六月十三日 木曜日 21時 (2)
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「お待たせ〜!」
両手いっぱいにお皿を持ったシェンが満面の笑みを引っ提げて厨房から出てくる。
「あ、何か手伝いますよ!」とあやめが席を立とうとすると、シェンは掘りごたつのテーブルにひょいひょいとお皿を乗せながらあやめを制した。
「残りは厨房の中に置いてあるから、ワタシが持ってくるヨ! だからこれ、良い感じに並べといて~」
シェンの手によって目の前に広がるたくさんの料理たち。あやめが頼んだ麻婆豆腐も目の前に置かれ、その良い香り思わず喉が鳴る。
シェンに言われた通り、湯気の立つ熱々の料理をテーブルの上に満遍なく並べていると、厨房に引っ込んでいたシェンが高く積んだせいろを持って危なげなくこちらに歩いてきた。
どう見てもせいろ二枚分ではない高さにあやめは目を見張る。
片手に高いせいろを持って尚、崩れない姿勢にシェンの体幹の良さが伺えた。
「お待たせ! さ、食べヨ!」
「わぁ……! いただきます!」
シェンはサンダルをするりと脱いで掘りごたつに入ると、定位置になりつつあるあやめの目の前に座った。
両手を合わせて挨拶をし、早速蓮華や箸を手に取るあやめとシェン。
麻婆豆腐を蓮華ですくい、ふうふうと冷ましてから大きく一口ぱくり。
(あつあつとろりで美味しい!)
口の中に広がる香辛料の辛さと、豆腐のクリーミーさ、ひき肉の甘味も相まって辛いのにいくらでも食べられてしまいそうな美味しさだ。
シェンはまだ料理に手をつけず、上目遣いであやめの様子を見つめている。
「シェンさん、美味しいです!」
あやめの嬉々とした感想を聞いてほっとした顔をしたシェンは、やっと目の前のエビチリに手をつけた。
シェンもあやめと同じように口いっぱいに料理を頬張りながら、「美味しい! ワタシ天才ネ!」と目を輝かせている。
あやめは麻婆豆腐を咀嚼しながら、シェンの様子を見ていて気づく。
(シェンさん、今日はいつにも増してテンション高いなぁ)
「どうしたの? ワタシのエビチリも食べたい?」
「あ、いえ。シェンさんいつも元気だけど、今日はより元気だなぁって思って」
じっと見つめていたあやめに声をかけたシェンは、あやめの問い掛けに目を丸くした後、嬉しそうに破顔して話し出した。
「これはワタシの夢だったから!」
「これ?」
「誰かと楽しくお腹いっぱいご飯を食べるの!」
「誰かと? 小さい時からお一人で食べてたんですか?」
あやめの何気ない質問に、シェンは少し目を伏せて沈黙した。
(やばい、聞いちゃいけないことだったのかも! プライベートのこと踏み込みすぎた……)
あやめが咄嗟に謝ろうとするより先に、シェンが口を開いた。
「ワタシ、家では大きな部屋で一人でご飯を食べてたから」
「そ、そうなんですね。変なこと聞いちゃってすみません……」
「気にしないで。話したくなかったんじゃなくてちょっと昔を思い出してただけヨ。……あの頃、周りにたくさん大人はいたけど、その人達はワタシ自身を見てはくれなかった」
初めて聞いたシェンの過去の話をあやめは黙って聞く。
「友人もそう。父が選んだ友人ばかりで、仲良くなったことはない」
今のいつでも適当で楽しそうなシェンとは程遠い、仄暗い過去の話にあやめは何も言えなかった。
「……あ、つまらない話しちゃったネ! ほら、冷める前に食べヨ!」
少し無理やりな笑顔を見せるシェンに、あやめはそれ以上深く突っ込むことはしなかった。
とにかく今は、楽しく美味しく食べることがシェンを喜ばせられるだろうと、あやめは箸を動かして「美味しい」と心を込めた感想を何度も伝えた。
「それより今日、あやめはどうだった? この時間に来たってことはまた残業?」
あやめとシェンの間に流れるぎこちない空気をぶった斬るように、シェンがさりげなくあやめに話題を振った。
「あ、はい。相変わらず……前にシェンさんが見抜いた通り、私断るのが苦手なんです」
「だから今日も原さんの仕事ほとんどやらなきゃだったし……」話しながら今日のことを思い出してどんどん声が小さくなっていくあやめに、シェンは首を傾げた。
「原さん?」
「あ、すみません! 今まで名前出してなかったですよね、同僚の子です!」
「あぁ、こないだ言ってた子ネ。今日もあやめに仕事押し付けて帰ったの、許せない!」
「先輩も手伝ってくれないし、挙句の果てに上司には……」さらに私に仕事を多く割り振ろうとしてくるし、と言いそうになって思わず口をつぐむ。
これは悪口になってしまう。あやめは人を悪く言うのがとにかく苦手だ。
急に黙ったあやめの様子に、シェンはぱちりと目を瞬かせて不思議そうな顔をした。
「あやめ、どうしたの?」
「い、いえ。今思わず悪口言っちゃったな、と。いくら疲れてるからってそんなこと言っちゃだめですよね。同僚だって本当に用事があったかもしれないし、先輩も別に私を助ける義理があるわけじゃないし……」
焦って次々と言い訳を紡ぐあやめに、シェンはまあまあと、スープを差し出してくる。
反射的にお椀を受け取って「いただきます」と熱々のスープを一口、二口飲み下す。
飲み終えたあやめは大きくため息を吐いて、肩を落とした。
「すみません、取り乱しちゃって。どうしてもこういうこと話すのが苦手で」
「苦手なことは慣れていけばいいヨ。ワタシとお話しする目的の一つでもあるわけだし」
「それに、あやめの今の話は悪口のようには聞こえなかったけど」そう言いながらシェンは長い腕を伸ばして少し遠くの炒飯を掬う。
「そ、そうですか?」
「ウン。だって同僚の原さんって子が、あやめに仕事押し付けてるのは事実でしょ? それに、あやめが入社してから先輩達が一度でも助けてくれたことあった?」
「いえ、特に思いつかないです……」
「じゃあ、先輩達が声をかけてくれたりしたことは?」
「ありません」
「それは同じチームで働く先輩として、後輩のフォローができてない状態ヨ! あやめが不安になって誰かに話したくなるのも当然ネ」今度は野菜炒めに箸を伸ばしながら、シェンは真面目な顔であやめを見つめた。
視線は自分を見てるのに、手はノールックで料理に向かってるの器用だなぁ。と変なところで感心しているあやめにテーブル越しに顔を近づけたシェンは念押しをする。
「あやめのさっきのは、悪口じゃなくて、相談!」
「相談?」
「そう! あやめ、きっと相談も苦手でしょ?」
「う……はい。私の両親は、私が誰かを少しでも悪く言うととても怒りましたから」
「そっか」
シェンは静かな声であやめにそう返すと、回鍋肉を口に運んだ。
「ワタシの親もあやめの親も、ちょっと変わり者ネ。私達、お揃いヨ」とシェンは苦笑いをして、再びエビチリを口に入れ静かに咀嚼し始めた。
1人でご飯を食べて、お父さんが選んだ友人としか付き合えなくて。シェンさんはきっと小さい頃から一人で寂しい思いをしたんだろうな。とあやめはシェンの過去を想像した。
過干渉な親元で育ったあやめは、シェンの気持ちを全て理解することはできないけど、あやめとはまた別の辛い気持ちを抱えているような気がした。
「あ! ワタシ良いこと思いついたヨ!」
「え!? 急にどうしたんですか!?」