1 公爵の失踪(スィーリ現在)
「父がこちらにお邪魔していませんか?」
初夏、西へ傾きかけた太陽を背に青年はスィーリに問いかけた。顔は逆光で見えなかったが、青年だとスィーリが思ったのは、声音に張りがあり若さを感じたからだ。
「どなたであろう…。貴殿の父上を私は知らない…」
スィーリは陽光を浴びて黄金煌めく髪を一つに束ねていた。翡翠のように澄んだ瞳を細め、眩しそうに瞬かせ青年を観察する。
「大変失礼いたしました。私はスプルース小公爵です。トイヴォ・スプルースと申します。父はスプルース公爵でして…。ご存知かとは思いますが、ヘンリック・スプルースです…」
トイヴォは胸に手を当て会釈する。口調から察するにトイヴォは少し緊張しているようだった。
レモンバームの群衆の間へ植えたトマトが熟して収穫を待ち侘びていた。真っ赤なトマトは宝石のように輝いている。
トイヴォに名を告げられ、スィーリの思考は一瞬だけ止まっていたが、恐る恐る口を開く。
「まさか…。君は…トイヴォか…。また…。大人になったものだ…」
汗が滲んだ額をスィーリは手で拭いとる。先程までトマトとは離れた場所でトウモロコシを植えるため土作りをしていた。
自身が激しく動揺していることにスィーリは気づいた。
土まみれの軍手で顔を拭くとは…。きっと、見苦しいに違いない…。
トイヴォはスィーリへ近づくと胸元からハンカチを差し出す。その行動のおかげで、トイヴォを照らす日が斜めへ移り、スィーリは彼の顔を確認することができた。
「君のハンカチが汚れてしまう…。気持ちだけいただこう…」
少し長めのブルネットの前髪の合間から、トイボォは海の輝きを思わせる美しい瞳を覗かせる。
しなやかな体躯をしており、随分と勇ましい青年へ成長したものだとスィーリは感心した。
「先ほどの質問だが、君の父上はここにいない…。君は知らないことだろうが、私たちが離婚したとき誓約を交わしているんだ…。だから、彼がこの地へやって来ることはない…」
スィーリは立ちあがる。平然とした態度を装いトイヴォの問いに答えた。
「そう…なのですか?」
トイヴォは首を傾げる。スィーリはトイヴォの仕草が不思議でならない。
トイヴォの父親はスィーリの元夫だ。離縁して既に7年になる。
何故…。ヘンリックがここにいると考えたのか…。
「彼はいなくなったのか?」
スィーリはトイボォの質問から元夫ヘンリックが失踪したのだと思い至った。
「えぇ…。半年前に忽然と姿を消したのです…」
ヘンリックは生真面目な性格の男だ。彼の職である聖騎士団長の任務を放棄して自らの意志でいなくなったとは考え難い。事件に巻き込まれたと考えるが妥当だろう。
スィーリは表情を曇らせる。
実力は確かな男だから…。死んではいないだろうが…。帰れない事情があるのか…。
スィーリの憶測は都合の良い解釈に過ぎない。だが、ヘンリックが死亡するなど、スィーリには考えも及ばなかった。
「それは…。お気の毒に…。君の母君はご息災か?心配されているだろう…。この件で伏せってなどいないだろうか…」
トイヴォの母であるマリーを慮り、スィーリが告げた言葉であったが、トイヴォは唇を噛み締め押し黙った。
「…」
スィーリがヘンリックの正妻であったときに、マリーはヘンリックの愛妾であった。
幼い頃に結ばれた契約に則り、ヘンリックの妻となったスィーリは、ヘンリックとマリーにとって恋路の障害でしかなかった。
「いらぬ…。心配だな…」
スィーリはきまりが悪そうに顔を逸らす。トイヴォは慌てて声をあげた。
「違うのです…。父上が行方不明になる前から、私の母は出奔しておりまして、今…。どこで何をしているのかも分からないのです」
「…」
今度はスィーリが言葉を失う。スィーリが身を引けば全てが上手く巡ると信じていたからだ。
「母の方は書置きを残しておりましたので、母の護衛を務めておりました騎士と駈落ちをしたのは分かっているのですが…」
トイヴォは申し訳なさそうな面持ちで簡略に説明した。
その後、ヘンリックは逃げた二人を探すこともしなかったとトイヴォが補足する。
「それは…。君も大変だな…。私のせいかも知れぬな…」
過去、マリーという存在を知りながら、ヘンリックと婚姻を結んでしまったスィーリは自分を責めた。
「まさか…」
マリーは婚約者がいた男に恋煩い身籠り、しかも、その座を奪ったあげく不貞を働き、夫を捨てた女である。
「すまぬ…」
スィーリがしみじみとトイヴォへ視線を向ける。スィーリの胸の内には感慨深い気持ちが込みあげていた。
「不謹慎かもしれないが、それでも、君が成長した姿が見れて喜ばしい…」
トイヴォはスィーリの懐の深さに驚き、笑みを浮かべて率直な気持ちを述べた。
「貴女は変わりませんね…」
「そうか、幾分、歳をとったが…」
軍手を脱ぎ、スィーリは服についている土埃を払う。泥に塗れた自身の姿は、トイヴォに対して礼を欠いていたと反省する。
「母上…。貴女はいつまでも美しくいらっしゃる…」
トイヴォが照れながらスィーリへ告げた。
「あんなことがあったのに…。いまだ私を母と呼んでくれるのか?」
「もちろんです…。私の方こそ、不躾で…」
後頭部を掻くそのトイヴォの姿に、スィーリは彼の幼かった頃の面差しを重ねた。
「立ち話もなんだ…。もし、君さえ良ければ、お茶をご馳走しよう…。その…平気か?」
人好きのする爛漫な笑顔でスィーリが尋ねると、今にも泣きそうな表情をトイヴォはみせた。
「私は…。僕は…。あのときも…。今でも貴女が僕の毒殺を目論んだなどと思ってませんよ…」