七月五日 金曜日 12時 (1)
17
あやめから無意識に零れる鼻歌は、泡まみれの手を洗う蛇口から流れる水の音でかき消されている。
シェンが帰ってきたのが今週の火曜日。
今は華の金曜日の昼休み、お手洗いであやめはご機嫌な様子。
なぜなら明日は、シェンと散歩に行く約束を取り付けた土曜日だからだ。
肘と体で器用に挟んでいたハンカチで手の水分を拭うと、鏡に映る自分のゆるんだ顔が目に映る。
お散歩を約束した日から待ちに待っていた土曜日がもうすぐそこだ。
(まずは昼ごはん食べて、午後も頑張らなきゃ!)
鼻歌を脳内にしまって、鏡に映る自分の顔を引き締める。
お手洗いを軽い足取りで出て執務室に戻るまでの道すがら、誰かの話し声が耳に入った。
聞く気はなかったあやめだが、そこそこ大きな声で話しているようで内容も丸聞こえだ。
「じゃあ今日もパーッとカラオケ行っちゃう?」
「金曜だしオールしちゃわない?」
「良いね〜!」
女性数人が今夜の予定を立てているみたいだった。
どうやらフロアの端にあるあまり人が使わない階段で話に花を咲かせているらしい。
あやめは気にすることなく執務室に戻る、はずだった。
その会話で自分の名前が出てくるまでは。
「でも原は大丈夫なわけ? あんたんとこのチーム、仕事いつもカツカツなんでしょ? うちのチームの上司が言ってたよ」
「大丈夫大丈夫! ウチの仕事は市橋ちゃんに押し付けとけば大丈夫だから!」
「市橋ちゃん? 誰だっけ?」
「パシリちゃんでしょ?」
「ちょっと、さやか! そのあだ名は会社では禁止だって! 本人に聞かれたら気まずいじゃん!」
原の冗談混じりの言葉に、一緒に話しているであろう原の友達が一斉に笑う。
聞いちゃ駄目だと分かっているのに、あやめは足を止めて原達の話に耳を澄ましてしまう。
「大丈夫だって! どうせ自席でご飯食べてるっしょ。それに地味な子だから、いっつもアンタにパシられてんでしょ? 気まずいとかないって」
原の友達の言葉に、また複数人の笑い声が聞こえる。
「まあ市橋ちゃんって仕事押し付けてもなんも言わないし、上司にもチクんないからまじ当たり引いたわ」
笑い混じりで得意げに話している原の声に、ぐっと唇を噛み締める。
(分かってたよ、良いように使われてるだけだって)
手の中のハンカチがしわくちゃになる。
(分かってたけど。それでも原さんに悪気はなくて、本当は良い子なんだと信じていたかった……)
いつも明るく話しかけてくれる原の顔を思い出そうとするけれど、脳内にリフレインするのは自分を嘲笑う彼女達の言葉だった。
(別の部署の友人と私の事を話して笑ってたんだ。私のこと裏で『パシリちゃん』って呼んでるんだなぁ……)
自分が軽んじられていることを薄らと分かっていた上でも、そのあだ名はあやめの心に傷を残した。
まだ話し続ける彼女たちの話題は、今日の仕事帰りの遊び場のことに変わっていた。
原は、あやめに仕事を押し付けることが確定したんだろう。楽しそうな声で会話に参加している。
彼女達はきっと、あやめに仕事を押し付けることも、皮肉ったあだ名で呼ぶことにも、少しの罪悪感も抱かないんだろう。
あやめは原達に気づかれないよう、その場を去るために止まっていた足を動かした。
執務室に入る前のエレベーターホールでふとシェンの顔が頭に浮かび、あやめは足を止めた。
ぼうっと執務室の中を眺めると、中に人は少ない。
大半の人はコンビニか近場のご飯屋さんに行ったんだろう。
あやめはこの辛い気持ちのまま執務室に入ったら自分の何かが壊れてしまいそうで、無意識にポケットからスマホを取り出していた。
スマホのロックを解除して開くのは、シェンとのトーク画面。
『あやめ、おはよう! 今日も仕事頑張って〜』
『お仕事お疲れ様! 睡眠しっかり取るんだヨ!』
『あやめ見て、道端に猫が落ちてたヨ。昼寝してるみたい』
そこにはシェンからのメッセージや、散歩中に撮ったであろう謎の写真が並んでいて、履歴を見返しながら意識的にあやめは口角を上げた。
私には私の、大切な友達がいるんだから。
『お疲れ様です。シェンさん、今日お店はやってますか?』
あやめがメッセージを送信してすぐに返事が送られてくる。
『お店開くつもりだヨ〜! どしたの?』
シェンは文面でも片言みたいに書くことを知った。
あやめはそれを知ってから密かに、実は隠しているだけでシェンは日本語ペラペラなのでは?と頭を捻らせている。
なぜカタコトなふりをするのか理由は分からないが、それすらシェンらしさを感じるので深く追及せず続きを送る。
『今とても悲しいことがあって、シェンさんに会いたいなって思ったんです』
そのメッセージを送信したところで、あやめの近くにある大きな窓をポツポツと雨が叩き始めた。
(あ、傘忘れちゃった……今日、雨の予報だったっけ? まあ梅雨明けはまだ先だもんなぁ……)
階段の方から未だに聞こえる笑い声。
きっと自分の話題なんかとっくに終わってるんだろうと分かっていても、あやめはその笑い声が自分の事を嘲笑っているような気がして耳を塞ぎたくなった。
お手洗いから出てきた時とは全く違う重たい足取りで、執務室のドアに向かう。その間も、さっきの原達の言葉が脳内を永遠ループする。
(だめだめ、今日はシェンさんのところに寄って帰るんだから!)
あやめは他のことを考えて、意識的に原の言葉を脳内から追いやろうとする。
(雨、明日には止むかな? 止むと良いな……)
スマホとハンカチを片手に執務室へ戻ったあやめを呼び止めたのは、上司の西田だった。
「市橋さん、昼休み中ごめんね。ちょっと来てくれるかな」
「はい!」
慌ててスマホとハンカチを自席に置いたあやめは、一応メモを持っていく。
原は階段で談笑しているし、チームの先輩二人は昼休みになった瞬間コンビニにご飯を買いに行くので、あやめのチームのデスクには西田とあやめの二人しかいない。
そこであやめが西田に伝えられた内容は、以前打診された原の分の業務を幾ばくかあやめに回すこということだった。
「それとね、」と西田はさらに言葉を付け加える。
「実は来月来る繁忙期の仕事の多くも、市橋さんに多く任せたいの」
「え……で、でも私まだ入社してすぐだし」
「大丈夫、安心して! 私や先輩がちゃんと教えるから! 最初は慣れないだろうし業務量も多くなるから残業も増えると思うけど、繁忙期だからそんな感じって思ってもらえないかな?」
「でも、原さんの分も繁忙期の仕事も両方任されると、急に業務量が増える気がして……」
あやめは、なんとか反論してみようとする。
しかし西田も一歩も引かず、あやめの良心をくすぐるような褒め言葉で押してくる。
「市橋さんいつも真面目に黙々と仕事頑張ってくれてるでしょ? だからお願いしたいんだけどダメかな?」
「えっと……」
「これまでの仕事量で特に相談なかったから、市橋さんならもう少し多く仕事任せても大丈夫だと信じてるんだけど、どうかな? 市橋さんを信頼してのお願いなんだけど……」
「チームワークの一つだと思って! ね?」
怒涛の勢いで畳みかけてくる西田に、あやめは脳内が混乱して口を噤んでしまった。