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3/23

五月十日 金曜日 21時 (3)

3


(じゃあやっぱりお兄さんは中国人なのかな?)


男が中国人だと考えれば色々な疑問点に合点がいく。

怪しさを助長させるカタコトな日本語も、中華料理屋を営んでいることも、中華服を着ていることも。




「お待たせだヨ〜」


スマホを触っていたら思いの外時間が経っていたのか、男が料理の乗ったお盆を片手で軽々持ちながら厨房から歩いてきた。


店内中に良い香りが漂っていることに気づく。


あやめは慌ててスマホを膝の上に隠す。

パンプスも脱ぎ料理も運ばれてきた上で警戒するのはもう手遅れだが、一応いざという時の連絡手段は必要だ。


「わぁ! 美味しそう!」

「もちろん美味しいヨ〜」


目の前に丁寧に置かれたお盆の大皿の上には、出来立ての酢豚が山のように盛り付けられていた。

定食についてくるサラダや小鉢、スープもお皿いっぱいに盛られている。


(330円でこんな大盛り、ますますどうなってるの!?)


値段からは想像できないほどの大盛りに恐れ慄くあやめを気にもせず、「あったかいうちにドウゾ」と男はサンダルを脱ぎながら促す。


そのまま掘りごたつに足を突っ込みあやめの向かいを陣取った男に、あやめはきゅうりを見せられた猫のごとく飛び跳ねた。


(え!? まさかここで私が食べるとこ見てるの!?)


ちらりと上目遣いで男を見るも、男は全く気にした様子はなく「ホラホラ、早く」と両手であやめに催促する。


(断りたい……けど怖くて断れない! 私のチキンめ!)


いつまでも料理に手をつけないあやめの様子を見て少し考えた男は、「このお店ね、」と話し始めた。


「このお店お客さん全然来ないから、お姉さんが来てくれて嬉しいヨ!」

「はい」

「だからお姉さんが食べてる間、ここで一緒におしゃべりしても良い?」

「はい……はい!?」


やっぱりお客さん全然来てないんだ。ていうか私も無理やりお兄さんに連れ込まれたようなるものだし。と適当に相槌を打っていたせいで、会話の急カーブについていけなかったあやめは男のとんでもない申し出にうっかり頷いてしまっていた。


目の前で「ヤッター!」と無邪気に喜ぶ男に今更断る勇気もなく、あやめはお盆に乗せられている美しく触り心地の良い箸をのろのろと手に取った。


「じゃあ、いただきます」

「ハイ、どうぞ」


箸を酢豚に伸ばしながら、ふと気づく。


(一人暮らししてるから、挨拶に返事が返ってくる感じ久しぶりだな)


その妙なむず痒さと暖かさを感じながら、ソースがたっぷり絡まった艶やかな豚肉を箸で掴んだ。

 

330円という怪しいほど格安な定食の酢豚。味が微妙なことを覚悟して、あやめは一気に口に放り込んだ。


「……! 美味しい!」


甘酸っぱいソースが口いっぱいに広がる。ごろっと大きな豚肉も肉厚でジューシーだ。肉塊は噛めば噛むほど旨味が出てきて、程良い歯応えはありながらすんなりと噛み切れる。


(値段の割に、どころか今まで食べてきた酢豚の中でも特に美味しい!)


目の前に初対面の男が座っていることすら忘れて、あやめは夢中で料理を食べ進める。


サラダの野菜も新鮮だし、ドレッシングもピリ辛で美味しい。

中華料理に詳しくないあやめには料理名など見当もつかないが、小鉢のお料理もさっぱりしていて、いくらでも食べられそうだった。

スープは疲れ切った体に染み渡る温かさと、優しい薄味であやめは思わずほぅ、と息を吐いた。


一通り箸をつけ終わったあやめは、そこでようやく男の存在を思い出した。


「美味しいです! とっても!」

「そう、それは良かった」


あやめは自分の語彙力のなさを恥じながら精一杯感想を伝えると、男は先ほどまでの胡散臭げな笑みとは全く別の穏やかな笑みを浮かべてあやめを見ていた。

あやめの拙い感想に答える声は、慈しむような柔らかさを湛えている。


男の優しい表情を目の当たりにしたあやめは一瞬フリーズした後、心に染み渡る温もりに思わず涙がこぼれそうになる。


入社した四月から、家と仕事場の往復ばかりで誰とも連絡をとっていなかったあやめにとって、人の優しさに触れるのは実に一ヶ月ぶりだった。


とっさに顔を伏せて、涙で潤んだ瞳を隠す。

男にしても、初対面の女が急に泣き出したら怖いだろう。


「ご飯いる?」

「あ、じゃあ……ちょっとだけ」

「ちょっとだけネ! 任せて」

「すみません、最初から頼んでおけば良かったですよね……」


脱いだばかりのサンダルに再び足を突っ込んだ男に、あやめは思わず謝罪をする。


「なんで? 全然謝ることじゃないヨ」


男は嫌な顔一つせずにこりと笑いかけると、鼻歌と共に厨房へ引っ込んでいった。


(優しい人だなぁ……料理も美味しいし)


男の優しさに触れるたび、疑っていた自分に嫌気がさす。

万が一のため、と膝の上に乗せていたスマホも「お前は人を疑いすぎだ」と無言であやめを責め立てた。


白米を少しだけ盛った茶碗を持って再びあやめの前の席に座った男は、料理を食べるあやめをまた笑顔で見つめ始めた。


(ずっと見られてるの気まずい……!)


話したいから座っても良いかって聞いてきたのお兄さんだよね? 一言も喋らずに笑顔で佇んでるだけなの、逆に怖いよ。

 

男が無言なら、自分が話題提供するべきか? と盛り上がりそうな話題に頭を悩ませるあやめだったが、どこを突いても怪しい回答しか得られなさそうな風貌とここまでの経緯に、会話の糸口が見つけられない。


(会話は諦めて食べることに集中しよう……気にしない、気にしない)


ありとあらゆる話題を考えたが話が盛り上がるイメージが浮かばなかったあやめは、会話を諦めて食べることに専念した。

目の前でにこにこ笑みを浮かべているだけの男はいないものとして、ただひたすらに食べ進める。


順調に食べていたあやめだったが、酢豚が残り三分の一程度のところでついに箸が止まってしまう。

 

お昼におにぎりを一つ食べたきりだったので空腹ではあったが、さすがに山盛りの酢豚やおかず、スープを食べ切れるほど大食いではなかった。


「もしかしてお腹いっぱい?」

「はい、すみません……」

「謝らなくてもいいヨ!」


あやめの食事風景をじっと見つめているだけだった男は、残った酢豚が乗った皿をお盆ごとひょいと持ち上げた。


残してしまった罪悪感からあやめは謝るが、男は気にした様子もなく「満腹になったならワタシも嬉しいヨ!」とサンダルに足を突っ込んだ。


「そうだ! 残りは持ち帰る?」

「え、良いんですか?」

「勿論」

「じゃあ、ご迷惑じゃなければお願いしたいです」


可以(クァイー)! すぐ用意するから待っててネ〜」と朗らかに返事をした男は厨房に引っ込んだ。


男が準備をしている間にスムーズにお会計ができるように鞄の中の財布を漁る。


「お取り込み中すみません。ここってクレジットカード使えますか?」

「支払いは現金だけでお願いしてるヨ!」

「あ、了解です」


普段キャッシュレス決済しているあやめは慌てて小銭入れを開けるが、小銭は殆ど入っていない。

 

ここで払えないなんてことになったら臓器売買ルートでは? とまだとんでもネガティヴ思考を捨てきれないあやめは財布をひっくり返す。


(あった、千円札!)


机にひっくり返した小銭をかき集め、財布をカバンにしまいパンプスに浮腫んだ足を詰め込む。


いくらキャッシュレスで便利な時代になったといえど、不測の事態はいつ起こるかわからない。なんなら今起きたばかりだ。


(これからはもうちょっとお財布に現金入れておこう)


自動ドア付近にレジカウンターが置いてあるのを見つけ、財布から探し出した千円札を握りしめてレジ前で待機する。

 

数分もせず、ビニール袋にタッパを入れた男が厨房から出てきてあやめの待つレジカウンターにのんびり歩いてきた。


「お待たせ〜。お会計330円ネ」

「1000円でお願いします」


レジカウンターに乗っている美しい赤い革製のキャッシュトレイに、恐る恐る千円札を乗せる。


(ぼったくりではなく、本当に330円……?)


当初の疑いを拭いきれず、ちらりと男を見上げる。

何度見ても背が高い。180センチはゆうに越しているだろう。

 

服を着ているので断定はできないが体格も良く、動きにも無駄がない。

モデルとして雑誌に載っていてもなんの違和感も抱かないだろう。


「670円のお返しだヨ」

「あ、ありがとうございます」


男はお釣りをキャッシュトレイに置かず、あやめに手を差し出してくる。


思わず右手を出して小銭を受け取ると、男は小銭を渡しながら両手で優しくあやめの右手を包み込んだ。


(な、何この状況!? 私どうすればいいの!?)


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