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五月十日 金曜日 21時 (2)

2


聞き取りやすい低く穏やかな男の誘い文句が、あやめをますます混乱へ突き落とした。


窓越しに店内を見回すも、客は一人も見当たらない。

絶対にやばい店だ。


「実は今、あんまりお金持ってなくて……」


嘘は言ってない。

安月給で働いているあやめは、一人暮らしの家賃や光熱費、最低限の食費でほとんど給料が飛んでいってしまうのだ。

優雅に中華料理を食べているお金はない。


すると男はこれまたにっこりと、美しく怪しい笑みを深くした。


そして、男の胡散臭さにビビりながら事実を告げたあやめの勇気をへし折るように口を開いた。


「それなら大丈夫ヨ! 定食330円だからお財布にも優しいネ!」


「どう?」とますますあやめに顔を近づける男に、あやめは思わず一歩後ずさる。


(どうって言われても……安すぎて逆に怖いよ……)


「で、でも……」

「味も美味しい! ワタシの命にかけて保証するヨ」


また一歩近づいてきた男。

眼前いっぱいに広がる美しい男の怪しい笑顔。


(ここまで言われたら断れない……)


人の頼みを断るのが苦手なあやめは、男のゴリ押しについに頷いてしまった。

残業続きでそれ以上抵抗する気も起きなかった。


(どうかぼったくられませんように)

 

あやめは頭の中で財布にいくら入っていたか思い出そうとするが、基本キャッシュレス派なので財布の中身が全く思い出せない。


払えなかったら肉体労働だろうか、それとも臓器を……!?

 

そんなあやめのスーパーネガティヴ思考などつゆ知らず「入って入って〜」と楽しげに店内へ入っていく男。

男の足取りとは裏腹に、あやめは恐る恐る明るい店に足を踏み入れた。




店内は大きな円卓が一つと、四人掛けの掘りごたつ席が三つあった。

カウンターから覗く厨房は、とても広く見える。


「どこでも好きな席座って〜」

「あ、じゃあ掘りごたつで」


何があってもすぐ逃げられるように、あやめは自動ドアから一番近そうな掘りごたつ席の一つを選んだ。

 

パンプスを脱いで、掘りごたつに足を入れる。パンプスで締め付けられていた足に血が巡り、一気に仕事から解放された実感が湧く。


(って、しまった! 素足だと咄嗟に逃げられないじゃん!)


開放感から束の間、一気に絶望感に襲われるあやめ。


男は先ほどまで自分が座っていた円卓の上から何かを取ると、あやめの目の前に「ドウゾ」と差し出した。

「ドウモ」と釣られてカタコトになりながら受け取ったあやめは、手の中のクリアファイルに目を移す。


A4用紙が数枚挟まれた薄い冊子状のファイルの表紙には「メニュー」とだけ書かれていた。


「頼みたいモノ決めておいて」

「は、はい」


男は席についたあやめに背を向けると、足音も立てず厨房へ入っていった。


人を操る魔力でも込められていそうな心地よい男の声に思わず返事をしてしまったあやめは、慌ててメニュー表を捲る。


「定食、本当に全部330円だ……」


表紙を捲ってすぐのページに書かれていた定食は、男の言った通り本当に全て330円だった。


選べるメニューもエビチリ、カニチャーハンに回鍋肉、酢豚に麻婆豆腐など種類豊富で、さらにサラダと小鉢二つ、スープやデザートもつくと書かれている。

「無料で白米もつけられます」の文字をみつけたあやめはもう一度値段を確認したが、やはり何度見ても330円。


次のページに書かれていたのは「飲茶セット」。

セット内容は定食代330円にプラス200円することで、小籠包や水餃子、蒸し餃子などの好きな飲茶をせいろ二枚分つけられるらしい。


何度考えたって、価格設定がおかしい。


あやめは怖いもの見たさでページをペラペラと捲っていると、「フカヒレの姿煮」と書かれているのを見つけた。

1000円とだけ書かれている。


(フカヒレ食べたことないけど、1000円で食べられるわけなくない!? 高級食材だよ!?)


あやめは慌てて手元のスマホで「中華料理 フカヒレ 値段」と検索をかける。

検索結果に出てきた値段は想像通りどれも5000円を超えていた。


(おかしい、絶対におかしい! 量が相当少ないか、食べ終わった後に詐欺られるか、どっちだ……?)


どれだけ頭を悩ませても答えは出てこない。


メニューはシンプルなもので写真などは一切なく、メニュー名がやけに達筆で書かれているだけだった。


断りたいけれど、一度入店した手前今更逃げるわけにもいかないし……。


とにかく定食のページに戻って唸り続けていると、軽い音を立ててテーブルに水の入ったコップが置かれた。

あやめは慌ててスマホを膝の上に隠す。


「どう? メニュー決まった?」

「あ、いえ。まだ……」


男は慣れた手つきで掘りごたつのテーブルにおしぼりと水がたっぷり入ったピッチャーを置く。


「ちなみにおすすめとかってありますか?」

「んー? そうだネ……」


顎に手を添えてずいっとあやめに顔を近づけた男はそのままじーっと十秒ほどあやめを見つめた後、ぱっと顔を輝かせた。


「酢豚とかどう?」

「酢豚ですか」

「そう! だってお姉さん、とっても疲れた顔してるカラ!」


赤の他人からも疲れて見えるって相当だな。と苦笑したあやめは、目の前で朗らかに笑う男に「じゃあ酢豚定食で」と伝えた。


好的(ハオデァ)。白米も付けられるけど、どうする?」


定食の量は分からないけど、普通のボリュームであれば白米は食べられないかも。とあやめは内心狼狽える。


(断りたい……でも、お兄さんが善意で聞いてくれてるのに断るのは申し訳ないなぁ)


でも食べられなくて怒られるのも嫌だ。

どう答えるのが正解か、滅多に外食しないあやめは注文にも慣れておらず焦り始めていた。


「まずはなしにする? 食べられそうなら後から教えてくれればスグ用意するヨ」

「え、あ、はい! じゃあそれでお願いします!」

「酢豚定食一つネ。少々お待ちを〜」


あやめが答えづらそうだったことに気がついたのか、男はスムーズに代替案を口にするとあやめの了承を得て厨房に引っ込んでいった。


あやめの段取りの悪い様子にも嫌な顔ひとつせず優しく対応してくれる男に、あやめはほっと一息つく。


(最初は怪しい人だと思ったけど、意外と良い人なのかな?)


何やらガタゴトと音がする厨房を気にしつつ、あやめはぐるりと店内を見渡した。


あやめ以外に客はいない。


定食でさえ330円と激安なのに、この客の少なさはいったいなぜ? 21時過ぎという時間帯のせいか、シャッター商店街の中でひっそり営業している立地のせいか。

 

はたまたあやめの被害妄想ではなく本当に怪しい店なのか?


男がいる厨房から話し声がしないことから、他に店員がいるとも考えにくい。一人で営業してるんだろうか。


(やっぱりちょっと怖くなってきた……お兄さんイケメンだったけど、どこが掴みどころがない感じがするんだよなぁ)


あやめが再びネガティヴ思考に沈んでいく瞬間、厨房から男がひょこっと顔を出した。

 

ぼうっと厨房の方を見ていたあやめとばっちり目があった男は、軽い足取りで近づいてくる。


「はい、コレ。見たいチャンネルあったら適当に変えて良いからネ」

「あ、ありがとうございます……」

「音量も好きにいじって大丈夫ヨー」


男はそう言って円卓に置いてあったリモコンでテレビを付けると、あやめに手渡した。

咄嗟に両手でリモコンを受け取ったあやめは、そのまま厨房に戻っていく男の背中を見つめる。


(私が暇してると思ってわざわざ付けてくれたのかな? よく知りもしないでお兄さんの雰囲気だけで疑ってちゃ駄目なのに)


目が合った当初、男を怪しい人だと疑ってしまったあやめの心は途端に罪悪感で重くなる。

人のことを悪く思っちゃ駄目、良いところを見つけなきゃ……。


(原さんのことも……ってだめだ! またネガティヴになってる)


あやめはうじうじした思考に無理やり終止符を打ち、少し離れた天井から吊るされているテレビを見てみた。

流れているのは音楽番組で、どうやら人気のアイドルがドラマの主題歌を歌っているようだった。

 

アイドルに詳しくないあやめは数十秒ほどで飽きてしまい、膝の上に置いていたスマホのロックを解除する。


(スマホでお店の名前調べたら何か情報が出てくるかも)


しかし何度店内を見回しても、メニュー表をすみずみまで調べてもどこにも店名は書かれていなかった。


(マップアプリで見ても……出てこないかぁ)


現在地情報でマップ検索してみても、店は一つもヒットしない。

この商店街は、夜だからシャッターが閉まってるのではなく、過疎化に伴い次々に閉店したんだろう。


(そういえば、お兄さんが言ってた「わんしゃんはお」っていったい何だったんだ?)


先ほどあやめの挨拶に答えた男の言葉を思い出し、耳で聞こえたままを検索窓に打ち込んだ。


現れた検索結果はシンプルで「晩上好(ワンシャンハオ)は中国語で『こんばんは』を意味します」と書かれていた。


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