2 婚約者の不貞(スィーリ過去)
あれは…。私がもうすぐ22歳になるときだったか…。
その頃、スィーリはセレスト王国の王都シエルにあるスプルース公爵家の邸宅で暮らしていた。
まだヘンリックの婚約者の立場であったスィーリだったが、当時公爵であったヘンリックの父オーエンの意向で、次期公爵夫人としてスプルース邸で夫人が取り仕切るべき業務を学ぶためスィーリが勉強に励んでいた頃だ。
領地管理に勤しんでいた義父母は王都邸を不在していた。
スプルース邸宅は華美な装飾はない。
客間も格式が高く重厚感が漂っている家具で統一され趣きはあるが、煌びやかさとは無縁な空間であった。
その部屋に似つかわしくない女性がヘンリックの隣で萎縮しながらスィーリの様子を窺っている。
茶みのある黄緑色の煌めいた瞳は零れそうなほど大きい。透明感のある薔薇色の肌は健康的で溌剌としており、怯えた表情でふんわりとした小さな唇を震わせている。その唇も血色が良く艶々しており可愛らしい。さながら、庇護欲をそそる小動物のようだ。
彼女が少し首を傾げただけで、柔らかな透け感のあるブラウンの髪が肩で揺ら揺らと踊った。
「私のせいでご迷惑をおかけします…」
彼女の名前はリンネア・ウィスタリア…。
曽祖父の代から王国会計課に実直な姿勢で仕事へ取り組んでいた実績を評価され、王都近郊に与えられた土地へ住むことが許されたウィスタリア子爵の一人娘だ。それまでは男爵位であった。
「全てはオレの責任だ…。リンネアを公爵家で保護することを認めてほしい…」
ヘンリックの顔色はやや青褪めており、艶やかに光る銀糸の髪が、いつもと違い少し乱れている。この部屋に入る前に、髪を掻きむしっていたのだろう。
ヘンリックはリース聖騎士団の一員であり、現在王立ジョンブリアンアカデミーにおいて王弟殿下の令息を護衛中であるが、学生として在籍している令息が卒業する今夏でその任を解かれることになっていた。
令息の寮生活も終了し、今後はスィーリと新婚生活をスプルース邸宅で始める予定であった。
ヘンリックは縋るような眼差しでスィーリへ懇願する。蒼穹のように澄み渡った青の奥へほんの少し黄金色が滲む不思議な色彩の瞳だ。王家は瞳にこの色を宿すことが多い。
スプルース公爵は王家の遠い縁戚にあたるのだが、永い時をへて血統は薄くなり、この瞳の色が発生するのは珍しい。先代公爵の大伯母以来の顕現だった。
「それでは彼女の肩身が狭いであろう…。ここは婚約破棄…。いや、穏便に婚約解消をしようではないか…」
ヘンリックを見据えてスィーリは告げた。
「そのような…」
長椅子へ腰掛けていたスィーリの背後へ控えていた執事長が息を飲む。ヘンリックは人払いしたのだが、執事長はスィーリの希望で残ってもらっていたのだ。
第三者がいれば、後々顧みて冷静に物事を判断できるとスィーリは考えた。
「いや…。それはダメだ…。君は幼いときから、オレの婚約者ではないか…。今更…。婚約を無効にしたところで…。年齢的にも相手を探すには遅い。オレは君に責任を持ちたい…」
容姿端麗で女性からの羨望は熱いが、常に冷ややかな態度で誰も寄せつけない。社交界では氷の貴公子などと二つ名のあるヘンリックが面白いほど狼狽えている。
スィーリはヘンリックが滑稽に思えた。
「私のことは気にせずとも構わない…。相手を選り好みしなければ、私のことなどどうとでもなる…。子供がいるのだ…。リンネア嬢は愛妾ではなく、正妻として迎えるべきだ…」
妊娠五ヶ月ほどであろうか、リンシアのお腹は誰の目から見ても大きくなっていた。
逆算すれば春頃に子が宿ったのだろう。
動物は春に発情期を迎えると聞き及ぶが…。
側からは落ち着きを払っているように見えるのだが、馬鹿らしいことを思案するあたり、スィーリもかなり混乱している。
ヘンリックとは幼い頃から婚約者として交流を重ねてきた。
愛を育むといった関係ではなかったかもしれないが、甘くはなくても情はある…。スィーリにとってヘンリックは長年信頼を積みあげてきた戦友のような存在だった。
婚約をしている身で浮気をして妊娠をさせたなどとは醜聞が悪い…。
好きな人が出来たとヘンリックが前もって相談さえしてくれれば、スィーリも対処の仕様があったものの、何よりスィーリはヘンリックに隠し事をされていたのが悲しかった。
やはり…。私が女性らしくないから…。努力しなかった私にも責任はあるだろう…。
スィーリはグルナディーヌ侯爵の一人娘だ。
グルナディーヌ家は騎士一家であり、剣で立身出世した。二人の兄と一緒に、スィーリは小さな頃から好んで剣術を習っていた。お淑やかとはほど遠い幼少期、今もって淑女として至らない部分があるのだと自覚している。
「先王が法律を改定してくれたおかげで、リンネアが正妻でなくとも、子供の尊厳は守られる…。リンネア、すまない…。やはり、公爵家の跡継ぎは彼女との子供が望ましい…」
現国王の父親である先王は子煩悩であったが、息子たちの出自には身分の格差があった。一人目は王妃、二人目は城へ務めていた侍女から生まれた王子だった。
先王は分け隔てなく、二人の息子を慈しんだ。幸いなことに、王妃と愛妾は争うことはなく、子供たちはすくすくと育った。
現国王も血脈を気に留めることなく、庶子である弟を可愛がった。
だが、庶子について先王は憂いていた。
貴族だけではなく、平民の間でさえも、庶子の存在は不当に扱われていた。人権を踏み躙るようなことも多く見受けられる。
親の過ちといえ、この世に誕生した子供に何の罪はない…。先王は今後のことも考慮し、悪習を断ち切らねばと法を改定した。
「婚外子であってもその人権を尊重し、その親は子供を養う義務がある。ただし、家長を継ぐのは嫡出子とする。嫡出子がいない場合のみ、嫡妻の承認があれば、婚外子の継承を認める」
これには議会から強い反発があったらしい。先王は退陣を余儀なくされたが、継承した現国王も庶子に寛大であった。
「もちろんです…。私が身籠ったばかりに…。グルナディーヌ侯爵令嬢に対しては、ただ…。ただ…。申し訳ない気持ちでいっぱいです…」
リンネアはヘンリックの言葉に同意する。
釈然としないスィーリだったが、その後、時間もかけてヘンリックに説得され、身重のリンネアを長時間その場へ拘束している現状に配慮し、スィーリは頷いたのだった。