10話 マスカは勝気な幼馴染
ちょうどコムギの妹のアズキがやんちゃ盛りだった頃――今のおとなしいアズキから逆算すると本当に信じられないぐらいに元気だったのだが――アズキが、コムギの大事なぬいぐるみを原型がとどまらないぐらいに引き裂いたことがあった。
その時、ちょうど母はパン屋の仕事で大忙しの時期だった。今新品を願えば、ただでさえ忙しい母の手をわずらわせて不幸にしてしまう、と思ったコムギは、自分のことを後回しにする、自分の優先順位を下げるという形の我慢を覚えてしまった。
それから多くの自己犠牲を経たコムギだったが、それを決定的なものにしたのはコムギが八歳の時だった。
当時すでに街の看板娘としての才覚をあらわし始めていたコムギは、旅人から人助けのお礼として美しい宝石を貰った。
報告すると母は喜び、装飾を施してペンダントにしてくれた。コムギが鼻の高い気持ちでそれを付けていると、アズキはそれを欲しがった。
コムギは流石に少しだけ抵抗したが、ぐずって泣きそうな気配を感じて、それをアズキに渡してしまった。
アズキは今でもそのペンダントを大事に身につけているから、今となってはいい思い出だ、と当のコムギ自身は納得しているものの、その顛末を幼馴染として間近で見ていたマスカは、そんなコムギを見ていられない、と今回みたいに世話を焼いてくれることが多くなった。
「私、コムギの優しいところ大好きだけど……優しすぎるところはちょっとだけ嫌いよ」
それからマスカは人差し指を突きつける。
「好きな人譲るなんてありえないの! わかる?」
「……だって、マスカには幸せになってほしいし」
「いや、それは……うー、ありがとうなんだけど、違くて」
マスカは調子を崩されるものの、一旦咳払いをしてコムギのおでこに指を突きつけ、目と目を合わせて真剣に言う。
「――初恋は譲っちゃダメだよ、絶対」
彼女の瞳から、声から、表情から、本気でコムギのことを思ってくれているのが伝わる。だから彼女が突きつけた指に触れて、そっと下ろし、両手で包むように握る。
さらさらの肌に料理でできたたこや傷跡が時々あって、コムギが譲ってくるたびにいつも握ってくれていた、ひんやりしていて温かい手だ。
「……うん、わかった」
「ほんとに?」
「本当に」
「よし」
短く確かめ合った後、マスカはコムギの髪を両手でわしゃわしゃと優しく撫でる。コムギはケラケラ笑って、それから悩みを打ち明ける。
「でもやっぱり、これ以上どうすればいいのかわからなくて……ううん、わからないっていうか、勇気がないだけかも、しれないんだけど……」
ぽつぽつと話す彼女に、マスカはしばし口元に手を当てて考え込んで、それからなにかを閃いて、腰に手を当てる。
「私に任せて。――いい考えがあるわ」
そう言ってマスカは、不敵な――コムギにしてみれば、とっても頼り甲斐のある――笑みを浮かべた。
◇
翌日の朝は何事もなく――エノは時間通りかそれよりやや早く来て、マスカもわざわざ回りくどいやり方はやめるとのことで――落ち着いた二人だけの時間を過ごしていた。
「……こんな質問、おかしいかもしれないんですけど」
「……?」
パン生地をこね、折る回数が露骨に増えながら、コムギはエノに問いかける。
「ここで朝を過ごすことは、エノさんの生活の邪魔になっていませんか」
「そんなこと」
「でも」
この聞き方では即座に否定する、否定してくれるだろうと予想がついてたから、コムギはそれを遮って言う。
「でもエノさん、ここでのことユリグルさんやリザンテラちゃんにも話してなかったので……その、後ろめたいのかな、とか」
エノのほうを見ずにこんなことを聞くのは無粋かもしれない。だがここでエノの気持ちを今一度はっきりさせておきたいという気持ちと、しかし踏み込んだ質問をする勇気が足りないのとがせめぎ合った結果としての、投げやりな質問である。
彼はしばらく黙る。どんな顔で考えているのだろう。彼はいつも私を傷つけない、いや、誰も傷つかないような言葉選びに終始する。だから言葉選びに長考するし、その優しい間を待つのは嫌いじゃなかった。
「……非常に言いにくいのですが、コムギさんが僕といることを噂されることを好ましく思わなかった場合を考えて、ですね」
「……そうですか。お気遣いありがとうございます」
やはり、配慮の結果の行動であるのか、と思いつつ、コムギは答えを明示せずにそう返す。
正直、エノとの関係をそう見られること自体は嬉しい。彼の隣に立って見劣りしない、彼と釣り合っているというのなら嬉しいに決まっている。
ただ、必要以上に噂されるのは確かに嫌だ。自分で思うのもあれだが、コムギは街ではちょっとした有名人、という自覚はあったし、最近では彼の話題も絶えない。とすると余計な騒ぎを起こしたくないというのはコムギの中にもあった。だから好ましくも好ましくない、というのが現状だ。
「……それと」
もうひとつ、先ほどよりは彼の言葉はスムーズだが、少し声が緊張しているように感じたのは、コムギのほうが緊張していたからだろうか。
「できれば――あなたと二人のこの時間は、崩したくないと思っていますから」
コムギは固まる。生地を折り返す手がピタッと停止する。生地も手に支えられたまま、空中に静止する。
以前似たような質問をして似たような答えが返ってきた時はお世辞的なものかと思っていた。エノと二人だけの時間を他人に邪魔されたくない、この時間を二人だけのトクベツにしたいと、そう思っているのは自分だけかと思っていた。
だけど、今彼の言葉を聞いて浮かぶ、ひとつの可能性。彼も同じように、本音で心の底から、二人きりでいたいと思ってくれているなら?
「……すみません、お気を悪くされたでしょうか」
そんな考えを、しかし以前のように都合の良い妄想と割り切ることはできないでいる間に、エノは黙り込むコムギに声をかける。
「いえっ! まったくそんなことは。私も……私もなので」
「そう……ですか」
思考の整理もつかないまま、彼に曖昧な表現で自分もあなたとの時間を大切にしたい、と伝える。多分、二割も伝わっていない。ああ、どうしよう。ますます彼の顔が見れない。
「……続けましょうか」
「そう、ですね……」
ただ、ここで明確にもう一度都合の良い妄想をしておくならば。
彼の毛むくじゃらの顔が、見てわかるぐらい、赤くなっていればいいのにと思った。
◇
その日の昼下がり、マスカはコムギベーカリーの近くから店を監視していた。もちろんそんな怪しい行動をするのには明確な理由がある。
(きたきたきた……!)
二人の男が談笑しながら並んで歩き、店のほうへ曲がるのを見計らって後ろをついていく。やがて彼らが店の中へ入ると、ごく自然に、偶然を装うために三十秒ほど待ってから、マスカも揺れかけのドアを開いて中へ入る。
「いらっしゃ……あ!」
すると二人――黒猫の騎士エノと隊長ノイバに接客中のコムギが、こちらに気づいて笑顔で手をぶんぶん振ってくる。誰にでもこんなに愛想振り撒いてたら勘違いする人も出てくるだろう、と思う反面、こういうところが健気な犬みたいで本当に可愛いな、とも思う。
手を軽く振って気を取り直し、三人の中へずんずん入っていく。「こんにちは〜」と挨拶をすると、マスカを見たノイバの金色の長髪の凛々しい顔つきにピシッとヒビが入る。
「あ、ノイバさんは多分初めましてですよね。私の幼馴染のマスカです」
するとノイバは、わかりやすく瞳孔が黒目がハエみたいにぶんぶん飛び回りながら動揺する。
「ああ……ま、まあ、そうだな」
「初めまして。マスカですよろしくお願いします〜」
マスカはそんな取り繕った言葉でにっこりと彼に微笑む。
お察しの通りマスカはノイバと知り合いである。具体的には、マスカが家業の酒場で働いていること、ノイバがこっちに来てから飲んだくれと化していることから、だいたい、そんな関係だ。
「マスカ、どうしたの? 普通に買っていく?」
「あ、そうそう今日はちょっとお誘いがあって」
コムギには具体的なことは話していなかった。とりあえず「任せて」とだけ言っておいたから、よくわかっていないのか、首を傾げている。
「明日定休日でしょ? 久しぶりに出かけようよ、ピクニックでもどう?」
とびきりの優しい子で、他人の困りごとにはすぐ首突っ込むくせに自分のことは後回し。自分の好意を伝えるのも他人の好意を感じ取るのも苦手。奥手どころじゃない奥手で、見ているほうがイライラするぐらいの。一番の親友で大好きな彼女の初恋を、どうにか成就させてあげたい。さあ、そのためにいざ作戦を遂行するときだ。
それから返事を待たずに、ごく自然な流れで、隣で放置されている男二人も会話に参加させる。
「あ、よかったら――エノさんとノイバさんもご一緒にどうですか?」
マスカの提案に、コムギが一番わかりやすく動揺する。あんたがそれでどうするの、と思いつつ、さすがにマスカの意図を汲んだであろうコムギが黙ってエノたちのほうを見る。
普段のコムギだったら「でもエノさんたちは〜」みたいなことを言い出しかねない。そういう気遣いができるのがコムギの良いところでもあるのだが、とにかく今は置いといて、一旦安堵する。
「……僕たちは一応騎士ですから、任務先でいたいけな淑女の方々を連れ出すわけには」
エノは少し困ったような、あるいは悩んでいるような顔でノイバのほうをちらりと見つつそう言う。あの後マスカはコムギから騎士エノのことを色々と問いただしたのだが、事態は思ったより深刻である。
コムギが度を越した奥手であるが故に目立っていないのだろうが、エノのほうも多分奥手である。いや、彼が騎士という身分を重んじて線引きをつけているのはわかるのだが、にしたって感情を表に出さなすぎである。
一昨日、彼はコムギに気があるのだと、マスカはコムギに力説したが、どうにもピンときていないようすであった。それぐらい、彼は自分の気持ちを隠している……と、少なくともマスカ個人は考えていた。
だからこういう返しをされることは想定の範疇であり、次なる一手も考えてあった。
「でもコムギもエノさんに来てほしいよね?」
「えっ」
自分にパスが渡されると思っていなかったのか、コムギは気の抜けた声を出す。マスカは(行け! 押せ! やれ!)と顎でエノのほうを静かにさしてコムギに指示を出すと、やがてコムギは意を決したかのようにエノのほうを向く。
「そう……ですね。私もエノさんが来てくれたらその……嬉しいです」
そういえば、コムギが語る彼女なりのアプローチとして、最近積極的に「ありがたい」ではなく「嬉しい」を多用するようになったと言っていた。そんなことに一喜一憂していたらいつのまにかおばあちゃんになってしまうぞ、と思いながら聞いていたのだが、なるほど、あながち効果なしとも言えないのかもしれない。
実際、上目遣いで――昨日マスカがしたようなぶりっ子のようなものではなく、マスカよりも身長の低いコムギにしてみればまったくいつも通りなのだが――恥じらいながらそう伝える姿は、マスカから見ても可愛らしいと思った。
気になるエノの反応はというと、関係値の浅いマスカから見る限りではわかりにくいが、多少の動揺はしているようにも見える。
「……では、僕は構いませんが……」
エノはなんでもないというふうにノイバのほうを向いた。しかしマスカは見逃さなかった。
彼は今たしかにコムギから目を逸らすためにそっぽを向いたのだ。
マスカにはそうにしか見えなかった。あれだけ純朴な瞳でお願いされたら誰でもそうなるだろう。コムギ、これはちゃんと効いているぞ、がんばれ、と思っていると、エノの逃げ出した視線が行き着いたノイバは少し考えてから申し訳なさそうに口を開く。
「あー、悪いけど俺は明日はやることがあってな」
するとエノはそれに乗っかる形で続く。
「……となると、せっかく幼馴染のお二人の休日に、水を差すことになってしまいますので……」
やはりこうなるか、とマスカは更なる手を打つ。正直コムギが直接エノをおでかけに誘えば一発で成功しそうな気もするが、それができないからこうして助け舟を出しているわけであるし、そもそもそれができないことは問題ではない。
コムギの向き不向きの不向き側に積極的なアプローチ、というものが置かれているだけであって、コムギの魅力は向き側にたくさんあることは、マスカは誰よりも理解しているつもりだからだ。
気遣いの塊のようなエノを攻略するには、その気遣いを誘導するか、そもそも気を遣わせる原因を取り除くべきで――マスカは後者を選択する。
マスカはちょいちょいとノイバの服の後ろを軽くひっぱり、その井戸端会議から一度離脱してノイバとひそひそ話を開始する。ノイバはエノよりはるかに身長が高く、小声で喋るためにノイバは少し屈む。
「協力してください。あなたが来るほうが自然です」
「いやそうしたいのは山々なんだが、言った通り明日は予定があってな」
なんの協力、とも聞かずにずいぶんと察しがいい。コムギによる事前情報と、この間彼が客として来た時にこぼしていた発言から、ノイバがこちら側かもしれないと踏んでいたが、これを利用しない手はない。
「……予定って、どうせ今日この後どこかの酒場で死ぬほどお酒飲んで二日酔いになるからですよね?」
「なぜそれを」
「街のコミュニティ舐めないでください」
ノイバはわかりやすく動揺して冷や汗をかく。エノもこれぐらい表情に出やすかったら、コムギとの恋愛もスムーズにいくかもしれないのに、と思いながら、バツの悪そうな顔で――ずいぶん綺麗な横顔の無駄遣いだが――立ち尽くすノイバの耳元に、マスカは背伸びをしながらトドメを囁く。
「この間ウチで酔って騒いでたこと――ユリグルさん、でしたっけ? に言いつけますよ」
ノイバはその名を聞いた途端に観念した、というようにスッと姿勢を正し、くるりと向きを変え、エノとコムギのほうへ戻っていく。
「――たまには自然と戯れることも騎士としての務めさ。そう思わないか? エノ」
美しい金の髪を、わざとらしく手でふぁさりと後ろにたなびかせながら、そう告げた。




