5 小公爵との時間(スィーリ過去)
ヘンリックが久々に領地へ帰ってきた。
ヘンリックは聖騎士団長の仕事が多忙であっても、年に一度は必ず領地邸宅へ訪れる。領地内政を自らの目で確認するため、いつも三週間程滞在した。
「お久しゅうございます」
「滞りはないか?」
「はい…」
「そうか…」
ヘンリックとスィーリの挨拶は毎年一言一句違わない。ヘンリックは基本無口な男だ。必要最低限の言葉しか交わさない。
だが、この年は違った…。
ヘンリックの背後には小さな影が一つ…。
「今日は息子を連れてきた…。領地のことを学ぶために、アカデミーへ入学するまでこちらで面倒を見てほしいのだが…。ご挨拶しなさい…」
邸宅の玄関前でヘンリックを出迎えていたスィーリや屋敷の使用人たちをトイヴォは見上げた。
「はじめまして…。」
周囲の大人に萎縮しつつも愛らしい声音でトイヴォは告げた。途端、スィーリの目を輝かせて細める。
「あのときの赤ん坊が…。大きくなって…。君は何歳になった?」
「4さいです…」
物怖じしながらも年齢をしっかり答えるトイヴォが可愛らしくてスィーリは抱きあげる。
「君が私を知らないのは無理もない…。まだ、君は目も開かない乳児だったのだ…。君を抱っこしたこともあるのだが…。ふふ…。重たくなったな…」
突然、ペリドットの宝石のように透き通って美しい双眸が目の前で瞬き、トイヴォは狼狽えた。
「あのぉ…」
「あぁ、すまない…。はしゃいでしまった…。突然知らない大人に抱かれるのは君も困ってしまうな…」
トイヴォは頭を左右に振る。驚いてはいたが、嫌ではなかった。人の温もりがこれほど心地よいものなのかとトイヴォは安心していた。
「いえ…」
「4歳にしては痩せていないか?好き嫌いがあるのか?」
照れているトイヴォへスィーリは屈託ない笑顔で質問をする。同世代の子供と比べて体重が軽く感じたからだ。
返答にどう答えてよいのか、戸惑いながらトイヴォは父を見た。ヘンリックの眼差しはスィーリを捉えている。
「貴女がそのように笑うのは…。久しぶりだな…」
眩しそうに目を眇めながらヘンリックが告げる。スィーリはヘンリックが眉を顰めているように見えた。
「申し訳ありません…。淑女らしくありませんでしたね…」
「いや…。そのようなことはない…」
そのままヘンリックが玄関へ向かい、スィーリはトイヴォを地面へ下ろし手を引く。使用人たちは主人が屋敷へ消えいるまで敬礼を維持したまま見送った。
その後、何年かトイヴォは領地で過ごした。
リンネアは王都で社交界に忙しく、息子を顧みなかった。当初、ヘンリックがスィーリの元へトイヴォを送ったのを苦々しく思っていたが、そのうち、育児の手が離れて煩わしさから解放されたことに喜び、夜会などの参加で自分の存在を知らしめることに夢中になっていた。
スィーリはトイヴォへ次期領主として必要な教育、そして自ら剣の手解きを示し、いつしか、トイヴォはスィーリを母代わりに心から慕うようになった。
「前から欲しがっていただろう?馬はまだ早いからな…。ポニーだ」
スィーリはポニーの手綱をひいて、トイヴォの前まで連れてきた。トイヴォは目を見張った。
高原に爽やかな風が走り、栗毛色の豊かな立髪がなびく。毛並みが艶々で美しく、円な瞳がトイヴォを見据える。
「まずはポニーと仲良くなることが大切だからな…。乗馬はそれから少しずつ教えよう」
ポニーはトイヴォに興味を示して匂いを嗅いでくる。ポニーは穏やかな眼差しでトイヴォへ歩み寄った。
「いい子だ…。触ってもよいか?」
ポニーの目が細くなると、スィーリはトイヴォの手をとり、そっとポニーの鼻のあたりを摩った。
「ふふ…。可愛いです…」
「ポニーは大人しいが…。突然、大声を出すと驚いてしまう…。触れるときは、彼の視界に入る場所から声をかけて、ゆっくりと近づきなさい…」
トイヴォは頬を紅潮をさせてスィーリの言葉に頷いた。
「ポニーの表情を見れば、触ってもいいか分かるんだ…。耳を後ろに伏せてるときは機嫌が悪いから、そっとしてあげなさい…。先ほど見せた笑っているような顔をしていれば、機嫌が良い…」
「はい…。母上…」
トイヴォの返事に驚き、スィーリの動きが止まった。重ねていた手からスィーリの手が離れる。
「母…上…?」
困惑したトイヴォがスィーリを仰ぐ。トイヴォの視線に不安が混じっていた。
「…。君のお母様に示しがつかぬ…。私のことはおばさんと呼びなさい…」
トイヴォは上目遣いでスィーリを見つめた。
「けど…。母上とお呼びしたいのです…。ダメですか?」
澄んだ清流のような清らかな眼差しがスィーリの胸を締めつける。
「…」
「…」
しばらく、二人の間に沈黙が続いた。
ブルルルッ!
ポニーが鼻を鳴らすようにいななき、スィーリへ鼻を擦り寄せる。腹を空かせているようだ。
スィーリはトイヴォへ伝えた。
「この屋敷だけだ…。それも、二人でいるとき、そうだな…。ミナも一緒ときも…。そのときだけに限る…。それが出来るのなら許そう…」
側へ控えていた乳母へ視線を移すと、彼女は静かに微笑んだ。
「本当ですか?」
「あぁ…」
スィーリの首へ腕を回してトイヴォは無邪気な笑顔で抱きつく。
「うふふ…。母上!大好きです!」
スィーリはリンネアへ罪悪感を覚えながら、トイヴォを腕に包んだ。