9 公爵夫人の決心(スィーリの過去)
「毒を盛るなんて…。信じられませんわ!スィーリ様はなんて酷いことをなさるのかしら!」
トイヴォは寝室へ運ばれ、医師が治療に専念している。
リンネアはスィーリが犯人だと決めつけているようで、トイヴォが苦しそうに呻いている横でもスィーリを罵っていた。
スィーリはトイヴォの手を握って、トイヴォが目を覚ますその時まで無言で励ましてやりたかったが、それが許される雰囲気ではなかった。
仕舞いには、医師から患者には安静が必要なのだと説得され、身内までも部屋を追い出されたのだった。
今はスプルース邸で家族が集う居間へ場所を変え、トイヴォの回復を皆が祈るように待っていた。
リンネアも少しは落ち着いてきたようではあるが、スィーリへの非難は収まってはいない。
「…。それは濡れ衣だ…。私はそのようなことは決してしない…」
スィーリが弱々しく告げる。毒に侵されているトイヴォのことを思うと胸が張り裂けそうだ。
「白々しい…。スィーリ様は公爵夫人に相応しくありません。トイヴォを後継者として認めたくないんですわ…」
「何が相応しくないだ?貴様は何様のつもりだ?スィーリの方がお前よりも余程トイヴォを可愛がっていた!」
リンネアの癇癪に嫌気がさしていたオーエンが眉間に深く皺を刻む。
「そこまで仰られるのならば、証拠はあるのですか?」
イロナがリンネアを見据えた。イロナはスィーリの傍らに腰をかけていた。リンネアにつけられたスィーリの顔の傷へ薬を塗り、メイドから受け取った氷嚢袋をタオルで包むと腫れあがったスィーリの頬へ当てている。幸い傷は小さく跡は残らなそうだ。
「はっ?確証はありませんわ…。ですが、動機はございますでしょ?私、このような不確かな状況で、スィーリ様と一緒に暮らすことなど出来ません…」
「何が言いたいんだ?まず、スィーリがトイヴォを毒殺しようとしたなどあり得ない話だし…。それに大半、彼女はカントリーハウスで生活しているのだ…。何故、タウンハウスにいる君と一緒に過ごす?」
訝しげに眉をあげたヘンリックがリンネアへ問う。スィーリはヘンリックが自分を庇ってくれるなどと思っていなかったので驚いて顔をあげた。
「王女殿下…。今は王太子妃でしたね…。ソフィア様がスィーリ様を専属護衛騎士へご指名と伺っております…。ともなれば…。これからはこちらの屋敷へ滞在することでしょう?」
「もちろん、スィーリは公爵夫人であるのだから、領地であろうが王都であろうが好きに過ごしてくれて構わない…。けれど…。夫人としてスプルース公爵家の管理を任せているのだ…。専属騎士などさせぬ…」
ヘンリックはリンネアへ真正面から向き合う。
専属護衛騎士の依頼はスィーリから断られるのを前提とした王女の挨拶のようなものだ。
ソフィア王女は幼い頃から何度も専属護衛騎士にスィーリを望んだ。
その度、実家のグルナディーヌ侯爵や嫁ぐ予定であるスプルース公爵の両家からゼニス王家へ辞退の意向を申し出た。
スィーリは既に婚約している身であり、結婚後は領地経営へ注力して臣下として王家へ尽くしたいとの説明に、国王は理解を示してくれた。
スィーリ自身もソフィアへ直接理由を述べ、ソフィアが納得するまで王宮へ足繁く通った。
王女は綺麗なものや美しいものが好きで、当初はスィーリへの興味も宝飾品を愛でるようなものであったが、スィーリの人柄を知り益々好意を持つようになったのだった。
「ですが…。ですがもし…。妃殿下の専属騎士となられるのであれば…。私の立場も考えてくださいませ…。私は…。私は…」
「リンネア…。黙るんだ…」
ヘンリックはリンネアの肩へ手を回し、促すように部屋の片隅へ移動する。ヘンリックはリンネアへ声を落とすよう目で諭した。
「あのお方…で…私…。スィ…様の…妃…と近し…を…」
「気に…だ。スィ…は…では…」
スィーリには知られたくない話らしく、二人はお互い耳元で囁くように会話を続けた。
オーエンはその二人の姿に呆れている。イロナはスィーリの頭を労るように抱きしめていた。
「それほど心配ならば君が領地へ行けばいい…。スィーリが王都に戻れば良いのだ…」
ヘンリックの言葉にリンネアは目を潤ませて拒絶する。
「嫌です!田舎になんて!私、王都でしか暮らしたことがございませんのよ!」
一雫の涙がリンネアの頬をたどる。ヘンリックの胸へリンネアは顔を埋めた。
見兼ねたスィーリは立ちあがり、ヘンリックへ歩み寄る。
「閣下!」
「なんだ?」
真剣な眼差しでスィーリはヘンリックを仰いだ。ヘンリックの両腕にはリンネアが包まれている。
「離婚しよう…」
「はっ?何故だ…。貴女に罪はないのに…」
ヘンリックはスィーリの突然の発言に狼狽え困惑した。
「あぁ…。私はトイヴォを殺そうなどとしていない…。だが、このままリンネアの杞憂を放っておくわけにもいくまい…。疑念を抱いたまま、私と暮らしていくには、あの子の心情にとっても良くないだろう…」
スィーリの背後ではイロナが唇を両手で押さえて真っ青になっていた。オーエンは呆然として立ち尽くす。
「私は…。貴女との子供を後継者に望んでいる…」
「あの子はどうなってもいいと仰るのですか?」
「君がそれを…言える立場…か?」
「何ですか?」
一層、ハラハラと涙が溢れてリンネアの愛らしい顔を濡らした。
「それは…いや…」
ヘンリックは何かを言いかけたが口を噤んだ。スィーリが告げる。
「何年も私との間に子は授からなかったのだ…。けれど幸いにも閣下にはトイヴォがいる…。後継者はトイヴォで問題ないだろう…」
「私は…。嫌だ…」
「それに…。疑惑が晴れぬまま、私がこの家に残るのは、公爵家へ迷惑がかかる…ここは、私が身を引こう…」
「嫌だ…」
ヘンリックは縋るような眼差しでスィーリを見つめたが、決心の固まった新緑色の瞳が揺るぐことはなかった。
その後、二日間トイヴォは生死を彷徨ったが、幸いなことに医師の的確な対処で一命をとりとめた。