12 公爵の初恋(ヘンリック過去・少年期)
ヘンリックは幼い頃から、スィーリ一筋だった。
ヘンリックは初めてスィーリと出会った日を鮮明に覚えている。
7歳のヘンリックが父オーエンに連れられ馬車で行き着いた先はグルナディーヌ侯爵領へ広がる葡萄畑だった。
目にしみるような青空の下、なだらかな丘陵へ青々とした葉が茂り風に揺れる。
当時、王都に住んでいたヘンリックはスプルース公爵領以外へ出向いたことがなく、グルナディーヌ領で見るものは全てが新鮮で感動していた。
畑の間から二つの人影が出てきた。
「お父様…。あの美少年は天使ですか?」
突然、目の前に現れた少女は大きな声で傍らの熊のような大男へ尋ねた。
その少女の瞳は若葉が萌ゆるような瑞々しい緑色をしていた。凛とした眼差しがヘンリックを見つめる。日に焼け溌剌とした肌、緩やかにカーブを描く豊富な金髪…。
少女の名前はスィーリ・グルナディーヌ…。
グルナディーヌ侯爵であるヴァルッテリに伴われ、葡萄畑へ視察に来ていた9歳のスィーリだ。
「スィーリ、お前の婚約者だ…」
ヴァルッテリがスィーリへ答える。子猫のような大きな目を瞬かせながら、白い歯を見せてスィーリは言った。
「君が私の婚約者?私なんかでいいのか?」
スィーリの遠慮のない物言いに対して、ヘンリックは呆気に取られる。
ヴァルッテリはスィーリの頭を片手で掴み、無理矢理に下げさせた。
「おい!こらっ!小公爵になんて口の聞き方をしてる!申し訳ない…。妻と死に別れた寡が手探りで育ててきたものでして…。誰に似たのか、自由奔放な娘になってしまいました」
「それはお父様に決まっているではないですか?」
父親の拳骨が飛んでくるのをスィーリは踊るような足取りで可憐に躱す。
「だって、お母様は穏やかで品のある方だったのでしょう?」
オーエンは快活に話すスィーリを気に入ったようだ。
「元気が良いのは何より…」
「僕の婚約者は猿なのですか?」
オーエンは渋い顔をしてヘンリックを見下ろしたが、言葉とは裏腹に息子の耳が赤く染まっているのを認めて、素直ではないなと苦笑した。
ヘンリックは旅の目的を予め父から教えてもらっていた。
婚約者に会いに行くのだと…。
スィーリはヘンリックが想像していたよりもずっと笑顔の愛らしい少女で、跳ねあがる動悸を誤魔化すために出てしまった言葉だ。
グルナディーヌは騎士一家で武勲を重ね、王より領地を下賜され、侯爵まで成り上がった一族である。
ヘンリックはスィーリの兄ニーシャと馴染みがあり、眉毛の太い凛々しい顔を見知っていた。
その妹が婚約者へ内定されたと父親から告げられたとき、筋肉隆々な勇ましい令嬢を思い浮かべていたのだ。
「はぁ?お父様…。ぶちのめしても構いませんか?」
物騒な言葉を告げる娘へヴァルッテリは眉を顰めた。
「いやまぁ、お前の怒るのも無理はないが、やめなさい。小侯爵はまだ幼い…。小侯爵よりもスィーリはお姉さんなんだから…」
「そうですね…。こんな小さな少年に対して喧嘩を売るなんて私としたことが…。弱い者イジメになってしまう…」
二つ年上のスィーリは見た目もヘンリックより体格が大きく、幼い頃からヴァルッテリの指南を受けており実力も申し分ない。
「なっ!僕が負けるわけないです!この間から剣術を学びはじめて筋が良いと褒められたんだから…」
売り言葉に買い言葉で息子の無謀な挑戦をオーエンは窘める。
「息子よ…。無理は禁物だ…。グルナディーヌ侯爵、愚息が大変失礼を申し上げた」
オーエンがヴァルッテリへ謝罪するも、ヘンリックは意を介さず進言する。
「父上、何をおっしゃいますか?私は勝てます…」
格上のスプルース公爵家からスィーリへ婚約の話が舞いこんだとき、ヴァルッテリは悩んだ。
スィーリはお転婆と言うよりも、破天荒と表現した方がしっくりくる少女だ。将来、スプルース公爵夫人の肩書を担うには荷が重いだろうとヴァルッテリは考えていた。
オーエンへ素のスィーリを見てもらおうと、視察中の型破りなお見合いをヴァルッテリは試みたのだが、かなり裏目に出たようだ。
子供たちがお互い名乗りもせず、出会い頭、喧嘩を始めるとは想像だにしなかった。
「…」
「…」
父親二人は顳顬へ手を当ててどのように仲裁するべきか悩むも、親の心子知らず、子供たちだけで話を進める。
「じゃあ、仕方ないな…。勝負しよう…」
「負けないからな!」
そして、ヘンリックはスィーリによって完璧に惨敗した。だが、その勝負に負けたことでヘンリックの闘争心が向上心へと変わり、いつしか王国一の騎士として名を馳せるようになったのだった。
一方、オーエンの眼鏡にかなったスィーリは、その後ヘンリックとの婚約が正式に決まり、スプルース公爵家の紹介で採用された家庭教師がグルナディーヌ邸宅へ住みこむことになった。わんぱくが過ぎるスィーリへ徹底的に淑女教育を叩きこむためだ。
途中、スィーリは何度も挫けそうになった…。
授業の合間、スィーリの父ヴァルッテリは娘の剣の資質を認めて指導を続け、次兄のニーシャは騎士道とは何かを妹へ説いた。
家族と大好きな剣術を学んでいたからこそ、スィーリは窮屈な淑女教育にも逃げださず最後まで取り組むことができた。




