六月十三日 木曜日 21時 (1)
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「お疲れ様でした」
21時過ぎの執務室に残っている数人に会釈をして、あやめはエレベーターホールへ向かう。
結局あの後、同僚の原はスマホを触り続け、残っていた仕事のほぼ全てをあやめが引き受けることになった。
「ほんとごめん! まじありがと!」と悪びれもせず言いながらぴったり17時に定時退社していった姿には、いっそ清々しささえ感じられた。
先輩たち二人も各々の仕事を終わらせて18時にはぶっきらぼうな、「お先です」という挨拶とともに退勤していった。
相変わらず不定休らしいシェンさんのお店は今日もやっているだろうか。あやめはエレベーターを待ちながら考える。
あやめは仕事帰りの平日夜遅くにしか行かないので詳しくは分からないが、基本的にあやめが行く時はいつも開いていた。
どこにも止まらずスムーズに昇ってきたエレベーターに乗り込んで1階のボタンを押す。
(今日は何を食べようかなぁ。いつもは定食だけどプラス200円の飲茶セットも気になるし……)
憂鬱な気持ちが消えたわけではないが、これからシェンの温かい手料理を食べられると思うとそれだけで気持ちが軽くなる。
一ヶ月ほど通っているので、王道メニューは大方注文したが、あやめが特にお気に入りなのはエビチリだった。
エビが好きなのと、シェンと友達になれた思い出補正もあるからだろうか。
会社の自動ドアを潜ってすっかり暗い外に出る。もうジャケットがなくても大丈夫な季節だ。
(今日はエビチリかなぁ、でも辛い物でもいいな。麻婆豆腐とか?)
通い慣れた道を疲れた体を引きずって、それでも気持ちはほんのり浮き足立っている。
最初に商店街を通った時とは大違いの自分にあやめは心のどこかで驚いていた。自分がこんなに何かに楽しみを見出せる人間だったとは知らなかった。
きっとシェンの料理のおかげもあるだろうし、話し合える友達が出来たからというのも大きいだろう。
友達になって以降もシェンは変わらない笑顔で迎えてくれる。
相変わらず店にはあやめ以外の客は来ないけど今日のおすすめだったり、つけっぱなしのニュースを見て雑談を交わしたりする時間は穏やかな心休まるひとときだ。
さらには、今まで誰にも話せなかった「今日は疲れた」とか「こういうことがあって悩んでいる」とか、そういう小さな悩みをシェンに話せるよう練習してるのも大きいだろう。
どんなに小さなことでも、誰かに聞いてもらえるだけで心が軽くなるんだとあやめは強く実感していた。
まだ自分から話すことは苦手でシェンがさりげなく会話を引き出してくれたり、上手く話せなくても優しく待っていてくれる優しさに存分に甘えながら、あやめは少しずつ自分の話ができるよう努力を重ねていた。
とにかく疲れ切ってへとへとの日には、デザートの杏仁豆腐を多めにサービスしてくれたりするので、あやめは最近杏仁豆腐の美味しさに気づき、スーパーでも出来合いの杏仁豆腐を買ってしまっている。
杏仁豆腐漬けの日々だ。もちろん一番美味しいのはシェンが出してくれる杏仁豆腐だけど。
(シェンさんにはいつもお世話になりっぱなしだなぁ。いつか絶対何かしらお礼しなきゃ)
いつもあやめが必死に感謝を伝えるたびに、シェンは「友人の力になれてることが何より嬉しいヨ」といつも掘りごたつの前の席でにこにこあやめの食事を見ていた。
いつもどんな気持ちで食事シーンを見てるんだろう。ペットの餌付けとかだろうか?
シェンのことを考えながら歩いていればすぐに夜のシャッター商店街に着く。一つだけ明るく光る中華料理屋が見えてきて少し足早になる。
(やった、今日も開いてるみたい!)
大きな窓から中を覗くが、シェンは見当たらない。
出入り口の自動ドアの前に立つと、「営業中」という達筆な手作り札がかかっている。シェンの字だろうか?
手作り札の字の綺麗さに気を取られながら店に入ると、自動ドアの上に付いているベルの音に気づいたシェンが厨房から顔を覗かせた。
「あやめ! 今日もお疲れ様!」
いつもの、どこか胡散臭いけれど優しい笑顔で出迎えてくれるシェン。
「シェンさんも、お疲れ様です」と挨拶をしながら、あやめはいつもの掘りごたつ席に向かう。
別に他の席でも良いのだが、なんとなく今更変える気にもならなくてずっと同じ席だ。
パンプスを脱いで揃え、鞄を座敷におろして一息ついたところでシェンが厨房からおしぼりと水を持って現れた。
「あやめが来てくれて嬉しいヨ〜! 今日は何食べる?」
「う〜ん……実は飲茶セットが気になってたんですけど」
「飲茶美味しいからおすすめだヨ!」
「でも、いつも定食の量でも持ち帰ってるから、セットを食べきれる自信がなくて……」
「あ、そういえば前回のタッパです。ありがとうございました」と鞄の中のタッパを思い出し、シェンに渡す。
「毎回綺麗に洗ってくれてありがとネ〜」とシェンは恭しく両手で受け取った。
シェンはタッパを左手に持ち直すと、右手で顎を触りながら「うーん」と唸った。
それからちらりとあやめを見ると、ぱっと大きな体を縮こませて掘りごたつのテーブルに手を置いた。
自然と上目遣いになるシェンは、そのまま小首を傾げてあやめに問いかけた。
「もし良かったらワタシも一緒に食べていい?」
「え、良いですけどどうして急に?」
「だって、そうしたら飲茶セットを頼んでも残す心配ないよ! もちろんお題は定食代しかもらわないから安心して!」
シェンはそう言って、テーブル越しにますますあやめに体を近づけた。
飲茶セットは、定食メニューにプラスで二枚せいろがつく。せいろ一枚につき三粒天心がつくのだ。
天心も小籠包や水餃子、蒸し餃子など種類豊富だ。
(飲茶セットを頼んだとしても530円で格安だから、払っても全く問題ないんだけど……でも折角だしお言葉に甘えようかな)
「私は大歓迎です!」
「本当!? 実は今日夕飯食べ損ねてお腹ぺこぺこネ」
これまでシェンはあやめが食べるところを見るだけで一緒に食べることはなかったが、一方的に見られながら食事をするよりは一緒に食事をしている方が緊張感も少ないだろうと、あやめはすぐに了承する。
シェンはあやめの返事に満面の笑みを浮かべると、子どものようにぴょんとその場で飛び跳ねた。
「友達と楽しく料理食べるのなんて初めてヨ! すぐ作ってくるネ! あやめ、定食は何にする?」
「うーん、じゃあ麻婆豆腐で!」
「好的! 飲茶セットのせいろは何が食べたい?」
「小籠包が好きなので一つはそれで! もう一つは……シェンさんのおすすめってありますか?」
「ワタシのおすすめかぁ。蒸し餃子はどう?」
「じゃあ小籠包と蒸し餃子でお願いします!」
「好啊! 今日も美味しい料理を楽しみにしてて!」
あやめの言葉に、シェンは綺麗な白い歯を見せて楽しそう笑うと、足取り軽く厨房に入っていった。