16 王弟からの依頼(ヘンリック過去)
リンネアの産んだ子供はヘンリックの子ではない。この事実を知っているのは、ヘンリック、リンネア、トイヴォの実父であるヴァイヌ、ヴァイヌの父親である王弟の四人だった。
ヘンリックはジョンブリアンを卒業した後、聖騎士団所属の騎士となった。
ヘンリックの父親であるオーエンは国務大臣であり、セレスト王国では宰相に次ぐ地位だったが、幼い頃、スィーリとの対決から剣技を磨いてきたヘンリックは騎士の道を選んだのだ。
因みにオーエン引退後、国務大臣を継いだのは部下のスプルース傍系侯爵であった。
ヘンリックはヴァイヌを学園で見知っていた縁で、彼の護衛を任ぜられた。そのため、ヘンリックはジョンブリアンアカデミーへ5年も通うことになったのだった。
本来であれば、卒業後すぐにスィーリと神殿で挙式を執り行う予定であったが、寮へ住むヴァイヌの警護で彼の傍らを2年は離れられなかったために延期となった。
そのヴァイヌもようやくアカデミーを巣立つ季節がめぐってきた。
その頃だ…。
突然、病床についている神官リース大公の部屋へヘンリックは呼び出された。
大公はヴァイヌの父親である。彼は自身の父親と同じように身分の低い女性と恋に落ちたが、身分違いに悩んだ彼の恋人はヴァイヌを産んだあと、消息を絶った。
リース大公は絶望感に苛まれ救いを求めて神門を叩いた。本来、子のいる父親は神官にはなれないが、子もまた神に仕えるとの約束の下、彼は神官の道が赦されたのだ。
リースの大公の部屋でヴァイヌに咽び泣いている。ヘンリックの姿を認めると強い口調で訴えた。
「すまない!愛するリンネアとお腹の子を危険に晒したくないんだ!勝手なことを言っているのは分かっている…。ヘンリック…。あの子を…。お前の子供として認知してもらえないか…。リンネアを…。お前の愛妾として保護してもらいたい…」
王弟は長く病いを患いベットから起きあがれない。頬がかなり痩けているが、ヘンリックへ送る秋波から色香が漂い、若かりし頃は引くてあまただったという過去も頷けた。
「私の息子が迷惑をかける…。ただ、私も孫を見捨てたくはない。このままだと、第一王子に目をつけられるのは必然だ。子を作らず、神の道へ進むとの約束でヴァイヌは第一王子の目を逸らしてきた。王位継承の意思がない第二王子でさえ、何度も殺されかけている…。頼む、息子と孫を助けてくれ…」
王弟は震えた声を絞りだしヘンリックへ乞う。到底、ヘンリックにとって看過できない内容だ。
「私には婚約者がいるのです…。私はスィーリのことを愛している…。悲しませたくはないのです…」
ヘンリックはもちろん断った。それでもなお、王弟はヘンリックへ縋る。
「…。だが、婚約者殿は割り切った考えの持ち主だと聞き及ぶ…。ヘンリックが訴えれば、リンネアとお腹の子のことを許してくれるのでは…」
「ですが…。スィーリがオレのことを何とも思ってなくても!オレがスィーリの信頼を裏切りたくない!」
理不尽なことを言ってのける王弟へ憤りを感じて、ヘンリックは病人に対して声を荒げた。
「なら、産まれてくる子供の将来はどうなる!死ねというのか?」
ヴァイヌの透き通った蒼い双眸へ黄金の彩りが強く放たれた。王家の血が濃いほど感情に左右されたとき、眼差しは青から金へ変色して輝く。
「それは信用に足る誰かに託せば良いでしょう?別にオレでなくても…」
膝を床につけてヘンリックの外套の裾を掴むとヴァイヌは小さく呟いた。
「頼む…。私とリンネアとの関係を知っているお前に託したいのだ…」
「神官として身を捧げているため、自由になる私の私財は少ないが…。全てを君に差しあげよう…」
リース大公は神官であるので財産は全て神殿へ寄付しなくてはならない。それでも王族である…。暗黙の了解で、多少の蓄えがあった。
「そうだ…。私は神へ奉仕するのだから、父の財産は必要ない…」
「何をバカな…。貴方がたの財産なんて…。オレだって…」
必要ない…。
もし、こんなことでスィーリと破談にでもなったら…。
ヘンリックの握りしめた拳に爪が食いこみ血が滲む。
「何の後ろ盾もないリンネアが一人で子を育てていくのが忍びないのだ…」
「後のことに責任が持てないなら、子供を作る行為などするべきではない!」
ヘンリックはヴァイヌを振り払い叱責する。
「その通りだ…。だが、私はリンネアを愛してしまった…。愚かだとは思う…。だが、この気持ちを抑えきれなかったのだ…。お前だって…。分かるだろう?愛する人を前にして自制が効かなくなること…」
確かにヘンリックもスィーリへの欲情の波に襲われたことがある。だが、ヘンリックは決してスィーリと一線を越えることはなかった。スィーリから軽蔑されたくなかったからだ。
スィーリとの将来が約束されているヘンリックとは違い、ヴァイヌは想い人と結婚することはない。互いに気持ちはあるのだ。ヘンリックはヴァイヌがリンネアへの欲情を抑制できなかった気持ちを汲むことはできた。
たからといって、恋人とその子供を他人に押しつけるのはどうだろうか…。
「子供を…。子供を…。頼む…」
結局、ヘンリックはリンネアとお腹の子供を引き取り面倒をみることになった。
「私は…。君を愛することはない…。スィーリだけなのだ…」
「存じております…。私たちのため苦渋の決断…。感謝いたします…」
しおらしく、リンネアは頭を深く下げた。あの頃のリンネアは殊勝な態度で分別をわきまえていた。
いつからか、リンネアは公爵夫人という肩書きを欲しがった。
自分こそ、スプルースの女主人に相応しいのではないか…。見目に愛らしく人好きなリンネアは社交界でちやほやされて勘違いしたのだ。
リンネアが世間から受け入れられたのは、スィーリの配慮が行き届いていたからだ。
当時、社交界へ影響力のあった兄嫁のグルナディーヌ侯爵夫人、学生から友人であったテラコッタ子爵夫人、交流のあったメイズ男爵令嬢へ手紙を送り、リンネアが社交界でも活躍できるようスィーリが手回しをしたのだ。
スプルース公爵の愛妾として肩身が狭い思いをしないようスィーリは慮ったからだと、ついぞリンネアが知ることはなかったが…。