六月十三日 木曜日 21時 (3)
13
伏目がちでご飯を黙々と食べていたシェンが急に大声を出すので、あやめは驚いて思わず蓮華を落としそうになる。
「こないだワタシとあやめで断る練習してみようって言ってたけど、それより先に相談の練習した方がいいんじゃない?」シェンは得意げな顔をしてあやめを見た。
「まずは小さな相談からしていく。それに慣れたら自分の意見を出すのも苦じゃなくなっていくと思うヨ!」
「な、なるほど……!」
「ね! いいアイデアでしょ!?」
「確かにそうですね。最初から自分の意見を言ったり、断る練習をするより、相談の方がハードルも低そうだし」
シェンの意見に首を縦に振ったあやめだったが、すぐに懸念事項が頭を支配する。
「……でも私、相談するのって、誰かの事を悪く言っちゃうみたいで抵抗があります」
「でも友達同士なら愚痴りあったりするでしょ?」
「ま、まあ。普通はそうなんでしょうね」
「じゃあ別に相談じゃなくて愚痴だったとしても問題ないヨ! だってワタシとあやめは友達なんだもん!」
そう言って胸を張ったシェンを見て、あやめはあっけにとられた。
この人はなんでこんなに私に親身になってくれるんだろう。その疑問は気づかないうちにあやめの口から漏れ出していた。
「……なんでそんなに良くしてくれるんですか」
「え、だってワタシとあやめ、友達よね?」
「こないだ約束したヨ! あやめ忘れちゃったの!?」と変な部分で不安になってるシェンに、あやめは思わず笑いが溢れる。
きっとこの人は、本当に優しい人なんだ。
そう思ったらあやめは、自分が悩んでいたことが馬鹿らしく思えてきた。
「じゃあシェンさん、よろしくお願いします! でも、相談に苦手意識があると思うから、最初はうまくできないと思うんです。だから私がちゃんと相談できてるか教えてもらってもいいですか?」
「勿論! 任せて! 相談でも愚痴でも私は気にしないけど、あやめが気にするならワタシもちゃんと考えて聞くヨ!」
「ふふ、ありがとうございます」
「でも!」とあやめが、さっきシェンが出した声に匹敵する大きさで声を上げた。
目の前のシェンが「おお、急に大声出したらびっくりするヨ」と肩をわざとらしくびくつかせる。
さっきのシェンさんの大声もなかなかだったけどな、と思いつつ、あやめは続ける。
「本当に、私ばっかり手伝ってもらって申し訳ないです。ちょっと引け目を感じちゃうっていうか……」
「エ!? 友達に引け目を感じちゃうのはまずいヨ! 感じないで! 引け目!」
「そう言われたって……そうだ!じゃあシェンさんからも何かないですか? 私が手伝えそうなこと!」
「手伝えそうなこと?」
「はい! 私もシェンさんの力になれることがあれば、対等な友達になれると思うんです」
「ううん、そうだなぁ……」とシェンが眉間に皺を寄せ腕を組み真面目に考えているうちに、あやめは忘れかけていたせいろを開ける。
中にはふっくら美味しそうな小籠包が三粒湯気を立てていた。
未だに顎に手を当ててうんうん唸っているシェンを横目に、箸でそっと小籠包を蓮華の上にのせる。
調味料の醤油と酢を少し垂らして、小さくかぶりつくと、中からじゅわっと肉汁が溢れてきて、一気に蓮華が肉汁の海になる。醤油と酢の濃い味を和らげるこっくりとした肉汁をゆっくり飲み干した。
噛みついたところから中をふうふうして少し冷ますと、思い切って半分ほどガブリ。
もちもちの皮と、熱々で柔らかいタネが口の中に広がる。
(なにこれ、美味しすぎる!)
いつの間にか目の前のシェンを忘れて、小籠包に夢中になっていたあやめが感動で顔を上げると、いつからかこちらを見つめていたシェンと目が合う。
驚きで小籠包を喉に詰まらせそうになりながら、あやめは慌ててシェンに話しかけた。
「あ、えっと、すみません。考え中みたいだったから先に食べちゃってました」
「いや、良いのヨ。美味しい?」
「とっても!」
あやめの元気の良い満面の笑みでの返事に、「それなら良かった」とシェンは嬉しそうな顔で返事をした。
蓮華に残っていたもう半分も食べきると、あやめは「それで、なにかありそうですか? 手伝えること」とシェンに再び問いかけた。
「うん、手伝うっていうかお願いなんだけど……またあやめが店に来た時、一緒にご飯食べてもいい?」
「え? 今日みたいな感じですか?」
「そう! あやめとお話しするのも楽しいけど、せっかく友達になれたんだしもっと仲良くなりたい! だめ?」
まるで捨てられた子犬のような、同情を誘うような表情を向けてくるシェンに、あやめは思わず何度も頷く。
「も、もちろん! 私も一人でご飯食べるより、シェンさんと一緒に食べた方が美味しいですし」
「やった! じゃあ散歩は?」
「散歩?」
「ウン! ワタシ日中暇な時とか夜眠れない時に、散歩に行くのが好きなんだヨ」
「散歩? この商店街とか?」
この辺りは閑散としていて、周りにあるのはこのシャッター商店街か山か、寂れた神社か、少し先にある海くらいだ。
「この商店街は散歩し尽くしちゃったヨ。どこを歩くのも楽しいけど、ワタシは特に海沿いを散歩するのが好きかなぁ」
「へえ、海がお好きなんですね」
「そう。海ももちろん好きなんだけど」
そこで言葉を切ってふっと切なそうに笑ったシェンに首を傾げるあやめ。
あやめの視線に気づいたシェンは、おもむろに話し始めた。
「ワタシ自身は特に海に思い出はないけど、ワタシの母が昔よく話してくれた。母の生まれ育った町はとても綺麗な海があるところだったって」
「その話が好きだったから。この街を選んだのも、のんびりしていて海が近くにあったからヨ」と懐かしそうに続けるシェンに、あやめは相槌を打った。
今日はシェン自身の話をたくさんしてくれることにあやめは気づき、仲良くなれた証拠かなとちょっと心が温かくなる。
「素敵な思い出ですね」
「だからあやめが良ければ、一緒に散歩にも行きたいな? ここから十分も歩けば綺麗な海岸があるし、人も少なくて穴場だヨ!」
「是非行きましょう! 私もずっと残業続きで運動不足だったし、ここに引っ越してきてほとんど散歩してないから」
シェンが話してくれたプライベートなことや趣味を知れてあやめの心は弾んだ。なんだか本当に友達みたいに仲良くなれてきた気がした。
「やった! ありがとう!」
あやめの元気な声にも負けないくらい嬉しさを滲ませた声で、シェンは大きくお礼を言った。
夢中で話し込んでいるうちに、冷め始めてしまった料理を慌てて食べ終えた二人は、いつも通り会計を済ませ店の自動ドアを潜った。
今回もタッパに詰めてもらった麻婆豆腐を受け取り、あやめはシェンにお礼を伝える。
「それにしても、本当に定食代だけで良いんですか? 飲茶セットのお金はサービスしてもらっちゃって……」
「良いヨ! 最初からそういう約束だったし! それにワタシがおすすめした蒸し餃子、気づいた時には冷め切ってたしネ……」
シェンはそう言って、大きな体でくったりと項垂れる。
「でも、冷めててもとっても美味しかったですよ」
「今度は絶対熱々を食べて欲しいネ! 今日の冷めた蒸し餃子だけではワタシのプライドが許せないヨ……!」
両手で作った拳をぶんぶん振って全身で悔しがるシェンに、あやめは思わず笑いが溢れる。
「ふふ、期待してます! 今日も美味しいご飯をありがとうございました! 相談にも乗ってもらっちゃって……」
「こちらこそ! これからはあやめと一緒にご飯食べられると思ったら楽しみだヨ」
「お散歩も楽しみネー!」と大きく伸びをしながらシェンは弾んだ声を出す。
「あ! シェンさんもう夜遅いから、しーっですよ!」とあやめは慌てて口に人差し指を当てて、背伸びしながらシェンにジェスチャーした。
きょとんとした後、「うん、しーっだネ」と悪戯っ子みたいに笑ったシェンは無垢な子どもみたいに見えた。
「ただいま」と誰もいないワンルームの部屋に小さく挨拶をして、パンプスを脱ぎ捨てる。
シェンからもらった麻婆豆腐入りのタッパをいつも通り冷蔵庫に大切にしまう。
そのまま備え付けの、料理するスペースも十分にないキッチンで手を洗う。
疲れた体に鞭を打って浴室に向かい、お風呂のお湯を溜めるため風呂場の蛇口をひねった。
そのままストッキングをのろのろと脱ぎ終えたところで、帰り際の事を思い出す。
◇◆◇
「そういえば、シェンさんの中華料理屋さんは何て名前なんですか? 調べても出てこなくて」
「ああ、こっそりやってるお店だからネットで調べても何の情報も出てこないヨ。教えるのは良いけど、ネットとか他の人には言わないって約束してくれる?」
「忙しくなっても困るしネ〜、ほらワタシの料理最高に美味しいでしょ?」と自信満々なシェン。
ふざけているのかいないのか、とにかくシェンらしい理由だなと思いながら、あやめは誰にも言わないと首を縦に振った。
「『シンフー』っていうヨ」
「しんふー?」
「そう、素敵な言葉ネ」
シェンはそう言って笑うと、「明日も仕事でしょ? 夜更かしはほどほどにね」とあやめを茶化した。
「シェンさんこそ」とあやめも笑った。
「それじゃあ、おやすみなさい」
「ウン、またネ」
ひらりと手を振るシェンに会釈をすると、あやめは店を後にした。
◇◆◇
風呂場でお湯が溜まる音を聞きながら、あやめはずっと考えていた。
(「しんふー」って日本では聞いたことないけど、ワンシャンハオの時みたいに中国語なのかな?)
ふと思いついてあやめはスマホで調べてみる。
「シンフー 意味」と検索をかけると、そこには『幸福』の二文字が。それを見て思わず口元に笑みが浮かぶ。
(確かにあの料理と、シェンさんと過ごす時間は私の数少ない幸せだなぁ)
見た目は胡散臭いイケメンのシェンだが、「幸福」という率直に素敵な名前をつけるところにシェンの優しさが溢れている気がした。
二か月前、大学を卒業しここで一人暮らしをして、初めての仕事でへとへとになっていたあやめには、心休まる時間と友達が得られるなんて想像もつかなかっただろう。
明日も残業かもしれないけれど、今だけは、シェンと過ごした楽しい時間を思い出して幸せに浸るあやめだった。