一話 コムギは町のパン屋さん
――恋に落ちているのだと思います。
あの時から、ずっと。
海に臨む穏やかな街。
この街でパン屋といえば、たいていはコムギベーカリーのことを指している。
その理由はというと、味はもちろん大変素晴らしいのだが、それよりもむしろ、いわゆる看板娘的な存在である少女コムギの功績が大きかった。
「おはようコムギちゃん」
黒い髭がしっかりと生えた中年の男が、緑色のドアを開けて店内に入る。コムギは頬を上げてくしゃっと笑う。
「あ! おはようございますー。今日もアップルパイですか?」
「よく覚えてるねぇ、さすが」
「いつも買っていただいてますから」
コムギは得意げに自分の胸を軽く二回叩いて、男がカウンターに置いた硬貨を受け取り、袋入りのアップルパイと交換する。
男と入れ違いで、杖をついた女性が見ていて不安になるような歩き姿で入店する。
「いらっしゃいま……あ、どうも。今朝ぶりですね」
「ありがとねぇコムギちゃん。朝はお店の準備もあって忙しかっただろうに」
「あっ、いえいえ! とんでもない。見つかってよかったです」
女性は掠れ気味の声で、ただでさえ曲がっている腰をさらに曲げて感謝をするものだから、コムギは両手を手の前に突き出して振っては慌てる。
今朝ぶり、というのは、コムギがいつもの仕込みの時間によそから材料を運んでいる最中、女性が街中を流れる水路で座り込んでいるところに遭遇したことである。なんでも、女性は亡くなった旦那さんの結婚指輪をそこで落としてしまったとかで、それを聞いたコムギは作業着のまま泥でぬかるんだ水路で指輪を探すのを手伝った。結果的に指輪は無事見つかったのだが、それはコムギの服を泥だらけにすることによって為された。とはいえ、とうのコムギは指輪が見つかったことを自分のことのように喜んで女性に手渡すとさっさとパン屋に戻ってしまったものだから、こうして女性は改めて訪れたのである。今は予備の作業着で接客中のコムギと二、三言たわいもない談笑をする。
要するに、コムギは接客だけが非常に上手なのでなく、お人好しとさえ言えるほどの人当たりの良さが故に街の皆に愛されているのであって、コムギベーカリーの看板娘だから人気というわけではない。逆に、自分の娘に店名を名付ける親は考えものだが、コムギはその任務をまっとうしているとも言える。
女性は「孫に」と言ってあんパンを三つ注文した。コムギがそれを用意する間、こんな会話をした。
「あの人もここのあんパンが好きでね……よく半分こして食べた記憶があるよ」
「それは……それは、すごく、良いですね。すみません。上手く言えないんですけど、なんか、素敵です。その、ラブラブだったんですね」
手早くパンを詰めるかたわら、ベーカリーの歴史に思いを馳せる。コムギは母や祖父が継いできたこのパン屋が大好きで、だからこそ、年配の客からこの類いの思い出話を聞くたびに少し緊張してしまう。私が上手く引き継げるのかどうか、と。同時にここが人々の思い出に刻まれて来たことを嬉しくも思うから、こういうことを言われると頭の中で言葉がしっちゃかめっちゃかになって、上手く返せないことが多い。
「私もそういう人と出会えますかね……とか。あ、こちらあんパンになります」
コムギが半分冗談の独り言もどきを呟きつつ、あんパンの詰まった袋を両手に持つと、女性はその手の甲の上にしわくちゃの手を重ねてじっと見つめて真剣な顔をする。
「コムギちゃんの良いところ、みんなちゃんとわかってるよ」
少しだけ怖く見えた顔は一気に緩んで、しわの中で笑いじわが一番大きくなった。年配の人の手は、どうしてこんなに弱々しいのに、こんなに力強く、頼もしいんだろうと感じた。
◇
お昼時の一番忙しい時間を、これもいつも通りのことだが、母と二人で乗り切った。建物はパン屋にしてはかなり大きく、しかもそれが混雑時には室内とテラス席の両方が埋まるほど人が来る日もあるのだから、二人で切り盛りするのは大変な日もあるが、魔道具――さまざまな力を発揮する特別な道具――にも頼りつつなんとか営業している。
加えてコムギには下に二人きょうだいがいるものだから、その朝食や夕食の準備もするとなると朝からどたばた大忙しの日もある。それでもコムギは日々この街の住民――たいていは顔見知りである――と触れ合える生活が好きだった。それに、疲れる日でも、焼きたてのパンの匂いを全身で味わう経験はなにごとにも代えがたいとつねづね思うのであった。
午後は来店者の数も落ち着いた。
この後は常連さんが何人か来て、思い思いの「いつもの」を頼んでいくから、その後は店を閉め、それから今日の夕飯は何にしよう? ここ二、三日おなじおかずが続いたから今日はちょっと変えてみようかな。などと考えながら、テラス席を掃除し終えたコムギは店内に入りカウンターでぼんやりとしていると、コンコンとドアを優しく叩く音がした。なんとなく、指の関節の当たる音よりやわらかく聞こえた。それより、コムギと店に慣れたこの辺の住民でわざわざノックしてまで礼儀正しく入ってくる人なんていたっけなぁと思いつつ、「どうぞ〜! いらっしゃいませー」と午後の眠気を感じさせない明るい声で迎え入れる。
暗緑色の重そうなドア――実際開けてみると見た目以上に軽いことは容易にわかるのだが――をキィと鳴らし、一人の客が入って来た。
「……」
コムギは人の容姿は気にならないタイプだが、この時は珍しく一瞬言葉に詰まってしまった。客の見た目の良し悪しがどうこうとかそういう話ではなく、ただただ単純にその姿に慣れていなかった。
一匹の黒猫がそこらをとことこと歩いていたとして、それがむくりと立ち上がって、服を着て背筋をピンと伸ばしていたらどうだろうか? コムギが見た客の姿は、人間サイズではあるものの、まさしくそのような黒猫の姿だった。
「……あっ、すみません」
「いえ、僕ほど血の濃いネコビト族はあまり見かけませんから……驚かれるのも無理はありませんよ」
じろじろ見すぎちゃったかもしれないと、コムギは慌てて謝ると、客はそういう反応には慣れていると言わんばかりに目を細めて笑って見せる。その声は高めでくぐもっているのにどこか爽やかで、物腰は柔らかい。グレーに近い黒色の綺麗な体毛は凛としているが、ひたいのばつ印の古傷? の跡だけ色が白っぽく変わっている。年齢はどうだろう。獣人は老けにくいと聞いたことがあるが、なんとなくコムギから見て同年代か少し上ぐらいな気がした。
「……パン屋さんだったのですね」
店内を見まわした黒猫の男は少し困惑するような、驚いたような、複雑な顔をした。体毛に隠れて表情はヒトのそれより少しわかりづらいが、ぱっちりと開いた黄色の眼球を含む目全体がよく動くので、判別は容易い。
「……? あ! もしかして看板わかりづらかったですか」
テラス席の外側に看板が立ててあって、地元の住民は慣れっこだろうが、初めて来た人は見過ごしてしまうのかも、と思い当たる節はあった。コムギ自身、知らない店に入る時は注意を欠いて閉店時間に気づかない経験などがしばしばあったから、そういう感じかもしれないとフォローを入れてみる。が、男の反応はまずまずといったところであった。
「いえ、そういうわけではないんです……。ただ、ちょっと意外だっただけで」
「なるほど……? でもせっかくですし、何か召し上がってはいかがですか」
いまいち真意は定かではなかったが、とりあえずコムギは話の流れを優先するのと、それから新規客をしっかり獲得しようという商魂のたくましさを忘れていなかったので、そう勧めた。
男は、頬からそれこそ猫のように長く伸びた数本のひげをくるくると指で回すと、わずかに時間を置いてから「そうすることにします」と言った。考えるときの癖のようなものなのだろうか。
「オススメはありますか?」
「そうですね……。センバの街に来たなら、やっぱりなんといっても菜の花のパンを食べてほしいです。名産なんですよ」
コムギが店の一番目立つところに並べているそれを指さす。ひとつひとつは小さく見えるが、中にはやや塩辛く炒められた菜の花が詰まっており、開店時にはてんこ盛りに置かれて途中で補給したりもするのだが、それでも午後には売り切れることもある人気商品である。この日も残り数個だけになっていた。
「ではそれを……五つ、あ、いややっぱり四つで。それと……メープルクリームパンを一つと、バタールを三つ」
はーい、と軽快に返事をしながら、手際よく袋詰めをしていく。
彼が友人や家族に土産として持っていくつもりなら、一人甘党か野菜嫌いでもいるのかなぁ、などと推測する。惣菜パンに加えてバタール、ということは朝食用、あるいは夕食用のも今買っておこうという可能性もある。地元の人なら気軽に聞けるのだが、どうにも旅の人のようなので少々はばかられる。いや、しわの無い白いシャツにきっちりとした黒ズボンでいかにも正装といった格好の彼は旅の人、というよりも役人や王都のほうから来た方かもしれない。こうして客の格好や選んだパンからその生活を想像してみるのは、コムギが接客を通して見つけた密かな趣味である。
男が硬貨を手渡す。手は普通の猫とヒトの中間ぐらいの細さだが、しっかりと肉球と爪があるのがチラリと見えた。
コムギが袋を渡すと、男はそれを両手で前に抱えるように持って「ありがとうございます」と微笑む。男のぱっちりした目が緩む。袋から斜めに顔を覗かせる細長いバタールが彼の顔の下あたりに来て、彼の立ち姿にやけに馴染むなぁと思った。紳士的なたたずまいも相まって、おとぎ話の絵本に出てくるような人物を想像させる。
「では」
「はい。またいらっしゃってください」
黒猫の男はスタスタと焦げ茶色の木の床を歩いていき、ドアを開ける。外に出てからもドアノブを握ったのだろうか、すごくゆっくりと閉まるのがわかった。
あれほど猫に近い身体的特徴を持つネコビト族を見るのは初めてで最初こそ驚いたものの、物腰柔らかで素敵な雰囲気の紳士だったなぁと物思いにふけりつつ、コムギはまた男と入れ違いで入ってきた次の客に声をかけた。
◇
翌日はいつにも増して客が多く、当然コムギは朝からてんてこ舞いになっていた。
「お母さんベーグルあとどのぐらい?」
コムギがカウンターから後方になかば叫ぶ形で聞くと、母の「五分ぐらい」という声が響く。ついで母が厨房から出てくる。
「本当最近お客さん増えたよねー」
「センバ祭があるから、人の出入りが多くなってるものね」
人の多い店内とテラス席を見渡しながら、二人で一息つく。
センバ祭というのは、この港町センバで開かれる一大イベントであり、遠方からも多くの人がやってくる。宗教的に重要な祭りであることや、ただでさえ美しい景観の街がさらに綺麗に彩られることもその理由に含まれる。それが約一ヶ月後に控えたこの時期からは、王都から離れたこのセンバの街に行商人や観光客が出入りすることも多くなるのである。
とうのコムギベーカリーも、祭りに向けた新商品開発など、それなりにやることが増えてきて、とにかく、この時期は忙しくなる。
「聞いた? ほらあの……」「見た見た」「本物なの?」「なんか噂によると……」「初めて見た、珍しいよね、黒の……」「ねー」
コムギがテラス席に飲み物を運ぶと、しかし、時期的な状況を鑑みてもやけに人がざわざわとしている。なにか共通の盛り上がる話題でもあったのかな、と疑問に思って、黒色の丸いトレンチからコップを机に置いたコムギは、周りをきょろきょろ見まわしたあと、渡した先の若い常連客の男性にこっそり耳打ちする。
「……あのー」
「おう、コムギちゃん。おはよう」
「おはようございます。なにかあったんですかね?」
「んー? ……ああ、あれだろ、王都のほうから、騎士団が来てるとかっていう」
聞き慣れない、というよりあまり縁のない話でしか聞いたことがないような単語に、コムギは「騎士団?」と首を傾げる。
「ま正確には騎士隊らしいけどな」
「へぇ……」
「おっと、噂をすれば……ほら」
男性が視線を移しながら顎でさした先をコムギは流れにつられて向く。
ベーカリーに続く枝道が分かれる通りを、白いマント? ローブ? のようなものに身を包んだ数名が闊歩していた。
すると、その集団は分岐路で立ち止まり、くるりと向きを変えてこちらへ歩いてくるようだ。そこで、コムギは「あっ」と声を漏らす。多分客たちが皆喋っていなかったら、悪目立ちするぐらいの声量で。
コムギが驚くのも無理はない。
なぜならその先頭を歩く二人の男性のうち、一人は――昨日の黒猫の男であった。