24 公爵夫妻の未来(ヘンリック現在) 【本編完結】
トントンッ!
誰かが部屋を叩いている。
微睡の中、スィーリーは手を探った。
温かい…。柔らかな毛並みではなく、逞しくて固い筋肉…。
筋肉?
スィーリーが目を覚ますと、隆々とした胸板が飛び込んできた。
驚きのあまり、声もでない…。
スィーリーを抱きしめる腕の力は緩むことなく、視線を上へ移すとそこには…。
「ヘンリック!」
名前を呼ばれてスィーリーの髪の香りを嗅ぐようにクンクンと鼻を鳴らす。
スィーリーはヘンリックが全身裸であることに気づいて咄嗟に身じろいだが、ヘンリックは微動だにしない。
「ヘンリック!離れてくれ…」
薄らと瞼を開けたヘンリックは寝ぼけた様子で左右を見渡し何度か目を瞬かせた。
「何故…。貴女が私の名を…」
狼の自分をヘンリックと呼ぶスィーリーへ違和感を感じて尋ねると…。言葉が発せられた。昨日までは鳴声もしくは咆哮だったというのに…。
「おやおや…。契約が破棄されましたね…。その前に説明しようと足を運びましたのに…」
部屋の主の返事を待たずに背の高い男がズカズカと室内へ入ってくる。
「マッティ!」
スィーリはよく見知っている赤毛の魔導師の名前を叫んだ。背後にトイヴォを従えている。どうやら、朝早くから突然やってきてスィーリーの部屋を訪ねようとするマッティをトイヴォは止めようとしたらしい…。
「ちっ!父上!父上なんでここにっ!いやそれよりも!なんて格好で母上に抱きついてらっしゃるのですか!」
一糸纏わぬ父親の姿を確認してトイヴォは混乱した。
ヘンリックは後ろ首へ手を当てた。しばらく目の焦点が合わずに宙を眺めていたが、目の前のスィーリ、慌てふためくトイヴォ、冷ややかなマッティの目線の先を認めて、ヘンリックはシーツを腰へ巻いた。
「夫婦なのですから別に構いませんよ…。あっ…。元でしたね…。まぁ、お子様には刺激的ですか…」
「私はっ!子供ではっ!」
マッティがパチンっと指を鳴らす。
トイヴォは意識を失い隣のマッティへ寄りかかった。
「ご心配なく眠っているだけです…。ですが…。こうも魔法耐性がないとは…。アカデミーでは何を教えているのか…」
簡単にトイヴォを抱きかかえ、スィーリーの部屋にある椅子へ座らせる。
「マッティ…」
スィーリは低い声でマッティを促す。
何故、このような事態になったか、マッティは把握しているのだ…。
「あっ…。すいません…。つい、私たちが居た頃に比べて魔法学の授業の内容がお粗末になっているようで…」
マッティは少し怯えた面持ちで話を逸らした。
スィーリたちがジョンブリアンへ在籍していた頃、マッティは学園史上もっとも魔力量のある優秀な魔導師候補であった。どの魔法学教授よりも優れており、教授たちはマッティに侮られないよう日々研鑽していたため、授業内容が今よりもずっと濃密であった。
「マッティ…。そうではないだろう?」
スィーリはマッティの話へ惑わされることなく尋問する。
マッティもこの度ことをスィーリとヘンリックへ説明するためにやって来たのだ。多少の勇気が必要だったが、謝罪は早い方に越したことはない。
「ちょっとですね…。私の親友を蔑ろにしていたことに腹を立ててしまい…。離婚協定で扱わない魔法を…。閣下に…」
「私が狼になったことだな…」
公正証書へ記した魔法陣が発動したとき、特異な魔法であったのでマッティはすぐ感知することが出来た。
スプルース公爵が行方不明になったと風の噂で聞いたとき、ヘンリックの居場所を突き止め、スィーリと共に過ごしていることを確認した。
スィーリへ結界の魔法陣を持ってこなかったのは、この事態をどう詫びればいいか悩んだからだ。スィーリは普段穏やかだが怒ると怖い。
「えっ?あの狼が…。閣下?」
スィーリがヘンリックへ視線を向けた。ヘンリックは肯定するようにスィーリの指先を甘噛みした。
狼の瞳と同じ金色煌めきが青空の向こうへ滲んだ双眸がスィーリを見据える。
「スィーリーの近くへ行くと発動するようになってまして…。スプルース公爵領とグルナディーヌ侯爵領を跨ぐ魔獣の森が…。一部近接しており、そこの結界へ同時に綻びが発生したことで…。まぁ、後のことは閣下がご存知かと…。私…。閣下のことを大変誤解しておりまして…。トイヴォ様は…」
「別に怒ってない…」
マッティの発言を遮るようにヘンリックは答えた。
マッティは温泉でトイヴォと対面している。
高名な魔導師は親子双方の身体から発する波動を見ただけで親子鑑定が可能だといつかヘンリックは聞いたことがあった。
マッティはヘンリックが認めるほどの魔法学の天才だ。親子を見分けるほどの魔導師は稀な存在であるが、彼なら難なくヘンリックとトイヴォの関係を見破るのではないかとヘンリックは恐れた。
今更…。トイヴォが自分の子でないことをスィーリへ告げるつもりはない。
「はいっ?付け加えれば私の行ったことは違法行為でして…。出来れば、魔塔への報告は差し控えていただければ…」
「マッティ…。流石に…。それは…」
事の重大さに気づき、スィーリは顔面蒼白する。王宮の諮問会や魔塔の審査会へ届出れば、マッティは魔導師として破門にされる可能性が高い。
だが、ヘンリックは平然な態度でマッティを許した。
「構わん…。おかげでスィーリーの側にいれた…」
「閣下!それはっ!…。マッティ!貴様っ!」
スィーリはマッティが罪に問われないことに安堵はしたものの、ヘンリックを獣へ変化されたことに怒りを覚え問い正そうと立ちあがった。
しかし、ヘンリックが腕を絡めてスィーリの動きを封じる。
「私はスィーリーが私以外の他の誰かを愛することを許そうと思う…」
耳元でヘンリックは囁いた。
「それは…。もう、私のことは…」
棘が刺さったような小さな痛みがスィーリの胸の奥底に疼く。
閣下…。ヘンリックはもう…。私を…。
スィーリの心配を余所に頬を紅潮させヘンリックは言葉を紡いだ。
「愛しているんだ…。貴女だけを…。でも、貴女の幸せを思えば、私の願いは必要ない…。貴女は私でなくとも、貴女を幸せにしてくれる人と結ばれるべきなんだ…。すまない…。スィーリ…。愛している…。だから、貴女を解放したい…。ただ、貴女を愛し続けることを許してほしい…」
「ヘンリック…」
マッティは目のやり場に困ってしまう。
互いの顔を見合わせる元公爵夫人の様子を眺めながら、マッティはため息をついた。
「作成した公正証書はお互いがお互いを許したことで内容が破棄されるのです…。ですから、私がこの部屋へ訪れる前に閣下は本来のお姿に戻られたでしょう?」
「「?」」
二人同時に顔を向けられ、マッティは補足する。
「閣下はスィーリーが第三者と恋人となることのないよう…。スィーリーは閣下と二度と顔を合わせることがないよう…。制約されていたでしょう?それを互いに許したのです…。これからのお二人は魔法の強制執行はありませんから…。ご自由に未来に向けて話をされてはいかがですか?」
ヘンリックが微妙に眉を歪める。
「マッティ殿は…」
「はい?」
「スィーリーへ好意を持っていたのでは?」
マッティは小刻みに首を横へ振った。モフモフとした牧羊犬をヘンリックは想像した。よく似ている…。
「友人としてならば…。スィーリーも同様でしょう?」
「ああ、大切な友人だ…。この男相手に恋愛感情なんてありえない…」
マッティの問いかけにスィーリも恋慕はないと完全否定した。
「ねっ?私とスィーリーは男女ですが友情が成立するんです…」
「「「…」」」
三人はしばらく押し黙った。トイヴォの規則正しい寝息だけが静かな室内へ響く。
「感謝する…」
静寂な空気を破ったのはヘンリックだった。
「何を急に?訴えられても致し方ないのですが…」
マッティは戸惑いを隠せない。
「私はどんな姿であれ、スィーリーと共にいられた…」
「んっ?その格好で仰られてもね…」
ヘンリックは布一枚で下半身を覆っているままだ。スィーリが提案する。
「閣下…。服を着ましょうか…」
ヘンリックは少し考えてマッティへ言った。
「マッティ殿…。少しの間…。トイヴォを連れてダイニングで待機してくれないか?」
「少し…。ですよ…。たかが外れないように…」
「マッティ!」
スィーリはマッティの発言を諌めるも、マッティが意に介することはなく上手にトイヴォの腰掛けている椅子を浮上させ退出していく。
二人を残して扉が閉まった。
「愛している…」
「ヘンリック…」
「もし…。貴女が許してくれるのなら、この姿で口づ…」
ヘンリックが最後まで言い終わらないうちに、スィーリーはヘンリックの口を塞ぐ。二人は唇を何度も重ねお互いの存在を確かめあうと吐息を漏らした。
「生きてて…くれて…。良かった…」
「愛してるんだ…」
「そうだな…。狼のお前は私にべっとりだった…」
狼になったヘンリックはスィーリの側を片時も離れたくなさそうに足元へ纏わりついていた。
ヘンリックはスィーリの首筋へ唇を滑らせた。
「これからは狼ではなく、ヘンリックとして貴女へ愛を捧げても良いだろうか?」
ヘンリックが求めてやまない陽だまりのような満面の笑みでスィーリーは答えた。
「ああ…。生涯を共に…。ヘンリック、私も貴方を愛している…」
本編は完結いたしました。
ここまでお読みくださりありがとうございます。
どうしようかと悩みましたが外伝を書きます。
外伝の題名は「ネモフィラが咲く頃に…。」です。
あと数話ございますが引き続きお付き合いくださると嬉しいです。




