15 小公爵の休息(ヘンリック現在)
「モフモフーーーー」
前方から一歩ずつ迫るトイヴォから逃れるように銀狼は後向きに歩くも、壁際まで追い詰められ後がなくなる。
トイヴォの指の動きから狼を撫で回そうとする意欲が垣間見えるので、それを警戒しているのだろう。
「諦めろ…」
拗ねたような眼差しでスィーリへ抗議していた狼だったが、スィーリの一言でその場にうずくまる。
スィーリは風呂上がりに狼へブラッシングを行った。銀色の豊かな毛並みは綺麗に整い艶めいていた。
「温かくてフカフカーーー」
トイヴォは狼に飛びつくと首のあたりへ顔を埋めた。無邪気に頬ずりをしている姿は子供へ戻ったかのようだ。
狼は眉間へ深い皺を刻み、苦悶の表情でじっと耐え凌ぐ。
ヘンリックが失踪した後、トイヴォは当主代行として領地管理などに携わった。オーエンが老体に鞭を打ってトイヴォを補佐したが、それでもまだ学生であるトイヴォには当主代理は大変であった。
スィーリとの再会に肩の力が抜けたのだろうか…。家人は誰も責めなかったが、義母を追い出したのは自分のせいだと常にトイヴォは悔やんでいた。
トイヴォに対して何のしがらみも抱いてないスィーリの朗らかな笑顔に心が温まる。
机の上に野菜がごろごろ入ったスープを置くと、スィーリは視線でトイヴォへ席に着くよう促した。
「お湯はどうだった?」
トイヴォの拘束から解放された狼は身体をブルっと震わせた。一陣の風に吹かれ波打つ稲穂のように毛並みがうねる。
頬を膨らませ非難めいた表情でトイヴォはそれを認めたが、すぐにスィーリへ視線を移す。
「気持ち良かったです。生き返りました…」
「爺むさいな…」
トイヴォの物言いに目元へ皺を寄せてスィーリは苦笑した。
「心なしか、肌艶も戻ったような…」
「そうだろ?コイツの傷が塞がった頃、桶にお湯を張って浸からせたんだが…」
獣であっても、男女別の設定が起動したら別の場所に転送されるかもしれない。スィーリは狼が脱衣所にある魔法陣を踏み、あの洞穴から帰ってくると思えなかった。
そこでスィーリは何度も温泉と魔法陣のある部屋を往復して大きな樽へ湯を溜めた。狼は抵抗することなくスィーリに従い湯船へ浸かった。
「マッティが見つけた温泉だけあって、傷跡がすぐに消えたんだ…」
遠い昔、剣の稽古中に兄へつけられたスィーリの肩の古傷は薄くなっているものの残っていた。日の浅い傷跡には特に有効なのだろう。
「凄いですね…」
「近隣の村人にも希望があれば貸しているんだ…。仕事で荒れた手指がスベスベになったり…。肩こりが治ったり、膝の痛みが和らいだとか…。過去、事故で小指の先を無くしたコノル爺さんは欠損までは治らなかったが…。潰瘍痕の表面は滑らかになっていたなぁ…」
ここは魔獣の森の結界を管理するために作られた小さな家だ。人里から離れており、行き来するには不便な場所である。
ヘンリックと離縁した後、現在のグルナディーヌ侯爵である長兄オスカーは領地の邸宅で暮せば良いとスィーリへ勧めた。
兄の厚意は嬉しかったが、義妹が共に住めば兄家族へ気を遣わせてしまうと配慮したスィーリは、領地の端に位置する魔獣の森近くの小屋で暮らしたいとオスカーへ伝えた。
時折、結界へ綻びが発生するので近くに管理者が定住した方が迅速に対応ができる。
マッティの開発した魔法陣は紙へ描かれたものだが、少しの魔力を流せば簡単に結界の修繕が可能だ。
銀色の狼に出会したのは、結界周囲を巡回中に亀裂を発見してマッティの開発した魔法陣を取りに家へ戻り、結界を修繕した後のことだ。
魔獣の森には野生動物も生息する。スィーリが家に戻るまで目を離した隙に結界の隙間から領地内へ逃げこんだのだろうとスィーリは推測していた。
因みにスィーリの父のヴァルッテリは息災で、スィーリが離縁したとき、スプルースへ領地戦でも申し出しそうな勢いで怒り心頭に発したため、家族一丸となって宥めるのに苦労した。
スプルース公爵家とは理性的なオスカーの手腕おかげで今でも良好な関係を築いている。
「おっ美味しい!この野菜は何なんですか?」
「ただのタマネギだな…」
「むっ!知ってますよ!すごく甘くて美味しい!」
長い時間を経て再開したことを感じさせないほど、トイヴォはスィーリに打ち解けている。
いつの間にか近くまで来ていた狼がスィーリの足元で身体を擦り寄せる。
「お前も欲しいのか?狼は知らないが…。犬には毒だそうだよ…。あとで干し肉ときゅうり…。今日採れたてのトマトもやるから待ってくれ…」
「僕も…。トマト、食べたいです…」
「ははっ…。うちのトマトは村人にも評判でな」
スィーリが赴任した当初、前当主ヴァルッテリに恩義のある村人たちは大地の恩恵を手土産にスィーリのことを心配して足繁く通っていた。
今ではスィーリの作った野菜や果物を目当てに来ることもある。スィーリの野菜作りには定評があった。
「ありがとうございます」
「どういたしまして…。トイヴォの食べっぷりは気持ちが良いものだよ。いっぱい食べなさい」