七月五日 金曜日 12時 (3)
19
どんどん雨脚は強まり、ざあざあと痛いほど降り注ぐ雨の中、あやめは寂れた神社で一人うずくまっていた。
商店街から十分ほど歩いた場所にある小高い山の上の、小さな神社。
あやめが引っ越してすぐこの街を散策した際に訪れたこの神社は、いつでも閑散としていた。
本殿は古いが、それなりに手入れされているようだ。
だがこんな雨の日に山の上まで登る変わり者はいないようで、ここまでの道すがら、あやめは誰ともすれ違わなかった。
会社を出てから何分経ったかも分からない。
スマホはずっと鞄の中だ。
自分のポーチや筆箱くらいしか入っていない薄いグレーの鞄は、あやめの隣ですっかり色を変えていた。
パンプスの中ももうぐちゃぐちゃだ、きっとうまく歩けない。
いつも申し訳程度にしているメイクだって、もう全部落ちているんだろう。
何も考えられなくて、考えても悪いことしか思い浮かばない気がして、ぼうっと目の前の石畳を見つめる。
鳥居の足元にうずくまったまま、あやめは動けなくなっていた。
脳内の糸が絡まりすぎて解決の糸口なんて一生見つからないんじゃないか。そう思うと、あやめは急に怖くなってきて、自分の膝に顔を埋めて体を小さく震わせた。
(気温は高くなってきた季節だけど、これだけずぶ濡れだと寒いなぁ)
分厚い雲に覆われた暗い空、大量に雨を受け続けているあやめの体はいつの間にか冷え切っていた。
◇◆◇
どれだけの時間うずくまっていたのか、長かったのか短かったのか。
時間感覚すら曖昧になってきてぼんやりしていると、止むにしてはあまりにも突然、あやめの体に雨粒が当たらなくなった。
(一体、なんだろう……?)
不思議に思ったあやめが膝から顔を上げると、石畳と男性の足元が視界に映る。
どうやらあやめに傘を差してくれているようだ。
雨や泥で汚れてしまっているサンダルと、高価そうな中華服の裾は見覚えのあるものだった。
助けを求めることも出来ないほど申し訳なくて、それでも一番縋りたかった彼が今、目の前に立っている。
(何か、言わなきゃ……)
そう思い口を開こうとするあやめだったが、冷え切った体と疲れ切った脳みそは少しも動こうとしない。
「先に言っとくけど、GPSとかそういう怪しい手口を使ったんじゃないヨ」
あやめの頭上から聞こえてきたのは予想通り、会いたくて仕方なかったシェンの声だった。
(シェンさん、一体何のことを……あ、)
初めはシェンが何のことを弁解しているのか心当たりがなかったが、あやめはふと、どうして居場所が分かったのかという話をしていることに気づいた。
(確かに、なんでこの場所が分かったんだろう)
回らない頭でぎこちなく考えていると、長い中華服の裾やズボンが汚れるのも構わずシェンはしゃがみ込み、あやめの顔を覗き込んだ。
「シェンさん、服が……」
「雨に濡れるのは嫌いじゃないけど、あやめは濡れすぎヨ。風邪ひいちゃう」
シェンは穏やかな声であやめに答えると、ゆっくりと話し始めた。
「あやめがメッセージくれた後、ワタシすぐ返信したんだけどぱったり連絡が来なくなったからおかしいなって思って。あやめはいつも、お昼休みにメッセージくれたらその後何回かはやりとりしてくれるでしょ?」
「文面でも律儀だもんネ」穏やかな声でそう言うと、雨でおでこに張り付くあやめの前髪を、シェンは優しく小指で左右に流す。
「それでなんだか胸騒ぎがしたから、電話をかけたけど繋がらなくて。まぁ、あやめ今夜お店に来るって連絡くれたから、とりあえず夜まで待とうと思ったんだけど」
シェンはそのまま滑らかな手つきで、あやめの頬に張り付いた髪を耳にかける。
「でもなぜか嫌な予感が脳裏を過ぎるから、散歩に行こうと思ったんだけど雨が降り出したデショ? だから、早く雨やまないかなーって店の二階の窓から外を眺めてたら、ずぶ濡れのあやめが歩いてきたのが見えたんだヨ」
先ほどあやめが商店街の前まで来てしまっていたのを、シェンは偶然見ていたらしい。
シェンが差してくれている傘で雨は当たらないが、肌寒い体を抱きしめるようにあやめはぎゅっと膝を抱き寄せる。
「まだ会社にいるはずのあやめが見えたから驚いたヨ。メッセージで悩んでたみたいだったから、ワタシに相談しに来たと思ったら、そのまま走ってどっか行っちゃうし?」
「はい……」
「びっくりしたんだからネ。慌てて追いかけようとしたけど、二階から降りてる間にあやめ走っていなくなっちゃうから」
「……」
「それで、歩き回ってこの神社であやめを見つけられたのは奇跡ヨ。一か八かで来た甲斐があったネ」
「……どうして、ここまでしてくれるんですか」
「だって、友達がこんなに困ってるの放っておけないヨ」
自分なんかが友達と言ってもらえる資格はない、と訴えようとしてゆるりと顔を上げると、そこにはずぶ濡れのシェンが。
「あれ、傘……」
慌ててシェンの手元を見ると傘は一つしか持っておらず、しかもその傘はあやめに差してくれているものだった。
高そうな刺繍が施された服をびしょ濡れにさせて、一つに緩く結わえた髪からも雫が絶え間なく滴っている。
雨でずぶ濡れなことに言及する間もなく、シェンは少し照れくさそうな顔をして柔らかく笑った。
「慌ててたから、傘二つ持ってくるの忘れたヨ。あやめ、ずぶ濡れでずっと外にいたらこの季節でも風邪ひいちゃう。ほら、立って」
シェンのその優しい言葉と声で、あやめは胸が苦しくなる。
「でも、私……シェンさんに優しくしてもらう資格なんか……」
そこまで言って口を噤んだあやめを見たシェンは、あやめの髪に触れていた手を離し、地面で水浸しになっている鞄を拾い上げた。
「あやめ、帰ろう」
鞄を肩にかけたシェンは、優しい言葉とは裏腹に少し強引にあやめの手を取ると立ち上がらせた。
「ちょっと失礼」と言いながら、シェンはあやめの腰に手を回して密着する。
あまりに突然の至近距離に驚き、あやめはシェンを見上げる。
「傘、片手で持ってるからくっついてないと二人ともずぶ濡れヨ。くっついてもちょっとは濡れちゃうけどそこは我慢ネ」
そう言って、半ばあやめを抱きしめるようにシェンは歩き始めた。
シェンの歩みにつられて、あやめの足ももたつきながらも歩き出す。
一つの傘を半分こしながら、ゆっくりとした歩幅で山道を下っていく。
寒さと悲しさと、シェンが来てくれた安心感で、あやめは暫くシェンに体を預けて歩き続けた。
あやめが朦朧とした意識から浮上した時には、二人はシンフーの店内にいた。
「あやめ、今日は言動が不可解だからちょっとカギ閉めとくヨ」と失礼なことを言いながら、シェンは店の自動ドアの鍵を閉める。
そのままシェンは「ちょっと待ってて」と普段使っていない奥の扉へ消えていき、数分もしないうちに手にたくさんのバスタオルを抱えて戻ってきた。
シェンは、連れてこられた時から変わらず入り口付近で突っ立っているあやめを見て目を丸くする。
「あやめ、いつもの席に座る?」
「でも、雨でびしょ濡れだから、あとから掃除するの大変ですよ……」
「確かに。こういう時も優しいネ、あやめは」
それはシェンさんの方でしょ、とあやめは心の中で呟いた。
「じゃあほら、こっち」
そう言ってあやめの手を引くと、シェンはあやめを円卓の席に座らせた後、バスタオルを頭上に乗せた。
あやめの髪の毛を優しく拭きながら、もう一枚のバスタオルをあやめの膝にそっと置く。
「体は自分で拭ける?」
「はい……」
「うん、良い子ネ」
頭に被せられているバスタオルで見えないが、シェンの優しい声が頭上から聞こえてくる。