五月十七日 金曜日 22時 (1)
5
「お疲れ様で~す! じゃ、ごめんけど市橋ちゃん残りよろしく~!」
同僚の原が冒頭の捨て台詞を言い放ち、逃げるように帰ったのはもう四時間前のこと。
育児で時短勤務中の上司の西田はいつも通り17時前には退勤したし、あやめに無関心な先輩二人も19時頃に「お疲れ様」とぶっきらぼうに言い残してオフィスを出ていった。
「やっと終わった……!」
一方で、原から任された仕事をあやめが終わらせたのは22時を過ぎた頃。
あやめが勤務する六階フロアは、あやめが属する西田チーム以外にも複数個チームがあるが、今はもう全員退勤した後だ。
ぽつりとあやめのデスク周りだけ照明がついている。
今週も残業続きの日々を乗り越えなんとか迎えた金曜日。
ポーチやスマホ、ファイルを鞄にしまいながら、ふと思い出す。
(そういえば、あの中華料理屋に行ったのも金曜日だったな……)
帰り道を間違え、胡散臭い男がいるシャッター商店街の中華料理屋でご飯を食べたのがちょうど一週間前だ。
仕事に追われる毎日を送っていたので、遠い昔の出来事のようだとあやめはぼんやり考える。
肩凝りのマシな左肩に鞄をかけ、フロア入り口の電気パネルを操作する。
申し訳程度についていた電気を全て消し、フロア出入り口の鍵を閉めた。
(思い出したら、誰かの手料理が食べたくなってきた)
暗闇から逃れるようにエレベーターホールへ向かいボタンを押す。
人の出入りがほとんどない夜のエレベーターはすぐにドアが開き、乗り込むのと同時にあやめは「二階」ボタンと「閉」ボタンを同時押しした。
あやめの勤める会社は七階建てのビル全体がオフィスで、各フロアの鍵を管理している本部は二階にある。
他の階に止まることなく二階でエレベーターから降りたあやめは、疲れた体を引きずって本部のドアを開けた。
「お疲れ様です」
受付には誰も座っておらず、あやめの疲れきった挨拶だけが響いた。誰にも返事をしてもらえない挨拶ほど悲しいものはない。
(……良い匂いがする。なんだろう?)
返事が返ってこない虚しさから抜け出したあやめが気づいたのは、インスタントラーメンのような良い香りだった。
鼻腔を擽るジャンキーな匂いは、あやめのお腹を鳴らそうとしてくる。
空腹を知らせる間抜けな音が鳴らないようお腹に力を込めて、今度は受付と裏方を仕切るパーテーションの向こうに声をかけた。
「すみません! 鍵を返しに来ました!」
「はいはい、ちょっと待ってくださいね」
パーテーションの裏から返事が聞こえてしばらく、人の良さそうな顔をしたおじさんがひょっこりと顔を出した。夜間の警備員の方だ。
「ごめんね、気づかなくて」
「全然大丈夫です。お疲れ様です」
「そちらこそご苦労様。いつも遅い時間まで大変だねぇ」
この一ヶ月、残業ばかりで鍵を返しにいくことが多かったあやめは、自然と夜間警備のおじさんと顔馴染みになっていた。
おじさんはあやめから六階の鍵を受け取ると、ふと顔を上げた。
「そうだ、夕飯はもう食べた?」
「いえ、まだ……」
「じゃあちょっと待ってて!」
「はぁ……」
あやめの返事も聞かず急いでパーテーション裏に隠れてしまったおじさんに、とりあえず曖昧な返事を返しておく。
「これ良かったら」とおじさんが手に持ってきたのはインスタントラーメンだった。
やはり、このフロアを占拠している暴力的に空腹を刺激する匂いはインスタント食品らしい。
「出勤前にコンビニで余分に買ってしまってね。余ってるから良かったら一つどうぞ」
「ありがとうございます」
「疲れてる時は自炊も面倒だよねぇ」
「そうですね、お腹減ってたんで助かりました」
「お腹が空くならまだ頑張れる証拠だね! 来週も頑張って!」
おじさんの悪意ない一言に思わず言葉が詰まる。
そっか。お腹が空くなら、まだ限界じゃないってことなんだ。これより辛くても、我慢しなきゃいけないんだ。
お腹の底がずっしりと重くなるのを感じる。
(私の頑張りなんてまだまだなんだ……)
ぼうっと目の前のインスタントラーメンを見つめていると、おじさんが不思議そうな顔で見ていることに気づく。
そっと両手で無機質なカップを受け取り、慌てて笑顔を浮かべてお礼を言う。果たして、うまく笑顔を作れていたかは分からないけど。
「お疲れ様です」と互いに挨拶をして、あやめは再びエレベーターに乗り込んだ。
おじさんから貰ったインスタントラーメンとしばらく見つめあっていたらすぐに一階でドアが開く。
カップを潰してしまわないよう鞄にしまいながら、エントランスへ足を進める。
自動ドアを抜けると、湿った夜風が肌を撫でる。明日は雨が降るんだろうか。
(今はお湯を沸かす気力もないな……)
じめじめした空気に逆らうように、重たい足を自宅へ進める。
会社から自宅までの徒歩二十分は、疲れた体にはかなりの重労働だ。
(一人暮らし始めてから、インスタントか惣菜に頼りきりだし……)
生活費を少しでも節約するため借りている安いアパートのキッチンはまな板も置けないほど狭く、結局ほとんど調理した惣菜やお湯だけで何とかなるインスタント食材に頼っていた。
さきほど警備員のおじさんにもらった担々麺のインスタントも、一昨日家で無気力に啜ったばかりだ。
(今日はあの中華料理屋、やってるのかな)
不定期に営業していると言っていたシャッター商店街にある中華料理屋を思い出す。
ちょうど一週間前の金曜日は21時過ぎだったけど、22時過ぎの今でもやってるんだろうか?
遅すぎてもう閉めている可能性も考えながら、それでもあやめの心は温かい手料理に揺れ動いていた。
(ちょっと遠回りになるけど、帰り道だし……行くだけ行ってみよう)
思い出したら急に中華料理の口になってきたあやめは、一か八か一週間ぶりにシャッター商店街へ歩き始めた。
「電気ついてる!」
商店街の入り口まで歩いてきたあやめは、真っ暗な中一つだけ光が漏れる店に思わず弾んだ声が出る。
最初に迷い込んだ時のような不気味さは感じず、ただ中華料理屋の光に引き寄せられるように足を進めた。
一日中働いてへとへとの体を引きずりながら煌々と光る中華料理屋の看板を見上げる。一週間ぶりだ。
店の全貌が見える大きな窓から中の様子を伺う。
優しさと胡散臭さを併せ持つ不思議な男の姿は見つけられなかった。
看板は眩しいほどに光っているけれど、営業していると分かる札や貼り紙はどこにもない。
(お兄さんもいないし、「営業中」とも書かれてない……勝手に入っても良いのかな?)
一分ほどだろうか。ぼうっと店の前であやめが突っ立っていると、厨房から大きな影がするりと姿を現した。
すらりとしているが体格の良さが分かる長身、濃紺の中華服、涼やかで何を考えているか分からない美しい顔。
間違いない。先週あやめに美味しい酢豚を振る舞い、親切にしてくれた男だ。
思わず店に近寄ったあやめの気配に近づいたのか、男がすぐに窓に目を向ける。
切れ長の目で睨むように視線を寄越した男だったが、窓の外にいるのがあやめだと分かった途端、能面のように無表情だった美しい顔にぱっと笑顔を浮かべた。
「晩上好!」
すぐに店の自動ドアから出てきた男は、明るい声であやめに話しかけた。
(ワンシャンハオ、って確か中国語で「こんばんは」だったよね)
先週、店内で料理を待っている間に調べた知識を思い出したあやめは小さい声で男に挨拶を返す。
「わ、わんしゃんはお……」
「今日も死にそうな顔してるヨ! 何か食べていく?」
あやめの下手くそな挨拶に目尻を和らげた男は、今日もオブラートに包むことなくあやめの顔色の悪さを指摘した。
思わず苦笑したあやめだったが、お店がやっていることにホッとする。誰かの温かい手料理が食べられる。
「迷惑じゃなければ、是非」
「全然迷惑じゃないヨ! どうぞ、今日もお疲れ様」
ゆるりと笑みを浮かべて店内へ戻っていく男の後を追い、あやめは自動ドアを潜った。