17 公爵の受難(ヘンリック過去)
リンネアのお腹の子供の父親はヘンリックだと誰も疑わなかった。
学生時代、ヘンリックがヴァイヌの隠れ蓑にされていたことに起因する。
幸か不幸か…。
将来、神に仕えるヴァイヌがリンネアへ心を奪われていると誰も思っておらず、リンネアがヴァイヌの周囲を彷徨いていても、ヘンリック目当てで付きまとっていると皆は推測していたからだ。
「可愛いなぁ…。天使のようだ…。顔立ちはリンネア嬢譲りのようだが…。私も子供の頃、お前の父上を天使と見紛うたものだよ…」
産まれたばかりのトイヴォはヘンリックから見れば赤猿のようだった。難しそうに眉間へ皺を寄せて拳をギュッと握りしめている小さな命…。
愛おしそうに声をかけるスィーリの気持ちが全く分からなかった。
「そうか…」
「えぇ…。閣下…。とても可愛らしいです…。ミナ…。私が抱いても構わぬだろうか…」
スィーリがトイヴォの乳母へ尋ねると、乳母は慎重にスィーリへと赤子を委ねる。
むずかるように身体を小さく動かした後、トイヴォはスィーリの腕の中へとおさまった。大事に片手で抱きかかえ、指先で柔らかな頬を軽く撫でる。
ピクッと驚いたようにトイヴォが弾むので、スィーリは申し訳なさそうに撫でるのを諦めた。静かに身体を揺らしてトイヴォをあやすスィーリ…。
ヘンリックはスィーリの様子を幸せそうに見つめる。リンネアとのことを責めることもなく、ヘンリックと別れず相変わらず側へ居てくれるスィーリには感謝の気持ちでいっぱいだ。
赤子へトイヴォと名付けたのはヴァイヌだ。父親として痕跡を残したかったらしい。
ヘンリックはスィーリへトイヴォの父親のことを打ち明けずにいた。スィーリはトイヴォの父親はヘンリックだと疑っていないだろう。
トイヴォは王家の血筋だ。トイヴォが王家の後継争いへ巻きこまれない保証はない。知らない方がスィーリを煩わせないのではないだろか、ヘンリックが考慮した上での判断だった。
リンネアは産後、めまいや立ちくらみに襲われて一ヶ月ほどベットから離れられなかった。
その間、スィーリは乳母と共にトイヴォの世話を焼いていたのだが、それはリンネアの神経を逆撫でしたらしい。
「あの人も私から離れてしまったのに…。スィーリ様は私から息子さえも奪われるのですね…」
リンネアはトイヴォを胸に抱くスィーリの前でさめざめと涙を流し、時には使用人たちに向け癇癪を起こす。
「あの子を返して!私の子なのです!返しなさい!」
侍女たちへ手当たり次第に物を投げつける母親に子供を託すことはできない。スィーリは可哀想だと思ったが、小公爵の安全を考慮してしばらく母子の対面は控えるように指示した。
「産後で情緒不安定になってらっしゃるのでしょう…。回復するまで見守るしかありませんな…」
医師の言葉に従うも、日に日に言動が酷くなっていくリンネアへ侍女たちは怯えて、しばらくはスィーリが直接リンネアの面倒をみた。
リンネアが暴れて侍女が対応に追われているのを聞きつけては、リンネアの部屋へ足を運ぶ。
「また、いらしたの!貴女様の顔を見るだけで吐き気がするわ!」
リンネアの周囲には室内装飾品は置かれていない。スィーリへ装飾品を飛ばすことはないが暴言は放つ。
「大嫌いっ!あの子は私の子よ!あの子まで私から取りあげないで!貴女なんて…。貴女なんかいなければいい!」
スィーリが近くに寄れば、リンネアは拳を作って殴りかかってきた。
リンネアは衰弱しており非力だ。スィーリが素手でリンネアの拳を受け止めれば、リンネアのが手首を痛めてしまう。部屋に備えつけているクッションでスィーリは防御しながら、リンネアが疲れ果てるのを待った。
「違うのです…。ごめんなさい…。私…。私が悪いの…」
不意にリンネアの動きが止まる。スィーリを仰ぎ、青褪めるとリンネアは謝った。
「いや、貴女は何も悪くない…。産後で気持ちが不安定になっているだけだ…。安心しなさい…。貴女が元気になれば、すぐトイヴォに会わせてあげよう…。そのためにはしっかりと栄養をとらなければな…」
リンネアの乱れた髪を手櫛で整え、スィーリは優しく微笑んだ。
「ふっ…。ごめんなさい…ごめんなさい…」
堰を切ったように泣きじゃくるリンネアの背中をスィーリは撫でた。リンネアが落ち着くまで側で見守る。
「さぁ…。皆、急いで!準備を!」
リンネアの部屋の前で待機していた侍女たちが、スィーリに呼ばれていそいそと動きだす。
「申し訳ありません、スィーリ様…」
「構わない…。私のことは気にするな…」
スィーリは侍女たちと共に、脱力で動けなくなったリンネアへ食事を提供し、入浴させ、身の回りを整えたのだった。
「本当にすまない…。何から何まで…」
ヘンリックは久々に二人で過ごす食事の席でスィーリへ詫びた。
この頃、セレスト王国建国祭の準備で、神殿側から編成された王都シエル警備隊長へヘンリックは任命され忙しくしていた。
身分、技能において聖騎士団でヘンリックの右に出る者がおらず、次期騎士団長としてヘンリックは有力視されていた。この任はヘンリックの統率力を試されていた。
スィーリとの婚姻と同時にオーエンからスプルース公爵の家督を譲られており、ヘンリックには公私ともに休める日がなかった。
「構いません…。閣下こそ、大事ありませんか?」
貴女こそ大変な思いをしているだろうに…。
自分のことは二の次で夫の体調を慮るスィーリにヘンリックは心苦しくてたまらない。
「閣下…。リンネアも少しずつではありますが…。体調が戻ってきました。トイヴォとの面会も増え、落ち着いてきましたし…」
「あぁ…。貴女のおかげだ。感謝しかない…」
「…。そのようなお言葉…。ありがとうございます…。それで…」
口籠るスィーリへ違和感を覚えたものの、ヘンリックは先を促す。
「何か?」
「お願いがございまして…」
「ここまで尽くしてくれた貴女の願いなら何でも聞こう…」
「…。私は…。スプルース公爵領へ移らせていただきたく…」
「な…に…」
スィーリの言葉にヘンリックの表情が強張る。端正な顔立ちが動揺で歪んだ。
「リンネア嬢が…。私にトイヴォを奪われるのではないか?疑心暗鬼になっているようです…」
リンネアの精神状態は快方に向かっていたが、ヘンリックとリンネアの事情を知らないスィーリは、二人のために王都を離れた方が良いと考えていたのだ。
「だからといって、貴女がカントリーハウスへ行く必要はないだろう!」
「いえ…。リンネア嬢は良くなってきてはいますが…。私が側にいることで彼女を苦しめてしまうかもしれません…」
「私は貴女にここへいてほしい!」
「閣下は任務が忙しく、こちらへ帰られることもあまりないではありませんか…。領地視察のため、年に何度かはスプルース公爵領へ赴かれるでしょう?そのとき夫婦として過ごしても時間的に大差はありませんよね…」
物理的にスィーリと距離を置かれてしまうことはヘンリックにとっては耐え難い。王都邸宅へスィーリという大切な存在が待ってくれているからこそ、ヘンリックは激務にも励むことができた。
「私は…」
「閣下、何でも聞いてくださると仰いました。私は領地でスプルースのために身を捧げたいと存じます。少しでも閣下のお力添えさせていただきたく、領地経営に専念したいと…。お許しくださいませんか?」
スィーリの強い眼差しにヘンリックは抗うことができず、スィーリはスプルース公爵領へ引き篭もることになったのだった。