すって起こそうとする。ぐったりはしているものの「うん、ちょっと……」と舌足らずに反応することはでき、意識はあるようだ。服越しでも伝わるぐらい体が熱を帯びていた。
ひとまず彼女を寝かせられる場所に移動させようと考えを巡らせていたとき、人影がコムギと母にさす。
「――運びますね」
「え」
マグワートはコムギの声に寄せられてやってきたのだろうか、そう言うと慣れた手つきでコムギの母をおぶる姿勢にスムーズに移行する。
「すみません勝手に厨房入っちゃって。……あとは任せてください」
彼はさくさくと歩いて外に出ようとするので、流されるまま、コムギはドアを開ける。
正直身内のことで彼にそこまで迷惑をかけるのは憚られたが、今はそんなことを気にしている余裕がないぐらい切羽詰まった状況である。母を運ぶのにコムギより力はあるはずの男手を借りられるのはありがたい。
そしてなにより、こうして悩む間に、マグワートの職業を思い出したから。
「――俺、一応治癒術師なんで、なんとかしますよ」
彼の真剣な顔は、困りきったコムギにとても頼もしく輝いた。




