七月五日 金曜日 12時 (2)
18
今でも残業が多いのに、原の業務を本格的に任されて、さらに来月の繁忙期の仕事もたくさん回ってくる?
脳内で出てきた答えは「どうしようもない」。という絶望的なものだった。
(断ろう、勇気を出す時だ……せめて原さんの方だけでも断れれば)
回らない頭でなんとか口を開こうとするあやめの脳内を巡ったのは、先ほどの西田の言葉だった。
(『これまでの仕事量で特に相談なかったし』かぁ、確かに……)
あやめの開きかけた口をそのままに、ぐるりと脳がネガティヴ思考を始める。
確かに以前、業務量を増やす話を打診された時も曖昧な態度をとってしまって断り切れなかった。
西田は時短勤務で、あやめの残業をほとんど知らない。
(……つまり、相談しなかった私が一番悪い)
あやめの脳内は、最悪の結論を弾き出した。
(それに西田さんは私を信頼してるって言ってくれてるんだ、信頼には答えなきゃ。……だってそうしなきゃ嫌われちゃう)
あやめが呆然と立ち尽くしていると執務室のドアが開いた。
ふと振り向くと、先輩二人はいつの間にか戻ってきていた。二人はあやめの方をちらりと見るだけで、そのままカップ麺や菓子パンに食べながらスマホをいじり始めた。
(西田さんはチームワークって言ったけど、事情を知ってるはずの先輩たちが私を助けてくれないのに、私はこれ以上残業してこの人たちを助けるの? それって本当にチームワークなの?)
あやめの心の中に、重く暗い感情が渦巻いていく。
執務室のドアを開けたのは原さんだったようで、「どうしたんですか~?」とへらへら笑いながら西田とあやめに近寄ってきた。
「ん? 今ね、市橋さんに仕事のお願いしてたのよ」
「仕事のお願い?」
「そう。原さんが『仕事量多い!』って仕事中ずっと言ってるでしょ? だから一旦市橋さんに、原さん分の仕事のいくつかをお願いすることにしたの」
「え! まじ! てことは私の仕事量減るってことっすか?」
「まあ、そうなるわね。でも! ゆくゆくはちゃんと仕事こなしていってくれなきゃ、だめだからね!」
「はーい! 市橋ちゃんまじありがとね! ラッキー!」
「もう原さん!」と頬を膨らませる西田は、どう見ても本気で怒ってるようには見えなかった。
問題児には甘い教師のようなその言動は、あやめがこれまで何度も日常で目にしたことのあるものだった。
上司のお願いも、先輩の無関心も、原のふざけた態度すら、全てがあやめをどうしようもなく悲しくさせた。
自分ではコントロールできない怒りが心の底から湧いてくるのを感じる。
だけど、あやめはそれを表に出せない。
(だって原因は、何も相談出来ていなかった私だ。相談できていたら、助けを求めていれば何か変わってたのかもしれない……でも、もう何も言えない)
楽しそうにじゃれあっている西田と原に挟まれて、あやめは呆然と立ち尽くすしかなかった。
絶望で声も出なくなったあやめは、ふらふらと自席に戻ろうと足を進めた。
(なんか、息がしづらい)
一歩踏み出したあやめの目に入ったのは何の変哲もない蛍光灯だった。
いつも見ているはずのその光がやけに眩しくて、思わず目が眩む。
目を抑えて咄嗟に下を向き、近くにあった空気清浄機に体がゆらりとぶつかり、縋るようにしゃがみこんだ。
「市橋さん大丈夫!?」あやめのすぐ後ろから、西田の焦った声が聞こえる。
原さんは状況が呑み込めていないようで「市橋ちゃんどしたん? 昼前まで普通に元気だったじゃん!」と心底不思議そうな声を出した。
西田がすぐに駆け寄ってきて、あやめの両肩を優しく掴むと体を支える。
「市橋さん大丈夫? 体ぶつけなかった? どこか痛いところとか、変なところは?」
「すみません、少し立ちくらみがして……」
あやめはなんとか立ちあがろうと足に力を入れるが、自分の体じゃないような不思議な感覚が全身を襲う。
西田はあやめの様子を心配そうに見ると、優しい声であやめに語りかけた。
「市橋さん、今日はもう大丈夫だから早退しなさい」
「……え?」
「えー! 市橋ちゃん帰っちゃうの!」
「今日も仕事お願いしようと思ってたのに」という原の小声は西田には気づかれず、西田はしゃがんであやめと目線を合わせると優しく笑った。
「だって市橋さんとっても顔色悪いもの。この土日もゆっくりして。それで早く元気になったら、これからもっと頑張ってもらわなきゃいけないんだから!」
そう言ってポンポンと軽くあやめの肩を叩いた西田に、居ても立っても居られなくなってしまう。
思考回路がまとまらない。
(相談しなかった私が悪い、でもどうして誰も気づいてくれないの、助けてくれないの)
感情が追い付かなくて、あやめの目からは涙すら出なかった。
「……はい、ありがとうございます。今日は早退させてもらいます」
あやめは感情を置き去りにしたまま、俯きながら体を動かし自席に向かった。
机の上に置きっぱなしだったスマホもハンカチも鞄に突っ込んで、デスクに入れていたポーチも鞄に突っ込む。
「お先に失礼します」と上司たちのいる方向にお辞儀をした後、あやめは自分がどうやって会社を出たのかすら覚えていない。
先ほど窓から見た時より雨脚が強まってきた町中を、貸し出し用の傘も借りず、カバンをかばうこともしないままあやめは当てもなく歩く。
涙はちっとも出てこない。
あやめの頭をぐるぐる回るのは後悔ばかりだった。
(もっと最初から相談していれば良かった)
(最初に話を持ち掛けられた時に、断れば良かった)
(私が自分の意見を、ちゃんと主張できる強い人だったら良かった……)
だけど、今さら考えたってもう遅い。
脳内で絡まりあった、後悔や不甲斐なさや嫌悪感は、もう言語化することさえ不可能なように感じた。
(私このまま、まとまらない暗い感情をずっと抱えたまま生きていくのかなぁ)
気づくと、あやめは慣れ親しんだシャッター商店街の入り口にいた。
(私、無意識に商店街まで歩いてきてたんだ)
もともと人気のほとんどないシャッター商店街は、雨脚のせいで本当に誰も見当たらなかった。
そのまま足はシェンがいるだろう中華料理屋へ向かうはずだった。
しかし、あやめの足は動かない。
(シェンさんに、どんな顔して会いに行ったらいいか分かんないよ……)
脳裏に蘇るのはあやめの事を思って、話す練習を持ち掛けてくれた優しいシェンの姿だった。
シェンはあんなに心配して力を貸してくれたのに、結局肝心な時には何にも言えなかった。
そう思うと、あやめはシェンの優しさを無下にしてしまった自分が普通の顔をして会いに行くことが不誠実な気がして、足が動かなかった。
考えれば考えるほど、脳が混乱して自分がどうしたいのか分からなくなる。
あやめはくるりと踵を返し商店街に背を向けると、土砂降りの中を走り出した。
優しい思い出の詰まったこの場所に、出来損ないの自分がこれ以上いることは耐えられなかった。